09 プリズナー315 その1
「舞台は、真っ白な部屋の一角から動き出す。男は、自分が何者なのか、どこから来たのかさえ分からない状態で目覚めるんだ」
なぜ自分はここにいるのか。
この部屋は一体なんなのか。
自分が今、どういう状況に置かれているのか。
意識の浮上とともに鳳源治を襲ったのは、底の知れない喪失感だった。
思い出そうと脳の深層に手を伸ばしても、そこには霧が立ち込めている。
直近一ヵ月ほどの記憶が、ごっそりと抜け落ちているようだった。
唯一、脊髄に刻まれたように確かなのは、自分が二十二歳の青年、鳳源治であるということだけだった。
源治は重い体を起こし、部屋を見回した。
広さは六畳間程度。壁は一面が白で塗装され、窓はどこにも見当たらない。
簡素なベッド、その向かいにはデスクと椅子。デスク正面の壁には、埋め込まれた電子モニターが鎮座している。
左手には透明なドアがあり、その向こうにユニットバスとトイレが見えた。
右手には、外部との隔絶を象徴するような銀色の重厚なドアがある。
そして源治自身は、青色の囚人服を纏っていた。その胸元には「囚人番号:315 鳳源治」の文字が冷たく刺繍されていた。
また、右手首には銀色のブレスレットがはまっており、ものすごく硬くてとても人力で取り外せそうにない。
その時、源治の脳裏に微かな違和感が走った。
(...目覚めた時、何か文字のようなものが見えなかったか?)
目を開けた瞬間、網膜に焼き付いた残像。彼は弾かれたように天井を見上げた。
そこには、一文が殴り書きのように記されていた。
『まず机の上にある日記を見ろ。全てはそこからだ。』
源治はベッドから立ち上がり、デスクへと向かった。そこには、天井の指示通り一冊の分厚い日記帳が置かれていた。
彼がその表紙をめくった瞬間、背筋に氷のような戦慄が走った。
そこに並んでいたのは、紛れもなく自分自身の筆跡であり――そして、それは「昨日の自分」が「今日の自分」に向けて遺した、血の通わない観測記録だったからだ。
『私は鳳源治。これを見ている人間、いや「私」は混乱するかもしれない。だが、これを作成したのは六月一日の私自身だ。』
日記の冒頭は、まるで赤の他人を突き放すような冷徹な言葉で始まっていた。
『経緯を述べる前に、論理的に確定している事実を伝える。それは、「自分は、二十四時間毎に記憶がリセットされる」ということだ。』
源治は息を呑んだ。日記は続ける。
『今これを読んでいる私がすべきなのは、この筆跡が自分自身のものであると認識し、内容を客観的事実として受け入れることだ。そうしない限り、何も始まらない。』
自己を確信させるための「証明」として、そこには源治しか知り得ない極めて個人的な情報が列挙されていた。
――幼少期に脳内で構築した独自ヒーロー『ウルトラネビュラマン』の詳細設定。
――従姉妹の岬百合が実家に宿泊した際、睡眠中の彼女に無断でキスをした事実。
――そして、アメリカのアニメの有名なカナリアのキャラクター、『トゥ*ーティー』に対する、病的なまでの殺意と惨殺の空想。
これらは誰にも漏らしたことのない、自分固有の深淵だ。源治は、この文章の作成者が自分自身であることを認めざるを得なかった。
『明日の私へ。記憶の蓄積が不可能な以上、この日記だけが唯一の外部記憶装置となる。今日知り得た情報を、主観を排して記録しておく。』
日記によれば、源治は何らかの罪で有罪判決を受け、この施設に収容されたのだという。罪状の詳細は不明だが、担当弁護士は林幹夫という男であること。しかし物理的な接触は断絶されており、接見室の強化ガラス越しにあるモニターを通じてのみ会話できるということ。
『記憶が毎日消去されるのは、最新医療技術の治験という名目だ。被験者となることで刑期を短縮する契約を、過去の私、あるいは誰かが選択したらしい。』
メリットは「一瞬で刑期が終わる主観的体験」。
デメリットは「社会からの完全な隔絶」。
日記は施設のルールについても警告していた。
デスクのモニターはタッチパネル式であること。太陽光は皆無の地下施設であること。そして0時から6時までの外出は厳禁であり、戻らなかった囚人が二度と帰還しなかった例が複数あること。
共有区画には『サブマリンカフェ』などの娯楽施設が揃っており快適だが、脱獄は事実上不可能であるという。
『最後に、助言が必要な場合は「サブマリンカフェ」で南敏郎という男を探せ。彼はこの不合理な環境下で生き延びるための有益な情報を持っている。』
日記は最後の一文で締めくくられていた。
『以上だ。明日の私よ、この記録を元に論理的に思考しろ。感情は不要だ。空白を埋め続けるための戦いを、継続せよ。』
博彦はスマートフォンを操作しながら、「ええと、接見室のモニターの解像度は...それから源治の日記の文体はもっと突き放すように...」と、設定の矛盾を埋めるための独り言を漏らしていた。
雅美はそれを見て、冷めた表情で言い放った。
「アンタ、さっきから設定をコネコネいじり回して。それじゃ『パランプセストの呪い』にかかるわよ」
「パランプ...何それ?」
「昔の羊皮紙のことよ。一度書いた文字を消して、その上にまた別の内容を書くの。でも、消したはずの下書きが、時間が経つと薄汚く透けて見えてきちゃう」
雅美は冷めたカフェラテのカップを見つめながら続けた。
「アンタの物語もそう。前の設定の意志が透けて、キャラが勝手に動いてるんじゃない?」
「...呪い、か。面白いね。それ、後でどこかで使わせてもらうよ」
博彦は満足げに微笑み、再び物語の迷宮へと意識を戻した。




