第17話 ― 少しずつ離れていく距離
教室には、朝特有のやわらかなざわめきが残っていた。
右側の大きな窓から差し込む光が、淡い木の床に細長い影を落とす。光の中では、小さな埃がゆっくりと舞い、まるで時間が少しだけ緩やかに流れているようだった。
ノートを開く音。
椅子が床をかすめる音。
授業前の何気ない会話。
どこにでもある、いつもの朝。
その中で、葵は静かに席を立った。
小さく息を整える。
それは何でもない動作のはずなのに、どこか覚悟のようなものがにじんでいた。
そして歩き出す。
足取りは落ち着いている。
けれど、その瞳の奥にはほんの少しだけ緊張が宿っていた。
隣では、陽菜が軽やかな足取りでついてくる。
二人は、美咲と蒼真のいる机の前で止まった。
陽菜は机に手をつき、明るく笑う。
「おはよう、みんな! 私の一番好きな魔法使いは元気?」
美咲は一瞬固まり、すぐに顔を赤くした。
「や、やめてください…高瀬さん…」
陽菜はじっと彼女を見つめる。
そして、くすっと笑った。
「陽菜でいいよ」
「それと、“新井”って呼んでもいい?」
美咲は戸惑ったように目を瞬かせる。
「え…?
そ、そう呼ぶんですか…?」
「もちろん」
迷いのない返事だった。
美咲は小さく息を吸い込み、勇気を振り絞るように言う。
「ひ、陽菜ちゃん…」
胸の奥で、恥ずかしさが広がる。
(ああ…恥ずかしい…)
陽菜は満足そうに笑った。
「いいね、新井ちゃん」
その隣で、葵もやわらかく微笑む。
「私のことも葵でいいよ…新井ちゃん」
美咲は少し照れながらうなずいた。
「あ…うん…
あ、葵ちゃん」
教室の反対側では、美緒がその様子を眺めていた。
ほんのわずかに口元を緩める。
机の前に戻り、葵は蒼真へと視線を向けた。
ほんの一瞬、ためらうようにしてから—
「お、おはよう…山本くん」
蒼真の笑みがわずかに薄れる。
表情は穏やかなまま。
けれど、どこか距離があった。
「おはよう…坂本」
それは普通の返事だった。
けれど、どこか引っかかる。
葵は小さくまばたきをする。
(あれ…?
普通…だよね)
そのとき、美咲が蒼真に向き直った。
「それで…あの映画ってどうなるんですか?蒼真くん」
その瞬間だった。
葵の中で、何かがずれた。
視界がわずかに広がる。
周囲の音が遠くなる。
会話も、椅子の音も、足音も—
すべてがぼやけていく。
ただ一つだけ、はっきりと残った言葉。
――蒼真くん。
思考が揺れる。
(え…?
なんで今の…
こんなに変に感じたの…?)
「葵」
「葵」
「葵!」
びくっと肩が跳ねる。
「えっ!? な、なに!?」
陽菜がじっと見ている。
蒼真も少しだけこちらを見た。
「ん?」
陽菜はすぐに笑ってごまかした。
「もうすぐ授業だよ」
そして美咲に向かって言う。
「続きはまたね、新井ちゃん、山本くん」
そのまま葵の腕を軽く引いた。
「行こ、葵ちゃん」
葵はうなずいた。
胸に残る、小さな違和感を抱えたまま。
数分後、全員が席についた。
陽菜が身を寄せてくる。
「さっきの何?」
「え?」
「なんか、別の世界にいたみたいだったよ」
「そ、それは…」
言いかけた瞬間—
前の方から声がした。
「おかしいな…リクがまだ来てない」
松田蓮だった。
どこか落ち着かない様子で教室を見渡している。
葵と陽菜は空席に目を向けた。
「山田くん…」
「何か知ってる?」と陽菜。
蓮は軽く手を振る。
「いや、全然。
あいつ遅刻するタイプじゃないし」
そのとき—
ガラッ
ドアが開いた。
山田陸が入ってくる。
ドアを閉めたあと、一瞬だけ立ち止まる。
何かを忘れたように。
そしてゆっくり歩き出した。
視線は床に落ちたまま。
途中で一瞬だけ顔を上げる。
美緒と目が合いそうになり—
彼女は気づかないふりでスマホを見ていた。
陸はすぐに目を逸らす。
そのまま席に座った。
蓮が身を乗り出す。
「ギリギリだったな。大丈夫か?」
「うん。
ちょっと寝るの遅くて」
「クマすごいぞ」
「まあね…」
笑う。
でも、その笑顔はどこか空っぽだった。
昼休み。
陽菜がすぐに振り返る。
「葵」
「山本のこと好きでしょ?」
「ぶっ!?」
「な、なんで!?」
美緒が静かに言う。
「私が空と会ったときと同じ顔してたよ」
「ち、違うってば!」
陽菜が笑う。
「責めてないよ。
ただ…美咲の方が距離近いよね」
葵の動きが止まる。
「…やっぱり?」
言いかけて—
陽菜の表情に気づく。
「もう、やめて!」
笑いがこぼれる。
美緒が腕を組む。
「手伝ってあげてもいいよ?」
「え?」
「恋愛の基本」
「み、美緒!」
その瞬間—
ガタンッ
陸が立ち上がる。
椅子が大きな音を立てる。
教室が静まった。
美緒の頬を冷たい汗が伝う。
蓮が立ち上がる。
「パン買いに行くか?」
陸は何も言わず歩き出す。
そのまま教室を出ていった。
葵が小さくつぶやく。
「どうしたんだろ…」
蓮がため息をつく。
「俺も分かんない」
ドアの前で一瞬、美咲を見る。
(綺麗すぎるだろ…)
そして出ていった。
しばらくして、花恵がやってくる。
「一緒に食べてもいい?」
「もう座ってるけど」
陽菜が笑う。
「元・代表さん」
花恵は首を振る。
「今はただの花恵だよ」
美緒が聞く。
「何か用?」
花恵は少し息を整えた。
「ありがとうって言いたくて」
三人同時に反応する。
「え?」
「この前のこと。
本当は私が何かすべきだったのに…怖くて」
葵は慌てて手を振る。
「気にしないで!」
陽菜も笑う。
「もう友達だしね」
そのとき—
美緒が教室のドアを見る。
そして気づく。
蒼真と美咲。
並んで歩いている。
楽しそうに話しながら、教室を出ていく。
美緒はゆっくり葵を見る。
葵も視線を追う。
胸が、わずかに跳ねた。
じっと見つめる。
そして—
立ち上がる。
周囲が驚いて見る。
でも—
座り直した。
(私、何しようとしてたの…?
追いかけるつもりだった…?)
花恵がくすっと笑う。
「面白いね、坂本さん」
「面白くないよ…」
陽菜が言う。
「追いかけないの?」
葵は小さく拳を握る。
「行って…どうするの?」
陽菜は軽くため息をついた。
「とりあえず、ご飯食べよ」
校舎の外。
コンクリートのベンチに座る陸。
何も見ていない。
風が木々を揺らす。
目を閉じる。
思い出す。
「早く部活行こう」
美緒の声。
冷たかった。
目を開ける。
空は青い。
けれど—
何も見えていなかった。
小さくつぶやく。
「どうすればいいんだ…」
人は、突然離れるわけじゃない。
少しずつ、気づかないうちに距離ができていく。
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