第23話――小さな距離
黒板にチョークが走る音が、教室に静かに響いていた。
「……だから、この公式は五十二ページの問題でも出てくる。」
佐々木先生の声は落ち着いていて、一定のリズムで続いている。
教室は比較的静かだった。
ノートを取る生徒もいれば、ただ聞いているふりをしているだけの者もいる。
窓際の席で、葵は頬杖をつきながらノートを書いていた。
開いた窓から柔らかな風が入り、カーテンをゆっくり揺らす。
そのとき、ふと気づく。
数列前の席で、花恵が時々顔を上げている。
でも黒板を見ているわけじゃない。
その視線は――さりげなく、拓海の方へ向いていた。
(……え?)
葵は小さく瞬きをする。
花恵はいつも通りだ。
姿勢も整っていて、表情も穏やか。
それでも、何度か視線が拓海に向く。
(気のせいかな……)
そう思い、葵は前を向き直る。
――だが、その直後。
違和感。
誰かに見られているような感覚。
ゆっくりと顔を横に向けると――
蒼真と目が合った。
彼は、まっすぐ葵を見ていた。
葵は瞬きをする。
蒼真は少しだけ手を上げ、小さく合図を送る。
(……なに?)
葵は戸惑う。
意味がわからない。
とりあえず――
少し口を尖らせて、親指を立てる。
蒼真の目が大きく見開かれた。
完全に予想外だったらしい。
(あっ……!)
葵は一気に顔が赤くなり、慌てて手でバツ印を作り、首を横に振る。
蒼真は少しだけ見つめてから――
くすっと、小さく笑った。
その瞬間。
「授業に集中しなさい。」
佐々木先生の声が教室に響く。
葵の方を見ていた。
「これはテストに出るぞ。」
葵は固まる。
「……あ、はい。」
慌てて前を向く。
頬がほんのり赤い。
隣では、陽菜が笑いをこらえている。
「……笑わないで、陽菜。」
小声で言う。
「ふふ……」
陽菜はさらに小さく笑った。
――その後の授業は、特に何事もなく進んだ。
説明、ノート、そして時折の居眠り。
やがて――
昼休みのチャイムが鳴る。
生徒たちが一斉に立ち上がる。
クマが最初に席を立ち、
美咲もそれに続いて教室を出ていく。
そのとき、後ろの席から蒼真が声をかけた。
「ちょっと行ってくる。」
葵は振り返る。
「あ、うん。」
隣で、実央と陽菜が意味ありげに視線を交わした。
「ふーん……」
実央がにやりと笑う。
「やっとって感じ。」
葵は首をかしげる。
「何が?」
陽菜はくすっと笑うだけ。
実央はバッグを開けた。
「今日はお弁当持ってきた。」
陽菜が立ち上がる。
「じゃあ私、一人で下行くね。」
「早く行きな。」
陽菜はわざとらしく肩を落とす。
「ひどいなあ。」
葵は思わず笑った。
「はは……」
陽菜はそのまま教室を出ていく。
少しして、蓮と山田も立ち上がる。
「アンパン買いに行こうぜ。」
二人は並んで出ていった。
実央は山田の背中を目で追い、ほんの少しだけ微笑む。
それに気づいた葵は――
冷や汗。
「み、実央……」
「なに?」
葵は少し迷ってから言う。
「昨日、帰るとき……山田くんと一緒にいたよね。」
実央が視線を向ける。
葵は続ける。
「背が高い人がいいって話……ちょっと聞こえちゃって。」
視線を落とす。
「ごめん。」
実央は一瞬黙って――
片眉を上げる。
「へえ、そういうタイプなんだ。」
「ち、違うの!ごめん!」
葵が慌てると――
実央は吹き出した。
「ははっ、冗談。」
手をひらひらさせる。
「別に気にしてない。」
葵は瞬きをする。
そのとき、蒼真が戻ってくる。
手にはアンパン。
葵の隣に座る。
「よ、神崎さん……」
少し間を置いて。
「……葵ちゃん。」
――沈黙。
葵の目が大きく見開かれる。
実央も同じ反応。
蒼真は平然を装ってパンを食べ始める。
だが、視線はどこか落ち着かない。
数秒後――
「あ、あの……蒼真くん……」
その瞬間。
「ごほっ!」
蒼真がむせる。
「だ、大丈夫!?」
葵が慌てて背中を叩く。
「大丈夫……大丈夫。」
実央はその様子を見て笑う。
「私、席外した方がいい?」
二人同時に。
「「いや!!」」
顔を見合わせて赤くなる。
そのまま無言で食べる。
実央はため息。
「甘すぎ。」
立ち上がる。
「ジュース買ってくる。」
教室を出ていった。
――残されたのは二人。
蒼真は黙ってパンを食べながら、時々入口を見る。
誰かを待っているように。
葵はそれに気づく。
「……蒼真くん?」
「な、なに!?」
びくっとする。
葵は少し笑う。
「呼び方、びっくりしただけ。」
蒼真は緊張する。
「嫌だった?」
「ううん。」
葵はやわらかく笑う。
「嬉しかった。」
少し首をかしげる。
「蒼真くんは?」
視線を逸らして。
「……俺も。」
また沈黙。
少しして、蒼真が聞く。
「土曜日、何するの?」
「お母さんと海。」
「どこの?」
「星砂海岸。」
蒼真が驚く。
「マジ?」
葵が笑う。
「来る?」
「……行く。」
少し間を置いて。
「みんなも来るし。」
「みんな……か。」
少しだけ複雑な表情。
「嫌?」
「いや。」
軽く笑う。
「楽しみ。」
葵も微笑む。
そのとき――
美咲が教室に入ってくる。
花恵がすぐに声をかける。
葵は蒼真を見る。
少し息を吸って――
「ねえ……蒼真くん。」
「ん?」
「最近、美咲ちゃんと仲いいよね。」
「ごほっ!」
またむせる。
葵が背中を叩く。
蒼真は説明する。
「コスプレの話で……」
葵の目が輝く。
「私も好き。」
蒼真が驚く。
「マジで?」
「うん。でもやったことない。」
少し恥ずかしそうに。
「見るのが好き。」
蒼真は笑う。
「じゃあ、一緒にイベント行こう。」
葵の目がさらに輝く。
「ほんと?」
蒼真は少し緊張しながら。
「……一緒に行く?」
葵が口を開いた瞬間――
「いいね!三人で行こう!」
後ろから美咲。
蒼真はゆっくり振り向く。
「……聞いてた?」
「ちょっとだけ。」
葵は苦笑い。
「まあ……いいかな。」
――
その後、実央と陽菜が戻ってくる。
「何の話?」
葵が答える。
「コスプレの話。」
蒼真は一瞬、過去を思い出す。
誰かに笑われた記憶。
だが――
「楽しそうじゃん!」
実央が笑った。
蒼真は目を見開く。
陽菜は肩をすくめる。
「私は人混み苦手。」
でもスマホを見せる。
「でもここでしか王子様に会えないし。」
葵は驚く。
「行ったことあるの?」
「一回だけ。」
そのとき――
実央のスマホが震える。
画面を見る。
表示された名前。
神崎一郎
メッセージ:
「今日、会おう。母さんのところに行く。」
実央の笑顔が消える。
目を細める。
スマホを強く握る。
「……何なのよ、父さん。」




