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10 プリズナー315 その2

「よし。それじゃ、続きを話すよ。ついにこの真っ白な部屋から一歩を踏み出すんだ。」

「で? カフェには何があるの?」


 雅美が身を乗り出し、期待に満ちた声を上げた。


「あ、そこ? いきなりそこ?」

「ほらほら、小説の全文を聞いているんじゃなくて『案』を聞いているんだから、聞きたい部分を聞いたっていいでしょ」


 雅美はわざとらしく唇を尖らせ、博彦を急かした。


「ああ、わかったよ。じゃあ、カフェに行くシーンから始めようか」


 鳳源治が独房の銀色の重厚なドアを開け、一歩外へ踏み出すと、そこには左右に延々と続く無機質な通路が横たわっていた。 同一規格のドア、同一規格の壁。生命反応を感じさせるノイズは一切なく、ただ空調の低い唸りだけが低周波の耳鳴りのように響いている。


 源治は歩きながら、冷徹に環境データの収集に務めた。


「居住区画から共有区画まで、徒歩で約4分。監視カメラの死角は計算上、存在しない。極めて高いセキュリティレベルだ」


 彼の呟きは、誰に聞かせるでもなく通路の壁に吸い込まれていった。


 共有区画へ足を踏み入れると、そこは地下の閉鎖環境とは思えないほどの「疑似的な楽園」が広がっていた。 飲食店、娯楽施設、マッサージ店。そこかしこで、青い囚人服を着た者たちが無機質な表情を浮かべながら、しかし与えられた自由を享受しているかのように動き回っている。


 源治は、日記の指示通り目的地である『サブマリンカフェ』へと入った。


 店内に一歩入った瞬間、源治の視界を深い蒼が埋め尽くした。片側の壁一面を覆い尽くす、高さ10メートルを超える巨大な水槽。 多種多様な魚たちが、揺らめく青い光の中を優雅に回遊している。


 他の囚人を見てみると、配給機のスキャナーに手首をかざし、それによって料理や飲み物を得ていた。


「なるほど、この手首のブレスレットはそのためか」


 源治は配給機のスキャナーに手首をかざし、認証をパスさせた。


「鳳源治。残高、十分。注文品:ブルーマウンテン・ブレンド」


 機械的な音声と共に、カップに汲まれたコーヒーから芳醇な香りが立ち上がる。 源治は空いている席に着き、ゆっくりと一口含んだ。 熱い液体が喉を通り、脳の覚醒を促していく。


「...美味しい」


 冷徹な観察者である彼の口元に、ほんの僅か、人間らしい安らぎの微笑が浮かんだ。


 ここは、深夜のファミリーレストラン。

 博彦が源治と同じようにカップを口に運び、一口飲んだ瞬間──


「...うぇっ。にがっ。おまけに冷めてるし」


 博彦は顔を顰め、表面に薄く膜が張ったコーヒーをテーブルに戻した。 現実の安っぽさに、彼はげんなりとした表情を見せる。


「あはは、劇中と現実の格差がすごすぎるわね。でも、源治がそこまでリラックスしてるってことは、やっぱり脱獄なんて夢のまた夢ってこと?」


 雅美が笑いながら問いかけた。


「そうなんだ。源治がその『理由』に気づく瞬間を、今から話すよ」


 コーヒーを飲み終え、カップを置いた源治は、ふと昨日の自分が日記に残した言葉を思い出した。 『脱獄が不可能な理由はカフェに行けばわかる』


 確かに、この強固な地下施設から逃げ出すのは至難の業だ。だが、「不可能」と断じる根拠としてはまだ弱い。


 と、その時。


 巨大水槽の中を、右から左へ超巨大な影がゆら~りゆら~りと通り過ぎて行った。 それは紛れもなく、ジンベイザメだった。


 ジンベイザメ。全長10メートルを超える巨体。 源治の脳内データが即座に警告を発した。


「不合理だ。ジンベイザメの長期飼育には、数千トンの容量を持つ超巨大水槽が必要なはずだ。この施設の規模で、そんなものを維持できるはずがない」


 それだけではない。さらに奥、20メートル、30メートルと続く深い青の向こうから、別の巨大な魚影がこちらに向かって泳いでくる。


 その瞬間、源治は気づいた。


 これは人工の水槽などではない。厚さ数十センチの強化ガラスの向こうにあるのは、本物の海。 自分たちは今、数千トンの水圧に押し潰される「海の底」に閉じ込められているのだと。


 源治の背筋に、氷のような戦慄が走った。


 ここはただの刑務所ではない。外界から物理的に抹消された、巨大な檻なのだ。


 源治は青ざめた顔のまま、フラフラと覚束ない足取りでカフェを後にした。通路の冷たい空気が、熱くなった頬を撫でる。彼は激しく脈打つ鼓動を抑え込もうと、深く、何度も呼吸を繰り返した。なんとか気持ちを落ち着け、思考の主導権を「論理」へと戻さなければならない。


 しかし、冷静さを取り戻そうとする彼の脳裏に、一つの鋭い疑問が突き刺さった。


「なぜ、初日の自分――つまり昨日の自分は、この衝撃的な事実を日記に書かなかったのか?」


 昨日、日記を始めたばかりの自分も、このサブマリンカフェを訪れ、種々の魚類を目撃したはずだ。脱獄不可能な理由を「カフェに行けばわかる」と記した張本人が、なぜ肝心の「海の底である」という結論を具体的に言葉にしなかったのか。


 明日以降の自分が動揺しないように、あるいは時間を無駄にしないように、客観的な事実として詳細を記録しておくことの方が、昨日の自分が説いた「合理性」に叶っているはずだ。

 少なくとも今の自分ならそうする。迷わずペンを取り、この絶望的な水圧の正体を書き記すだろう。というより、戻ったらすぐにそうしようと決意する。


 そこで、源治はある決定的な真実に気づいた。


 昨日の自分と、今の自分の決定的な違い。それは「日記が存在していない状況下か、あるいは既に日記が存在し、それを読み込んだ後であるか」という点だ。


 白紙の状態で目覚め、暗中模索の中で一日を過ごした昨日の自分と、昨日の自分からの警告を受け取り、予備知識を持って行動を開始した今日の自分。同じ「記憶が消去された状態」からのスタートであっても、外部記憶装置である日記の有無が、その後の思考の質と行動の選択を変えたのだ。


 「明日の私」がどのような一日を過ごすかは、今日の私がどれだけ精緻な「道標」を遺せるか、その努力次第なのだ。源治は、自分という存在が日記を通じて積層していくパランプセストのような構造であることを理解した。


 完全に冷静さを取り戻した源治は、独房へ戻る前に共有区画の散策を続けた。施設の広大さと、そこに散りばめられた「疑似的な自由」を網膜に焼き付けながら。

 そうして、混乱と発見に満ちた怒涛の二日目が幕を閉じた。


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