第24話:静かなサイン
教室には、黒板をこするチョークの音が響いていた。
「……だから、この公式は五十二番の問題にも出てくるんだ」
佐々木先生の声は落ち着いていて、一定の調子のまま黒板に書き続けていた。
教室は比較的静かだった。
ノートを取っている生徒もいれば、ただ聞いているふりをしているだけの生徒もいる。
窓際の席で、葵は頬杖をつきながらノートに説明を書き写していた。開いた窓からやわらかな風が入り、カーテンを優しく揺らしている。
そのときだった。
ふと、違和感に気づいた。
数列前の席で、花恵が時々顔を上げている。
けれど——黒板ではない。
その視線は、さりげなく……拓海の方へと向けられていた。
葵は瞬きをする。
(……え?)
花恵はいつも通りに見える。
背筋も伸びていて、表情も落ち着いている。
それなのに、時々……視線だけが彼の方へ戻っていた。
葵は声をかけようかと思ったが、やめた。
(気のせいかな……)
再び前を向く。
しかし、そのとき——
妙な感覚がした。
誰かに見られているような。
葵はゆっくりと顔を横に向ける。
そして——
蒼真と目が合った。
彼は、まっすぐ葵を見ていた。
葵は瞬きをする。
蒼真は、ほんの少しだけ手を上げた。
小さな仕草。
控えめなサイン。
葵は眉をひそめる。
(なに……?)
戸惑いながら、少し頬を膨らませて——親指を立てて返した。
その瞬間、蒼真の目が大きく見開かれる。
完全に予想外だったらしい。
葵もすぐに気づいて——
一気に顔が赤くなった。
慌てて両腕でバツ印を作り、ぶんぶんと首を横に振る。
蒼真は一瞬それを見つめてから、
ふっと小さく笑った。
そのとき——
「授業に集中しなさい」
佐々木先生の声が教室に響いた。
視線はまっすぐ葵に向けられている。
「これはテストに出るぞ」
葵は固まった。
「あ……」
慌てて前を向く。
顔はまだ少し赤いままだ。
隣では、ひなが笑いをこらえている。
「笑わないで、ひな……」と葵が小声で言う。
ひなはさらに小さく笑った。
「ふふ……」
その後の授業は、いつも通りに進んだ。
説明。
板書。
そして、こっそりとした居眠り。
やがて——
昼休みのチャイムが鳴った。
生徒たちは立ち上がり始める。
拓海が最初に立ち上がり、その後に美咲が続いた。
二人はそのまま教室を出ていく。
数列後ろから、蒼真が声をかけた。
「ちょっと行ってくる」
葵は軽く振り向く。
「うん……わかった」
隣では、美桜とひなが意味ありげに目を合わせていた。
「ふーん……」
美桜が微笑む。
「やっとだね」
葵は瞬きをする。
「何が?」
ひながくすっと笑う。
「なんでもないよ」
美桜はカバンを開いた。
「今日はお弁当持ってきた」
ひなが立ち上がる。
「じゃあ、私は下で食べてくるね」
美桜はドアの方を指さした。
「さっさと行きな」
ひなは大げさに顔をしかめる。
「ひどいなぁ」
葵は笑った。
「ははっ」
ひなは教室を出ていった。
そのあとすぐに、松田と山田も立ち上がる。
「アンパン買いに行こうぜ」
二人は一緒に出ていった。
美桜は山田の背中を目で追う。
口元には、ほんのわずかな笑み。
葵はそれに気づいて、背筋に少し寒気が走った。
「美桜……」
「なに?」
葵は少し迷ってから言った。
「昨日……帰りに……」
「美桜と山田くん、見かけて……」
美桜は彼女を見る。
葵は続けた。
「ちょっとだけ聞こえちゃって……背が高い人が好きって……」
視線を落とす。
「ごめん、盗み聞きして」
美桜は少し黙ってから、片眉を上げた。
「そういうタイプなんだ?」
葵は慌てる。
「ち、違う!ごめん、そんなつもりじゃ——」
美桜は吹き出した。
「ははは!」
手をひらひら振る。
「いいって」
「そんなの、どうでもいいし」
葵は瞬きをした。
そのとき——
蒼真が戻ってきた。
アンパンを手に持っている。
彼は葵の隣に座った。
「よう、神崎さん……」
少しだけためらって、
「……葵ちゃん」
一瞬、静寂が落ちた。
葵の目が見開かれる。
美桜も同じだった。
蒼真は平然を装いながらパンをかじる。
けれど、二人はじっと彼を見ている。
数秒後——
「あ、あの……お、おはよう、蒼真くん……」
その瞬間——
「ごほっ!」
蒼真がむせた。
葵は慌てて背中を軽く叩く。
「大丈夫!?」
「だ、大丈夫……」
美桜はその様子を見て、くすっと笑った。
「二人きりにした方がいい?」
二人は同時に叫んだ。
「違う!」
顔を見合わせて、真っ赤になる。
そしてまた無言で食べ始めた。
美桜はため息をつく。
「甘すぎるんだけど」
彼女は立ち上がった。
「どこ行くの?」と葵。
「ジュース買ってくる」
ドアに向かいながら、
「ひなもそろそろ戻るでしょ」
そう言って出ていった。
教室には、葵と蒼真だけが残った。
蒼真は静かにパンを食べている。
けれど、何度もドアの方を見ていた。
まるで、誰かを待っているみたいに。
葵は気づく。
「蒼真くん……」
彼は少し驚いた。
「な、なに?」
葵は少し笑う。
「さっきの……呼び方」
少し間を置いて、
「なんか、違ったなって」
蒼真は緊張する。
「嫌だった?」
葵はすぐに首を振る。
「ううん!」
優しく笑う。
「ちょっとびっくりしただけ」
「でも、嬉しかった」
首をかしげる。
「蒼真くんは?」
彼は目をそらした。
「……うん、俺も」
少しの沈黙。
そして——
「土曜日、何するの?」
葵は食べ終えながら答える。
「お母さんと海に行くの」
蒼真は少し驚いた顔をした。
そして、ほんの少しだけ落ち込んだように。
「へぇ……海か」
少し考えてから、
「どこの海?」
「星砂」
蒼真の目が見開かれる。
「マジで?」
「うん、なんで?」
彼は頭をかく。
「親戚があの辺に住んでてさ」
「誘われてたんだけど……やめようかと思ってた」
「……正直、まだ迷ってた」
葵は微笑む。
「じゃあ来なよ」
小さく笑う。
「みんなで行けたら楽しそう」
蒼真は瞬きをする。
「みんな?」
「うん。美桜とひなも来るし」
「ひなの家族も」
蒼真は少しだけ笑った。
「……そっか、みんなか」
葵は首をかしげる。
「じゃあ行く?」
「う、うん!もちろん!」
彼は笑った。
「じゃあ……土曜日、会おう」
葵は少し眉をひそめる。
「でも迷ってたんでしょ?」
蒼真は少し迷ってから言う。
「前にちょっと嫌なことがあってさ……」
彼女を見る。
「でも……みんながいるなら」
「ちょっと楽しみになってきた」
葵は微笑んだ。
「じゃあ決まりだね」
少し考えてから、
「美桜も迎えに行けるか、お母さんに聞いてみる」
「気分転換、必要そうだし」
蒼真はうなずく。
「そっか……」
そのとき、美咲が教室に入ってきた。
花恵がすぐに彼女を窓際に連れていく。
葵は蒼真を見る。
「ねえ、蒼真くん」
「ん?」
葵は深呼吸をする。
「なんで……」
少し間を置いて、
「最近、美咲ちゃんと仲良いの?」
蒼真はまたむせた。
「ごほっ!」
「アンパン気をつけて!」
彼は落ち着いてから言う。
「その……」
「コスプレ好きらしくてさ」
「俺、コンテスト出たことあるから」
「それ見せたら……」
「それから色々聞かれて」
言いかけて止まる。
葵が見ていた。
目を輝かせながら。
蒼真は瞬きをする。
「葵も……好きなの?」
葵は少し照れる。
「う、うん……」
「見るのが好き」
「なりきってる感じがすごくて……」
はっとして、
「しゃべりすぎだよね」
蒼真は首を振る。
「全然」
「俺も好きだから」
少し身を乗り出す。
「イベントとか行ったことある?」
葵は首を振る。
「ない……」
蒼真は少し考える。
「ひなは好きだと思ってた」
「一緒に行けばいいのに」
葵は苦笑する。
「ひなはゲームだけ」
「イベントはあんまり」
小さくため息。
「一人で行くのはちょっと……」
蒼真は息を吸う。
「じゃあ一緒に行こう」
「来月あるんだ」
葵の目が輝く。
「ほんとに?」
「うん」
彼は真っ直ぐ彼女を見る。
「一緒に行く?」
葵は口を開いた。
「うん、行き——」
「いいねそれ!」
後ろから美咲が顔を出した。
「三人で行こうよ!」
蒼真はゆっくり振り向く。
「……聞いてた?」
美咲は笑う。
「最後だけね」
「ごめん」
葵は少し照れながら笑った。
「大丈夫……」
ここまで読んでくれて、本当にありがとうございます。
この章は、言葉にならない気持ちや、さりげない視線や距離を描いた回でした。
もし気に入っていただけたら、ぜひ感想や評価をいただけると嬉しいです。
それでは、また次の話で。




