第19話 ― 言いかけて、届かなかった言葉
廊下はほとんど人がいなかった。
ほとんどの生徒はすでに部活や午後の活動に向かっている。
高い窓から差し込む陽の光が、磨かれた床に金色の四角を描いていた。
遠くの廊下から、かすかに足音が響いてくる。
でも、この場所には――
葵と蒼真、二人だけだった。
数歩の距離をあけて向かい合う。
葵はまっすぐ彼を見つめている。
蒼真はわずかに視線を逸らしながらも、何度も彼女の目へと戻ってしまう。
まるで、目を離せないかのように。
二人の間に流れる沈黙は、重かった。
葵は小さく息を吸う。
「……あの、話があって」
蒼真は後頭部をかいた。
「えっと……俺、ちょっと用事が――」
言い終わる前に、葵は長く息を吐いた。
何かを決めたような、そんな息だった。
「こういうの、あまり好きじゃなくて……」
ぎゅっと手を握る。
「それに、普通ならこんなこと聞かないと思う」
蒼真は少し眉をひそめる。
「こういうのって?」
首をかしげる。
「何を?」
葵は一度視線を落とした。
そして、覚悟を決めたように顔を上げる。
「……あのね」
一瞬、言葉が止まる。
「ううん……」
小さく息を吸って、
「私、何かした? 山本くんに」
蒼真は黙った。
廊下の静けさが、さらに深くなる。
数秒。
「……なんでそう思うんだ?」
葵は少し迷いながらも答える。
「わからないけど……」
指先に力が入る。
「なんとなく……」
彼を見つめる。
「距離がある気がして」
蒼真はしばらく何も言わなかった。
やがて、少し顔を横に向ける。
「気にしなくていいよ」
ポケットに手を入れる。
「普通だし」
間。
そして、小さな声で続ける。
「……ていうか、さ」
視線を戻す。
「他の男と、ああいう距離で話してていいのか?」
葵は瞬きをする。
「え?」
「他の男?」
蒼真は短くため息をついた。
「とぼけるなよ、坂本」
歩き出す。
「さっき、結構親しそうにしてたじゃん」
彼女の横を通り過ぎながら、
「じゃあな」
葵はその場に立ち尽くした。
頭が追いつかない。
「他の男……」
その言葉が、何度も繰り返される。
誰のこと?
そのとき、ふっと思い浮かぶ顔。
武雄の笑顔。
葵は小さく跳ねた。
「あ……武雄!」
少し先を歩いていた蒼真が、振り向かずに言う。
「へぇ」
「ちゃんと名前あるんだな」
「待って!」と葵は駆け寄る。
彼の前に立ち、少し息を弾ませながら言う。
「武雄くんは幼なじみなの!」
言葉が少し早くなる。
「昔から一緒で……それで……」
一瞬、声が止まる。
「お父さんが……いなくなったときも……」
沈黙が落ちる。
葵は視線を落とし、指を強く絡める。
蒼真は目を少し見開いた。
「……あ」
気まずそうにする。
「ごめん……お父さんのこと……」
葵は顔を上げる。
「え?」
蒼真は慌てて姿勢を正す。
「い、いや、なんでもない!」
頭を振る。
そして少しだけ頭を下げた。
「悪かった、坂本」
視線を逸らす。
「彼氏かと思ってた」
小さく息を吐く。
「変に関わるのもどうかと思って」
葵は慌てて手を振る。
「い、いつも通りでいいから」
蒼真は少しだけ頷く。
「ああ……わかった」
二人は、少しだけ笑った。
ほんの小さな、ぎこちない笑顔。
でもさっきより――ずっと柔らかい空気。
しばらくして、蒼真が口を開く。
「坂本」
「うん?」
少し喉を鳴らす。
額に、うっすら汗。
「……言いたいことがある」
葵は首を傾げる。
「いいよ」
「なに?」
蒼真は深く息を吸う。
「その……」
拳を握る。
「同情してほしいわけじゃないけど……」
葵を見る。
「俺のせいで、お前の――」
「葵ちゃーん!」
廊下に声が響いた。
二人は同時に振り向く。
武雄が走ってくる。
「早く来ないと練習始まるぞ!」
葵は目を見開く。
「あっ!」
額に手を当てる。
「遅刻!」
蒼真を見る。
「さっきの、何?」
蒼真は視線を落とす。
閉じていた拳が、ゆっくりほどける。
「……また今度」
静かに言う。
「そのうち話す」
葵は小さく笑った。
「うん」
蒼真は頷く。
「またな、坂本」
「またね!」
葵は振り返る。
「行こ、武雄くん!」
先に歩き出す。
武雄は蒼真の横で止まる。
じっと見る。
「葵の友達?」
蒼真は短く答える。
「ああ」
武雄は笑う。
「藤本武雄だ」
軽く会釈する。
「君は?」
蒼真も同じように返す。
「山本蒼真」
数秒の沈黙。
武雄は気軽に言う。
「じゃあな、山本」
二歩進んで止まり、振り返る。
「あ」
蒼真が顔を上げる。
武雄は笑った。
「そろそろ名前で呼んでやれよ」
蒼真は瞬く。
「え?」
武雄は肩をすくめる。
「ニックネームでもいい」
軽く笑う。
「葵、信頼してるっぽいし」
ポケットに手を入れる。
「長い付き合いだからな」
そう言って歩いていく。
「ヤマくん、とかでもいいかもな」
蒼真はその場に立ち尽くす。
眉を寄せる。
小さくつぶやく。
「名前で……?」
葵が去った方向を見る。
そして、無意識に――
「……葵」
その言葉は、静かな廊下に溶けていった。
言葉にした時ではなく――
言えなかった時にこそ、何かが変わるのかもしれません。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




