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14 題名未定 その2

 博彦の低い声が、物語の幕を再び引き開ける。


 撮影開始から二週間。スタジオの空気は、もはや酸素ではなく、凍てついた緊張感で満たされていた。

 現場の中央。伴蓮照を演じる東典行は、かつての雑用ADらしい卑屈な猫背を完全に捨て去っていた。彼の背筋は鋼のように伸び、その瞳には、射抜くような冷徹さが宿っている。


「やり直しだ」


 典行が放った声は、伴蓮照のそれと聞き分けがつかないほど酷似していた。

 監督を務める篝夏希は、モニターを見つめたまま震える指で指示を出そうとするが、言葉が出てこない。伴本人が背後に座り、自分と瓜二つの男が自分を演じる様を、無言で凝視している。その倒錯した光景に、プロデューサーとしての矜持などとうに消し飛んでいた。


 典行の演技は、もはや「演技」の域を超え始めていた。

 伴蓮照という男の、他人を道具としてしか見ない冷酷な視線、機材を壊す際の無機質な動作。それらが典行の肉体に、まるで刺青のように深く刻み込まれていく。


 撮影の合間、典行は伴の隣に呼び出された。

 伴は、典行の顔を、まるで粘土細工の出来栄えを確認する彫刻家のような目で見つめた。


「小僧。お前の中に、まだ『東典行』のゴミ屑が残っているな」


 伴の平坦な声が、典行の鼓膜を叩く。


「申し訳ありません」


「謝罪は不要だ。感情を捨てろ。お前は私を演じているのではない。私が、お前という空の器に、新しい自分を書き込んでいるのだ」


 伴はそう言うと、手元にあった高価なアンティークの懐中時計――映画の小道具として用意された本物を、無造作に床に落とした。

 ガシャッ、と精密機械が砕ける音がスタジオに響く。

 典行はその音に、眉一つ動かさなかった。伴と同じように、無価値なものを壊しただけだと言わんばかりの冷徹な沈黙。


「いい目だ」


 伴は満足げに、蛇のような笑みを浮かべた。


 その夜。典行は帰宅しても、妻の千里に泣きつくことはなかった。

 玄関で出迎えた千里は、夫の変貌に息を呑んだ。

 かつてなら「疲れたよ」と弱音を吐き、彼女の膝に頭を預けていた夫が、今は自分を突き放すような、底冷えのする視線で彼女を見下ろしている。


「のり君? お帰りなさい。ご飯、できてるわよ」


 千里が恐る恐る声をかける。しかし、典行はコートも脱がず、リビングのソファに深く腰掛けた。その動作、その指の組み方、すべてが伴蓮照そのものだった。


「不要だ。食欲はない。明日の台本を整理する」

「でも、少しだけでも食べないと身体が...」


 千里が典行の肩に手を置こうとした瞬間、典行はその手を冷酷に振り払った。

 パチン、と乾いた音が静かな部屋に響く。


「触るな。集中を乱すなと言っている」


 典行の声には、もはや夫としての愛情の欠片も残っていなかった。

 千里は、弾かれたように自分の手を見つめた。


「あなた、誰なの? 私の知っているのり君じゃない...」


 典行は彼女の問いかけを無視し、虚空を見つめた。彼の脳内では、伴蓮照という「人格」が、元々の「東典行」という記憶を激しく書き換えていた。

 かつての思い出、妻との愛、AD時代の苦労。それらがまるで、上書きされる古いデータのゴミのように消え去っていく。


 典行の網膜の裏には、伴の言葉が焼き付いていた。


『私が、お前という空の器に、新しい自分を書き込んでいるのだ』


 博彦が一度言葉を切ると、雅美はストローを噛む手を止め、真剣な眼差しで彼を睨みつけた。


「...最悪。本当に最悪な展開ね。あのAD、伴監督に文字通り『乗っ取られてる』じゃない」

「さっき雅美が教えてくれた、パランプセストそのものじゃない? 古い文字を消して、新しい文字を書き込む。でも、消しきれなかった『前の意志』が時折透けて見えて、それが狂気を生むんだ」


 博彦は冷めたコーヒーを一口啜り、不敵に笑った。


「第1話のVR刑務所、第2話のIES、そして第3話の記憶消去。それらは物理的なシステムによる『上書き』だった。でもこの第4話は、もっと根源的で、逃げ場のない『上書き』を描いている。...『演技』という名の呪いによってね」

「その妻、千里さんが不憫すぎるわ。夫が目の前で別人に書き換えられていくのを見ているしかないなんて」


 雅美は腕をさすりながら、少しだけ身震いした。


「大丈夫だよ...ここから話は、さらに加速する。撮影はクライマックスに入り、現実と劇中劇の境界が、完全に壊れ始めるんだ」


 博彦がそう言った瞬間、ファミレスの店内の照明が、一瞬だけ不自然に明滅した。

 雅美がハッとして天井を見上げる。


「...今、電気、消えかけた?」

「気のせいじゃないかな。古い店だしね」


 雅美が気にしたのは天井だけではなかった。

 常に同じパターンで店内を歩く店員、しゃべるセリフもシステム化された定型文。ドリンクを汲みに行く客でさえ魂を持たないNPCのように見えてきたからだ。

 そう、いつしか雅美は博彦の物語の世界に知らず知らずのうちに引き込まれていたのである。


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