第15話 ― 舞台とそれぞれの想いのあいだ
演劇部の部室は、夕方のやわらかな光に包まれていた。
大きな窓から差し込む金色の陽射しが、長年の練習で少し傷んだ木の床の上を静かに伸びている。小さな埃が空気の中をゆっくり漂い、まるでこの小さな世界を静かに見守っているかのようだった。
開きっぱなしの台本、半分ほど残った水のペットボトル、机の上に忘れられた鉛筆――
すべてがそこに息づいているようで、それでいて不思議と落ち着いた空気が流れていた。
小さな声で話す生徒もいれば、
空気を壊すのを恐れるように、ささやくような声で台詞を練習している生徒もいた。
部室の中央で、葵は静かに立っていた。
両手で台本を持ち、指先で紙を軽く押さえている。
視線は文字に向けられていたが、その目はどこか遠くを見ているようで――まだ届かない何かを感じ取ろうとしているようだった。
ドアが開いた。
最初に入ってきたのは武雄だった。いつもの気楽な笑顔を浮かべ、この場所が自分の居場所であるかのように自然に歩いてくる。そのすぐ後ろから、篠原が少し静かな足取りで入ってきた……でも、その目にはいつもと違う光があった。
葵は顔を上げた。
「こんにちは、先輩。」
篠原は手を上げて返事をしようとした……
けれど途中で止まり、一瞬、自分が何をしようとしていたのか忘れてしまったようだった。
代わりに武雄が答えた。
「こんにちは、葵ちゃん。遅れてごめん。」
篠原は静かにその様子を見ていた。
武雄の自然な話し方。
葵に対する、当たり前のような距離感。
彼女は小さくため息をついた。その音は、部室の空気に溶けてほとんど消えてしまった。
「こ、こんにちは……」
葵は少し首をかしげた。
「今日はなんだか嬉しそうですね、先輩。」
その言葉に、篠原は一瞬固まった。
「あ、あー……その……今日、数学のテストがうまくいって。」
少し早口で、手も少し動いていた。
動きのひとつひとつに、少しだけ緊張がにじんでいた。
葵はいつものように静かに微笑んだ。
それから武雄の方を向いた。
「武雄くん……この台本、難しいです。もっと……大きな声で話した方がいいですか?」
武雄は台本を受け取り、数秒ほど目を通した。
「声の大きさじゃないんだ。」
一歩前に出て、姿勢を正し、ゆっくり息を吸う。
「大事なのは、聞いている人に本当だって思わせること。」
そして彼は言った。
「いつか、僕たちは離れてしまうかもしれない……
もしかしたら、さよならを言う時間すらないかもしれない……
でも、君はずっと僕の心の中にいる。」
その声が部室に響いた。
大げさでもなく、
芝居がかりすぎてもいない。
ただ――
本物みたいだった。
数秒間、誰も何も言わなかった。
そして次の瞬間、拍手が部室に広がった。
「素晴らしい、藤本くん!」と先生が満足そうに言った。
武雄は少し照れくさそうに頭の後ろをかいた。
「あー……そんな大したことないです。」
篠原は黙ってその様子を見ていた。
力の抜けた態度。
周りの人を見るときの優しい目。
そしてほんの一瞬――彼女は小さく微笑んだ。
葵は再び台本へと目を落とした。
「難しい……」
武雄は肩をすくめた。
「そのうちできるようになるよ、葵ちゃん。」
でも、そのとき彼は気づいた。
彼女の目が、少し違うことに。
さっきよりも開いていて、
さっきよりも集中している。
「私には……難しいです、武雄くん。」
葵はゆっくり息を吸った。
「この台詞、変えたいです。」
武雄は少し戸惑った。
「葵、俺が手伝うよ――」
彼女は顔をそらした。
そしてその瞬間、彼女の目は――少しだけ冷たく見えた。
「これ、練習したくないです。」
声が少し大きくなる。
「難しいんです、武雄!」
部室に重い沈黙が落ちた。
武雄は驚いて瞬きをした。
「葵……」
「やっと会えましたね。」
突然、部屋に声が響いた。
全員がそちらを見る。
篠原が部室の中央に立っていた。
「ずっとあなたを探していました……愛しい人。」
表情は強く、自然で、生きていた。
「おおー!!」
何人かの生徒が興奮した声を上げた。
先生も笑顔になる。
「とてもいい!」
篠原は小さくお辞儀をした。
それでも彼女の目は――誰かを探していた。
葵を。
葵は黙って見ていた。
「先輩、すごく自然です……」
武雄が小さく答えた。
「台本を読んでるんじゃない。感じてるんだよ。」
葵は視線を落とした。
「先生に、私は普通だって言われました……」
小さく、ほとんど聞こえないくらいのため息。
「もっと表現が必要だって……」
武雄は少し黙ったあと、言った。
「この台本、俺も作るの手伝ったんだ。」
葵は驚いて顔を上げた。
「葵のために。」
彼女の目が少しだけ大きくなる。
「これ……私の役に立ちますか?」
「たぶんね。」
葵は部屋の反対側を見た。先生が篠原を褒めているところだった。
彼女はゆっくり息を吸った。
「……さっきは大きな声出して、ごめんなさい。」
武雄は少しだけ笑った。
「気にしなくていいよ。」
葵は台本を握りしめた。
「いつか、僕たちは離れてしまうかもしれない……
もしかしたら、さよならを言う時間すらないかもしれない……」
そこで止まった。
紙が手から滑り落ちた。
「……少し、外の空気吸ってきます。」
武雄はすぐに気づいた。
彼女の目が、少し揺れていた。
「いいよ……続きはあとでやろう。」
葵は部室を出た。
廊下は静かだった。
夕方の光が窓から差し込み、床に金色の線を描いている。
葵はゆっくり呼吸した。
吸って。
吐いて。
外の中庭から、速い足音が聞こえてきた。
彼女は顔を上げた。
蒼真。
走っている。
軽く、自然に。まるで体が走ることを覚えているみたいに。
その瞬間、彼女は思い出した。
さっき、教室を出ていった彼の背中を。
自分の方を見ずに。
(私、何かしたのかな……)
「坂本。」
葵は振り向いた。
篠原だった。
「先輩……」
「あ……こんにちは。」
二人の間に沈黙が落ちた。
篠原は自分の指を軽く握った。
「武雄のこと、よく知ってるんだね……」
「はい。子供のころからです。」
「そう……」
「先輩?」
篠原は少しぎこちなく笑った。
「だから、名前で呼び合ってるんだね……」
葵は少し首をかしげた。
「先輩も、さっき名前で呼んでましたよ。」
「そ、それは違うの!」
「何が違うんですか?」
「わ、忘れて!」
葵は不思議そうに彼女を見た。
「私はずっと、先輩は完璧な人だと思ってました。」
篠原は瞬きをした。
一瞬――何を言えばいいのかわからなかった。
そして少しだけ、やわらかく笑った。
「完璧な人なんていないよ。」
彼女は床を見た。
「でも……あの人の前では、そうでいたかった。」
「誰の前でですか?」
彼女の顔が一瞬で赤くなった。
「わ、忘れてって言ったでしょ!」
葵は口元を押さえて、笑うのをこらえた。
「——わ、忘れて!
葵は慌てて口元を手で隠し、笑いをこらえた。
——笑ってるの?
——ち、違うよ……
乾いた発砲音がグラウンドに響いた。
レースが始まった合図だ。
葵は再び視線を校庭へ向ける。
その先に、蒼真の姿があった。
彼は走っている。
数分後、レースは終わった。
蒼真は三位だった。
気づけば、葵は手をぎゅっと握りしめていた。
その顔には、小さな笑みが浮かんでいる。
それに気づいたのは篠原だった。
——坂本……あの子、知り合い?
——え?誰のこと?
篠原はさりげなく指さす。
——ずっと見てるあの子。
葵の頬がほんのり赤くなる。
——や、やめてくださいよ、先輩……
篠原はくすっと笑った。
——ちょっとからかうの、楽しいのよ。
——関係ないじゃないですか。
——はいはい、ごめん。
一度深呼吸してから、篠原は言った。
——私、武雄に告白したの。
葵は黙り込む。
——で、OKもらった。
篠原は視線を逸らした。
——やっぱりね。友達とか言ってても、本当は好きなんじゃ——
——よかったですね、先輩!
篠原は驚いて顔を上げる。
葵は笑っていた。
本当に、嬉しそうに。
——さ、坂本ちゃん?
葵は彼女の手をぎゅっと握る。
——あの人、昔から女の子に慣れてなくて!今でこそ人気ですけど……
篠原は目を瞬かせる。
葵は慌てて手を離した。
——す、すみません!
篠原はやわらかく微笑んだ。
——今の、ちょっと嬉しかった。
素直な声だった。
——あなた、信用できそう。
——信用、ですか?
——もし誰かが彼を取ろうとしたら……教えてくれる?
葵の背中に冷たいものが走る。
その瞬間、ミオの声がよみがえった。
「武雄が彼女いるか聞いてみて」
——わ、わかりました……教えます。
(ミオちゃんのことは……言わない)
篠原は再びグラウンドを見る。
——で、あの子は?好きなの?
葵は窓の外を見つめたまま、少し黙る。
——私……わからないです。
ゆっくりと言葉を選ぶ。
——一緒にいると落ち着くし……笑った顔も好きで……
——でも、それが好きなのかは……
篠原はくすっと笑う。
——それ、私と武雄と同じかも。
——でも、付き合ってるんですよね?
——うん……まだ“お試し”って感じ。
少し照れたように言う。
——武雄くんの言葉。
葵は少し考えてから言った。
——たぶん、緊張してたんだと思います。
そして、やさしく笑う。
——先輩、綺麗ですし、頭もいいし……演技もすごく上手です。
篠原の顔が一気に赤くなる。
——そ、そんなに褒めなくていいから……
——そろそろ戻りましょうか。
——そうね。
二人が振り返った、その瞬間——
先生がすぐ後ろに立っていた。
腕を組み、足をトントンと鳴らしている。
——いいタイミングね。“部を潰す”って聞こえたけど?
二人は一瞬で青ざめた。
——ち、違います先生!
——今戻ろうとしてました!
——ただ話してただけで!
——さあ、練習に戻るわよ。
先生は篠原を見る。
——あなたは優秀だけど、努力を怠ればすぐ抜かれるわよ。
次に葵へ。
——坂本は……表情の練習がまだまだね。
——は、はい……
二人は並んで戻っていく。
小さく笑い合いながら。
部屋に入ると、全員の視線が集まった。
武雄が眉をひそめる。
——何してたんだ?
二人は同時に答える。
——秘密。
武雄は頭をかいた。
——なんだよ、それ……
その後。
部活が終わり、葵は家へ帰った。
スマホを見ると、メッセージが届いている。
ヒナ:
「新メンバー来たよ!!」
続けてもう一件。
ミサキ:
「兄のゲーム機借りてる。キャラ名はマガサキにした。」
葵は微笑んだ。
——いいね……似合ってる。
家に着き、シャワーを浴び、簡単な夕食を作る。
仕事で疲れた母が帰ってきて、少しだけ話をした。
その後、葵は自分の部屋へ。
静かな空間。
ゲーム機の電源を入れ、テレビの前の床に座る。
画面の光が、彼女の顔を照らした。
小さく呟く。
——一緒に遊ぼう……ね。
コントローラーを握りしめる。
——お父さん。
画面に表示される。
「キャラクター『ヒロ』で開始しますか?」
葵は少しだけ見つめて——
そして、ボタンを押した。
——はい。」
舞台の練習と、それぞれの気持ちが少しずつ動き始める章です。
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それでは、第15話をどうぞ。




