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11 プリズナー315 その3

 なぜ自分はここにいるのか。

 この部屋は一体なんなのか。

 自分が今、どういう状況に置かれているのか。


 意識の浮上とともに鳳源治おおとり げんじを襲ったのは、底の知れない喪失感だった。


 思い出そうと脳の深層に手を伸ばしても、そこには霧が立ち込めている。

 直近一ヵ月ほどの記憶が、ごっそりと抜け落ちているようだった。

 唯一、脊髄に刻まれたように確かなのは、自分が二十二歳の青年、鳳源治であるということだけだった。


 源治は重い体を起こし、部屋を見回した。

 広さは六畳間程度。壁は一面が白で塗装され、窓はどこにも見当たらない。

 簡素なベッド、その向かいにはデスクと椅子。デスク正面の壁には、埋め込まれた電子モニターが鎮座している。

 左手には透明なドアがあり、その向こうにユニットバスとトイレが見えた。

 右手には、外部との隔絶を象徴するような銀色の重厚なドアがある。

 そして源治自身は、青色の囚人服を纏っていた。その胸元には「囚人番号:315 鳳源治」の文字が冷たく刺繍されていた。

 また、右手首には銀色のブレスレットがはまっており、ものすごく硬くてとても人力で取り外せそうにない。


 その時、源治の脳裏に微かな違和感が走った。


(...目覚めた時、何か文字のようなものが見えなかったか?)


 目を開けた瞬間、網膜に焼き付いた残像。彼は弾かれたように天井を見上げた。

 そこには、一文が殴り書きのように記されていた。


『まず机の上にある日記を見ろ。全てはそこからだ。』


 源治はベッドから立ち上がり、デスクへと向かった。そこには、天井の指示通り一冊の分厚い日記帳が置かれていた。

 彼がその表紙をめくった瞬間、背筋に氷のような戦慄が走った。

 そこに並んでいたのは、紛れもなく自分自身の筆跡であり――そして、それは「六月一日の自分」から「六月五日までの自分」が、「今日(六月六日)の自分」に向けて遺した、血の通わない観測記録だったからだ。


『私は鳳源治。これを見ている人間、いや「私」は混乱するかもしれない。だが、これを作成したのは六月一日の私自身だ。』


 日記の冒頭は、まるで赤の他人を突き放すような冷徹な言葉で始まっていた。


『経緯を述べる前に、論理的に確定している事実を伝える。それは、「自分は、二十四時間毎に記憶がリセットされる」ということだ。』


 源治は息を呑んだ。日記は続ける。


『今これを読んでいる私がすべきなのは、この筆跡が自分自身のものであると認識し、内容を客観的事実として受け入れることだ。そうしない限り、何も始まらない。』


 自己を確信させるための「証明」として、そこには源治しか知り得ない極めて個人的な情報が列挙されていた。


 ――幼少期に脳内で構築した独自ヒーロー『ウルトラネビュラマン』の詳細設定。

 ――従姉妹の岬百合が実家に宿泊した際、睡眠中の彼女に無断でキスをした事実。

 ――そして、アメリカのアニメの有名なカナリアのキャラクター、『トゥイー*ィー』に対する、病的なまでの殺意と惨殺の空想。


 これらは誰にも漏らしたことのない、自分固有の深淵だ。源治は、この文章の作成者が自分自身であることを認めざるを得なかった。


『(明日という二文字が二重線で消されている)未来の私へ。記憶の蓄積が不可能な以上、この日記だけが唯一の外部記憶装置となる。今日知り得た情報を、主観を排して記録しておく。』


 日記によれば、源治は何らかの罪で有罪判決を受け、この施設に収容されたのだという。罪状の詳細は不明だが、担当弁護士は林幹夫はやし みきおという男であること。しかし物理的な接触は断絶されており、接見室の強化ガラス越しにあるモニターを通じてのみ会話できるということ。


『記憶が毎日消去されるのは、最新医療技術の治験という名目だ。被験者となることで刑期を短縮する契約を、過去の私、あるいは誰かが選択したらしい。』


 メリットは「一瞬で刑期が終わる主観的体験」。

 デメリットは「社会からの完全な隔絶」。


 日記は施設のルールについても警告していた。

 デスクのモニターはタッチパネル式であること。太陽光は皆無の地下施設であること。そして零時から六時までの外出は厳禁であり、戻らなかった囚人が二度と帰還しなかった例が複数あること。

 共有区画には『サブマリンカフェ』などの娯楽施設が揃っており基本無料だが、脱獄は事実上不可能であるという。


『最後に、助言が必要な場合は「サブマリンカフェ」で南敏郎みなみ としろうという男を探せ。彼はこの不合理な環境下で生き延びるための有益な情報を持っている。』


 六月一日の日記は最後の一文で締めくくられていた。


『以上だ。(明日という二文字が二重線で消されている)未来の私よ、この記録を元に論理的に思考しろ。感情は不要だ。空白を埋め続けるための戦いを、継続せよ。』


 そしてその後に続く、六月二日から六月五日までの緻密な記録。

 自分自身の意識には欠片の記憶も残っていないというのに、この手元の日記は、確実に自分が数日間をこの檻の中で過ごしてきたという事実を、残酷なまでに突きつけていた。


 数日間の日記を読み進めるうちに、源治はこの奇妙な世界の解像度を上げていった。

 まず、『サブマリンカフェ』の水槽。あれは演出としての水槽などではなく、この刑務所自体が本物の深海に沈んでいることを示す覗き窓なのだ。数千トンの水圧。物理的な脱獄は、ここでは「不可能」という定義そのものとして存在していた。


 『サブマリンカフェ』にいるという南敏郎という男についても記されていた。彼はこの刑務所内の構造、特に共有区画の仕組みに精通しており、問いかければ的確な知識を与えてくれる有益な情報源であるらしい。


 また、受刑者には二通りの人間がいることも判明した。源治のように「刑期短縮プログラム」を受けている者と、そうでない者が、概ね半数ずつ存在している。

 本来のプロセスでは、収監されてから数日間は通常通りに過ごし、施設の環境に慣れ、未来への不安や日々の気がかりなことを整理し終えた状態でプログラムを開始するのが一般的だという。そうすることで、毎日目覚めた際に「何も気に病むことなく、ただ与えられた一日を過ごす」という平穏な主観的体験が可能になるからだ。


 しかし、日記を読み解く限り、自分はどういうわけか収監後すぐさまそのプログラムに身を投じてしまったようだった。

 なぜ、自分はあえてそれを選んだのか? そして、なぜ刑務所に送り込まれる前の記憶すら、この脳には残っていないのか?

 疑問の渦が巻くが、記憶の欠落という断絶の前では、いかなる自問自答も空虚な響きしか持たなかった。


 実利的な情報も日記には溢れていた。

 刑期短縮プログラムの被験者は、共有区画での飲食や施設利用が九割引きという特権を得ている。

 イタリア料理店『カーサ・ディ・シヴァタ』は「必ず行け」と矢印付きで強調され、ラーメン屋『麺処 麻呂』には「替え玉必至」という執念じみた推奨が添えられていた。

 サウナ完備の『スパ デスティニーランド』は極楽の地だが、カジノ『デスベガス』に関しては「自分にギャンブル運はない、立ち寄るな」と、過去の自分が自分を冷たく突き放していた。

 メイドリフレ『アニー』の職員であるセイという人物は親切だったらしく、その名前の横には不似合いなハートマークが躍っている。

 酒屋「酔っ払いグズ藤井」には、日本酒・ビール・ワイン・ウィスキー・焼酎・シャンパンはもちろんのこと、ウォッカ・テキーラ・ジン・スピリタス・クーミス・トンスル等、あらゆる酒が揃っているらしいが、深酒して日記を書くのを怠ったり日記帳そのものを紛失したりしないよう、「酒の量は程々に」と書いてあった。


 独房のモニターについても補足があった。タッチパネルからECサイトにアクセスすれば、所内で禁じられている物でない限り、あらゆる物品を購入できる。注文品は夜間に宅配ボックスへ届けられる仕組みだ。

 また、官龍政という老囚人の存在も記されていた。彼は刑期短縮プログラムを受けずにこの地に留まり続ける長老のような存在で、あらゆる受刑者の動向に詳しいという。まだ面識はないが、いつか接触すべき重要人物としてリストアップされていた。


 そして、最も重要な「今日」の予定。

六月六日、午後二時。担当弁護士である林幹夫とのオンライン接見がセッティングされている。その時間に必ず面会室へ向かえ、と日記は命じていた。

 どの日記も、終盤は南敏郎から得た生活の知恵と共有区画の活用術が箇条書きでまとめられていた。


 そして午後二時。源治は面会室の冷たい椅子に座り、強化ガラス越しのモニターと対峙していた。

 画面に映る林弁護士に対し、源治は淡々と、しかし切実な事実を告げた。自分にはなぜここにいるのか、何をしたのかという記憶も動機も、一切存在しないのだと。


 林弁護士が提示した公的記録によれば、鳳源治の罪状は『殺人罪』という、救いようのない大罪であった。

 現場の監視カメラには源治に酷似した人物が記録され、有力な目撃証言も揃っている。決定的な物証こそ欠けているものの、積み上げられた状況証拠だけで有罪判決が下されたのだという。


「私の過去を、完全に再調査してほしい。資産はまだ凍結されていないはずだ。それを全て使って構わない」


 源治はモニター越しに林へ依頼した。この断絶された世界で、自分のアイデンティティを証明できる唯一の希望は、外部からの調査という「客観的な真実」だけだった。

 林弁護士は、その依頼を快く引き受けた。彼自身、自分の弁護能力のなさで源治を有罪にしてしまったという自責の念に駆られていたのだ。林によれば、源治は元々有能なトレーダーであり、十分な資産がある。弁護費用の心配は無用だという。


 期待と微かな希望を胸に接見を終え、源治は面会室を後にした。


 その後、共有区画を散策していた源治は、偶然にも二人の受刑者が激しい喧嘩を繰り広げている場面に遭遇した。周囲には数人の囚人がいたが、誰もが遠巻きに見守るだけで、止めようとする気配すら見せない。異様な光景だった。


 よく観察すると、喧嘩をしている二人の手首のブレスレットが、不気味な赤色で点滅を繰り返している。同時に、電子的な警告音が「ピピピピ」と高く鳴り響いていた。

 血圧か脈拍の異常を知らせる健康管理機能か何かだろうか――源治がそう推測した瞬間、二人の囚人は糸が切れた操り人形のように、その場で崩れ落ち、意識を失った。


 直後、天井から冷徹な合成音声のアナウンスが流れた。


『共有区画G-13の区域から速やかに退去せよ』


 周囲にいた囚人たちは、弾かれたように走り出し、その区画から逃げ去った。倒れ伏した二人には目もくれず、ただ恐怖に突き動かされるように。

 源治も言い知れぬ不安に襲われ、その場を離れた。背後では、G-13区画を封鎖するように、四方の重厚なシャッターが轟音を立てて降りていった。


「一体・・・何が起こっているんだ?」


 数分間の沈黙の後、再びシャッターが上がった。

 しかし、そこには先ほどまで倒れていた二人の囚人の姿は、跡形もなくなっていた。

 源治が呆然と立ち尽くしていると、近くを通りかかった男が、吐き捨てるように教えてくれた。


「あんた新参かい? ここでは肉体的なトラブルを起こすと、数十秒間の警告の後に、ああやって『処刑』されるんだ」

「処刑・・・? 死ぬというんですか!?」

「ああ。さっきみたいに倒れたら最後だ。二度と起き上がることはない」

「でも、どうやって...いきなり倒れましたよね?」

「それはわからん。ただ、ああいう形で消えた人間を再び見たことはない。これは夜十二時から朝六時までの門限を破った者も同じだ」

「なっ・・・!」


 源治の背中に冷たい汗が伝う。


「死にたくなければ、警告音が鳴り止む前に行動を慎むことだ。いや、それ以前に、警告音が鳴るような真似はするな」


 男は忠告を残し、雑踏の中へと消えていった。ここは、平穏な刑期短縮の場などではない。一歩足を踏み外せば、物理的に「消去」される、死と隣り合わせの処刑場だった。


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