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13 題名未定 その1

 博彦はスマートフォンの画面を指先でなぞりながら、少しだけ声を潜めて言った。


 博彦が三杯目のお替わりを持ってきたコーヒーのカップからは、もう湯気が立っていない。雅美のメロンソーダの氷は完全に溶け切り、グラスの底に薄緑色の層を作っている。


「それじゃあ、いよいよ最後の話だ。第四話――『題名未定』」


 向かい側に座る雅美は、空になったカフェラテのカップを弄びながら、面白そうに目を細めた。


「あら、最後なのにタイトルが決まってないの? 準備不足じゃない?」

「いや、これも演出のひとつだよ。...この物語は、ある『映画』を巡る、狂気と上書きの記録なんだ」


 雅美は少し目をこすり、スマートフォンのバッテリー残量を確認した。20%を切っているが、今の彼女にとってそれはどうでもいいことだった。


 博彦の語りと共に、物語の幕が上がる。


 かつて、世界中の観客を熱狂させ、映画史を塗り替えた一本の伝説的な映画があった。タイトルは『40の想』。その監督を務めたのは、世界で最も有名で、かつ最も恐れられる巨匠、伴蓮照ばん れんしょうだった。

 伴は、完璧を追求するあまりスタッフを精神的に追い詰める「暴君」として知られ、その妥協なき仕事術は数々の神話を生み出してきた。


 それから数十年の時が過ぎ、敏腕プロデューサーの篝夏希かがり なつきは、ある壮大なプロジェクトを立ち上げた。それは、伝説の巨匠・伴蓮照の半生と、その映画『40の想』がいかにして作られたかを紐解く「制作秘話」の映画化だった。


「先生、あなたの仕事術を、その魂を、次世代に伝えるべきなんです」


 篝の幾度にもわたる粘り強い交渉に対し、当初は「自分をひけらかす趣味はない」と冷淡に一蹴していた伴だったが、ついに重い口を開いた。


「条件がある。自分を演じる俳優は、私が自ら選ぶ。そして、監督は貴様が務めろ」


 こうして、映画『究極映画の光と闇 - 「40の想」はいかにして作られたか』の制作が動き出した。


 オーディション会場。

 そこには、伴蓮照という巨人を演じる名誉を求めて、日本を代表する名だたる俳優たちが揃っていた。誰もが、己の演技こそが伴の魂を表現できると信じて疑わなかった。

 だが、審査員席に座る伴の目は、凍てつくように冷めていた。

 候補者たちの野心をあざ笑うかのように。


「...埒があきませんね」


 篝が痺れを切らし、候補者全員に一斉に即興芝居を命じた。会場が熱気に包まれ、俳優たちが必死に己を誇示する中、伴の視線はふいにある一点で止まった。

 伴がゆっくりと指を差す。


「決まりだ。私を演じるのは、そこの小僧だ」


 指の先にいたのは、俳優の列に並ぶ者ですらなかった。

 会場の隅で、機材の搬入や飲み物の用意に追われていた、ただの雑用AD――東典行あずま のりゆきだった。


「え? 私、ですか?」


 驚愕して目を見開く典行と、言葉を失う篝。だが、伴の瞳に冗談の色はない。

 伴は一度下した決定を絶対に覆さない。こうして、一人のADが突如として「巨匠」を演じる主演俳優に抜擢されるという、異常な状況下で撮影は開始された。


 だが、そこは現場と呼ぶにはあまりに不適切で、あまりに過酷な「地獄」だった。

 伴は「監修」という名目で、常に現場の中央に鎮座し、全ての工程を監視していた。


 撮影開始三日目。

 典行が伴を演じるシーンで、僅かに言葉に迷いが生じた瞬間。

 伴は何も言わずに椅子から立ち上がった。そして、足元に置かれた数十万円する高価な照明機材に向かって、一歩踏み出した。

 次の瞬間、伴の重いブーツが、無機質な破壊音と共に機材を粉砕した。


 現場の空気が凍りつく。

 伴の怒りは、人体ではなく「物」に向けられた。それが何よりも恐ろしかった。


「失敗と時間は、このゴミ屑よりも安い。...やり直せ」


 その言葉は、どんな怒号よりも冷酷にスタッフの精神を削り取った。

 カメラマンが意図に沿わないアングルでレンズを向ければ、伴は無言で最新鋭のカメラを取り上げ、撮影機材車から持ち出したハンマーで、その高価なレンズを叩き壊した。


 現場には怒号すら消え、ただ「高価な機材が壊される音」と、伴の平坦な声だけが響く。スタッフたちはノイローゼ寸前まで追い込まれ、監督を務める篝も、伴の圧倒的な威圧感に飲まれて常に顔色を失っていた。


 撮影が終わるたび、典行は泥のように疲弊した体で帰宅した。

 家には、元俳優の妻・千里が待っていた。


「のり君...顔色が真っ青よ」


 千里が心配そうに駆け寄ると、典行は崩れ落ちるように彼女に泣きついた。


「彼は人間じゃないんだ、千里。...機械を壊すのと同じ目で、僕たちの心も壊そうとしているんだよ」


 典行の震える声が、深夜の部屋に虚しく響いた。


 博彦が一度言葉を切ると、雅美は腕組みをしながら深いため息をついた。


「...ちょっと、その伴監督、やりすぎじゃない?」

「そうかな? 殴ったり蹴ったりする暴力よりはマシだと思ったんだけど」


 博彦が首を傾げると、雅美は首を横に振った。


「逆よ、逆。高いカメラやライトを、何のためらいもなく、無言で壊すなんて...人間としての感情が完全に欠落してる感じがして、読んでてゾッとするわ。でも、物語としての強度は格段に上がったわね」


 その言葉に、博彦はニヤリと笑った。


「だよね!...さて、これからどういう展開になっていくのか? ここからが本番だよ。撮影は、典行の精神をじわじわと削りながら進んでいった。いや、『削る』というよりは、伴蓮照という劇薬で、東典行という人格を『脱色』していくようなプロセスだったんだ」


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