02 懲役15年
博彦は身を乗り出し、少し声を潜めて語り始めた。
劇中の男、碇直樹が重い鉄扉の向こう側に足を踏み入れたとき、彼を待っていたのは絶望的な「懲役15年」という数字だった。だが、その絶望は入所後すぐに、轟音とともに崩れ去る。
突如として大地が激しく震えた。刑務所の堅牢な壁はなす術もなくひび割れ、天井が崩落する。立ち込める塵芥と受刑者たちの悲鳴。混乱の最中、直樹は崩れた外壁にぽっかりと開いた「自由への隙間」を見つけた。彼は迷わなかった。職員の制止を振り切り、土煙の向こう側へと駆け出したのだ。
逃亡の末、山奥で力尽きようとしていた直樹を救ったのは、轟勤作という名の農夫だった。勤作は直樹に温かい粥を与え、寝床を貸した。
「いい人ねぇ。じゃ、直樹はそこで人生をやり直したの?」
雅美がふと、茶々を入れる。
「いや...それがね」
博彦の口角が、わずかに吊り上がった。
博彦は続ける。
だが、直樹の脳裏にあったのは感謝ではなく、冷徹な計算だった。自分と勤作の体格、そして顔立ちは驚くほど似通っている。
数日後、直樹は背後から薪割りの斧を振り下ろし、農夫の命を奪った。死体を裏庭に埋め、「轟勤作」としての第二の人生を歩み始める。直樹は投資家として巨万の富を築き、気品ある女性・理香と結婚し、一人息子・聡を授かった。
過去は完全に埋もれた。幸福な日常が続いた。
だが、その幸福に「異形」が混じり始める。
脱獄から5年目。
自社ビル落成の記念パーティー。華やかな会場の片隅に、場違いなシルクハットの男が立っていた。男は直樹と目が合うと、親しげに、あるいはからかうように片手をひらひらと振った。
(知り合いか? いや、見覚えはない...)
直樹は怪訝に思ったが、その時はただの酔狂な客だと思い、すぐに忘れた。
脱獄から10年目。
息子、聡の小学校入学式。校門の前で家族写真を撮ろうとした瞬間、桜の木の陰にあの男がいた。男は今度は、両手を大きく掲げ、こちらに向かってぶんぶんと振っていた。
(またあの男だ。何なんだ、一体...!)
直樹は恐怖に震え、周囲に男を捕まえるよう叫んだが、周囲には春の長閑な景色が広がっているだけだった。
「はいはい、わかったわ。これ、最後は『夢オチ』か『ヴァーチャル・リアリティ』なんでしょ?」
雅美が退屈そうに言い放つ。
「直樹が捕まった瞬間からシミュレーションが始まってるっていう、よくあるSFね」
博彦はニヤリと笑った。
「...正解。VR刑務所だよ。でも、雅美。本当の絶望は、そこからなんだ」
脱獄から15年目。
運命の夜。家族で祝う結婚記念日のディナー。レストランの窓の外に、あの紳士が立っていた。男はこれまでで最も深い、裂けるような笑みを浮かべ、直樹の目を真っ直ぐに見据えた。そして、右手の人差し指を一本だけ立て、左手の指をすべて開いて掲げた。
その瞬間、直樹の脳内に電撃が走った。
「1...5...?」
脳裏に、5年前、10年前の光景がフラッシュバックする。あの時の片手の手振りは「5」だった。あの時の両手の手振りは「10」だった。あいつは――あいつは、俺が懲役15年を言い渡されたことを知っていて、この節目の年に現れていたのか!?
「貴様、何者だこの野郎!」
直樹は椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、窓の外の紳士に向かって猛然と駆け寄った。男の襟首を掴み、その正体を暴こうと手を伸ばした瞬間――。
世界のすべてが、ぷつりと途切れた。
次に直樹が目を開けたとき、彼はVRカプセルの中で無数のコードに繋がれていた。
「釈放だ」
刑務官が無機質な声をかける。
15年間の歳月。妻のぬくもりも、息子の成長も、すべては脳に送り込まれた電気信号に過ぎなかったのだ。
「ここはどこだ!? 理香は!? 聡はどこだ!」
叫ぶ直樹を、刑務官は冷たく見下ろした。
「松野理香も、聡も、そんな人間は存在しない。お前はただ15年間服役していただけだ。」
「な、何をバカなことを! 家族に会わせろ!」
「...ハァ、またいつものパターンか、めんどくさ。」
刑務官は食傷気味なのを我慢して、呆れたように言う。
「すべては被害者遺族の要望で組まれたプログラムだ。松野理香も聡もこの世には存在しない。というより、この名前を見てちょっとは気づかなかったのか?」
「名前...? どういう意味だ?」
「『まつのりか』を逆から読んでみろ。それから『そう』も逆から読んでみろ。」
「『まつのりか』...『かりのつま』...『仮の妻』!? 『そう』...『うそ』...『嘘』!?」
絶叫し、地面を掻きむしる直樹。だが、直樹は刑務所の外に放り出され、その門は非情にも閉ざされた。
目の前に広がるのは、15年分老化して60歳になった肉体と、冷え切った現実の夜だけだった。
最初は「よくあるSF」と軽んじていたはずの雅美は、聞き終えると急にシリアスな表情になっていた。
「...ねえ、このファミレスの店員、さっきから同じ動きしかしてないわね。まるでNPCみたいで不気味だわ」
雅美はそう言うと、どこか不安げな面持ちで自分の手のひらを見つめ、確かめるように握ったり開いたりした。その視線は、現実の輪郭を疑うような危うさを孕んでいる。
「大丈夫大丈夫。ここは現実だよ」
博彦は宥めるように優しく、しかしその瞳にはどこか楽しげな色を浮かべて答えると、再び手元のスマートフォンに視線を戻すのだった。




