第11話 ― 手紙、過去、そして決断
白い封筒が、神崎美緒の指の間に挟まれたままだった。
中央に描かれた小さな赤いハートが、シンプルな紙の上でほんのり光っているように見える。美緒は、そこに何か見えない言葉でも書かれているかのように、しばらくそれを見つめていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「授業の間に考えておくよ。」
隣で、ヒナがすぐに身を乗り出し、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「えー、もう行きなよ! で、あとで全部教えてね!」
美緒はゆっくりと目を上げた。
「これはショーじゃないんだよ、ヒナ。」
ヒナは大げさに腕を組んだ。
「行かないなら、無理やり行かせるからね!」
美緒は少し眉をひそめた。
「なんでそんなにこだわるの?」
そう言いながら、手紙をカバンの中にしまう。
「考えるって言ったでしょ、ヒナ。今日はもうこの話しないで。」
ヒナは少し顔を背け、笑いをこらえながら小さな声でつぶやいた。
「ふふ……このデート、観察してマンガのネタにしよ。」
芝居がかったように顎に手を当てる。
「もうキスシーンまで想像できる……」
葵は小さく笑った。
「ヒナって、たまに変だよね。」
ヒナはすぐに振り向いた。
「違うよ、葵ちゃん! ただ楽しみなだけ!」
それから机を軽く叩いた。
「それより……ヒーラー探さないと。」
葵は首をかしげた。
「でも、誰が私たちと一緒にやりたいって思うかな?」
少し困ったように笑う。
「私たち、すごく下手だし。」
ヒナは、すごく大事なことを説明するみたいに指を立てた。
「RPGは上手いか下手かじゃないの。」
元気よく言う。
「ゲームの世界に入り込むことが大事なんだよ!」
それから少し首をかしげた。
「葵ちゃん、前にやってなかったっけ?」
葵はヒナを見た。
表情は真剣だったけれど、目は遠くを見ているようだった。まるで、どこか遠い場所へ行ってしまったように。
ヒナはすぐに気づいた。
笑顔が消えた。
「あ、あの……ごめん、葵ちゃん。
今の忘れて。」
葵は何度か瞬きをして、ゆっくり息を吸った。
「大丈夫、ヒナ。
誰がやるかなって考えてただけ。」
数分後、生徒たちはみんな席に座り、教室にはいつものざわめきが広がっていた。
教室の反対側で、山本蒼真が手を上げ、葵とヒナにこっそり手を振った。二人も手を振り返した。
その様子を見て、美緒が小さく笑いながらつぶやいた。
「私、あんなふうに選ばれたことないな。」
葵は振り向いた。
「え? 選ばれた?」
美緒は頬杖をついた。
「なんでもない。」
少し笑って言った。
「大事にしなよ、山本さん。」
葵の反応はすぐだった。
顔が一瞬で真っ赤になった。顎から耳の先まで全部。
「な、なにそれ!?」
立ち上がりそうになる。
「美緒! 何言ってるの、あ、あんた……!」
美緒は笑った。
「はは、落ち着いて。」
両手を上げる。
「冗談だよ、葵ちゃん。」
数秒後、笑いが落ち着き、彼女は小さくため息をついた。
「こんなに笑ったの、久しぶりかも。」
三人の間に、小さな沈黙が生まれた。
葵は少し心配そうに彼女を見た。
「お母さん、どう?」
美緒は落ち着いた声で答えた。
「順調に回復してるって。昨日、先生が言ってた。」
一度机を見て、また顔を上げる。
「今日、お父さんが日本に来るんだ。
たぶんすぐ病院に行くと思う。」
ヒナは目を大きくした。
「遠くから来るんだ。すごいね。」
美緒は肩をすくめた。
「まあ……あの人なら来ると思ってた。」
そのとき、教室のドアが開き、佐々木先生が入ってきた。
「おはよう、みんな。」
全員立ち上がる。
「おはようございます!」
「はい、座って。」
先生はプリントを机に置いた。
「授業を始めます。」
時間はゆっくり過ぎていき、やがて昼休みになった。弁当を開く生徒もいれば、購買へ食べ物を買いに行く生徒もいた。
ヒナはすぐに美緒の方を向いた。
「それで、美緒?!」
美緒は落ち着いてご飯を食べていた。
「それでって?」
ヒナは大げさに眉を上げた。
「誘い、受けるの?」
美緒は少し考えてから思い出したように言った。
「ああ。あの手紙。」
お茶を一口飲む。
「たぶんね。ちゃんと返事はしないといけないし。」
ヒナは親指を立てた。
「頑張ってね。」
そう言いながら、ヒナの視線が教室の中をさまよった。
そして、動きが止まった。
少し離れたところで、黒沢花恵が無表情のまま、じっと葵の方を見ていた。
ヒナは葵に近づいて小さな声で言った。
「葵ちゃん……なんで委員長、また葵ちゃんのこと見てるの?」
葵はスマホをいじっていた。
「委員長?」
顔を上げて振り向く。
その瞬間、葵と花恵の目が合った。
花恵はすぐに顔をそらし、何事もなかったかのように匠と話し始めた。
葵は何度か瞬きをした。
「変なの……」
そのとき、教室のドアが開いた。
荒井美咲が入ってきた。
しかし、何かが違った。
歩き方が少しおかしい。普通に歩いているようで、ほんの少しだけ足取りが不安定だった。
教室が静かになり、何人かの生徒がひそひそ話を始めた。
美緒が小さな声で言った。
「美咲、体調悪そう……」
少し眉をひそめる。
「昨日のあの子たちかな?」
葵も小さな声で答えた。
「わからない……
でも花恵さんが見てくれるって言ってた。」
そのとき、佐々木先生が再び教室に入ってきた。
全員立ち上がる。
「えー、今日は大事なお知らせがあります。」
教室が静かになった。
「来週、テストがあります。しっかり勉強するように。」
すでに何人かの生徒がため息をついていた。
そして先生は続けた。
「それから、もう一つ……」
少し言葉を止める。
「女子トイレで血が見つかりました。」
教室にざわめきが広がった。
「何か知っている人がいたら、先生か職員室に知らせてください。」
蒼真はこっそり葵の方を見て、手でスマホのジェスチャーをした。
葵は静かにスマホを取り出す。
新しいメッセージが来ていた。
開く。
――蒼真:
「美咲が三人の女子と一緒にトイレに入ったって話を聞いた。」
「昨日、話したんだよね?」
「何か言ってた?」
葵は画面を見つめた。
表情は変わらない。
でも、意識はずっと昔へ戻っていた。
坂本葵、九歳。
教室で一人で座っていた。
他の生徒はみんなグループで昼ご飯を食べている。
でも葵は、いつも一人だった。
そして、いつも同じ女子グループがいた。
髪を引っ張られる。
消しゴムを捨てられる。
弁当を床に落とされることもあった。
葵は泣かなかった。
叫びもしなかった。
ただ、遠い目で彼女たちを見ていた。
ある日、女子の一人が言った。
「なんで怒らないの?」
別の子が笑った。
「この子、泣きもしないよ。」
「殴っても泣かないし。」
しばらくして、葵は小さなゲームショップで父の古いゲーム機を持って立っていた。雪子と一緒だった。売るつもりだった。
雪子が聞いた。
「本当にいいの? 葵、売っちゃって。」
葵は静かにうなずき、雪子は店員のところへ行った。
そのとき、ヒナが店に入ってきた。
大きなメガネ、髪を結んでいて、父親と一緒だった。ゲーム機を見て目を輝かせていた。
「わあ、坂本さん! このゲーム機持ってるの!?」
葵は驚いて瞬きをした。
「え?」
ヒナはすぐに近づいてきた。
「この前助けてくれてありがとう! どうやってお礼したらいいかわからないけど……
このゲーム機、買ったの?」
葵はいつもの無表情に戻って言った。
「ううん、売りに来たの。」
ヒナはすぐに笑った。
「じゃあ、私に売って! お父さんあそこにいるから!」
葵は数秒彼女を見て、少しだけ微笑んだ。
「すごく好きなんだね。」
ヒナは顔を赤くした。
「も、もちろん!」
深呼吸する。
「それで?」
葵はゲーム機を持ったまま言った。
「お金は別にいらないの。」
「大事にしてくれる人に持っててほしいだけ。」
ヒナは瞬きをした。
「大事に?」
葵は少し目を下げた。
「お父さんと一緒に遊んでたから……
でも、もう一緒に遊べないから。」
ヒナは少し黙った。
それから手を上げた。
「じゃあ、私の家で一緒に遊ぼう!」
顔を赤くする。
「あ、急に変なこと言ってごめん!」
葵は笑い始めた。
「ヒナって面白い。」
「でも、一緒に遊んでくれるの?」
ヒナは大きく笑った。
「うん!」
過去の記憶は消えた。
葵は現在に戻った。
どうして、こういうことっていつも起こるんだろう……
休み時間になると、葵は立ち上がった。
「ちょっと行ってくる。」
「葵ちゃん?」
「葵、待って!」と美緒が言った。
しかし葵はもう、美咲の席へ向かって歩いていた。
「美咲……
よかったら、私が手伝うよ。」
美咲は彼女を見た。
目は真剣だった。
「坂本。
私は助けなんていらない。」
彼女は立ち上がり、ドアの方へ歩いた。
そこには、すでに三人の女子が待っていた。
美咲はそのまま一緒に教室を出ていった。
葵は小さくため息をつき、その後を追いかけ始めた。
蒼真はすぐに立ち上がり、葵のところへ走った。
「どこ行くの、坂本さん?」
「助けに行く。」
蒼真は少し迷ったような顔をした。
「でも……先生に言った方がいいんじゃない?」
葵は落ち着いた声で答えた。
「先生たちは、もうあの子を見捨ててる。」
そして、そのまま教室を出ていった。
ヒナと美緒もすぐに立ち上がった。
蒼真は少しの間、床を見ながら考えていた。
教室の反対側では、匠がメガネを直しながら静かに様子を見ていた。
花恵が急いで教室を横切った。
「や、山本くん……」
少し不安そうだった。
「先生に言った方がいいかな?」
蒼真は顔を上げた。
「僕、やることができたみたいです。委員長。」
そしてヒナと美緒を見た。
二人は真剣な目で彼を見ていた。
蒼真は小さくうなずいた。
ヒナは深呼吸をした。
美緒が彼女を見る。
「準備いい? ヒナちゃん。」
ヒナは少しだけ唾を飲み込んでから言った。
「こういうことは……」
そして顔を上げた。
「もう、怖くない。」
少しでも楽しんでいただけたなら、嬉しいです。




