壁際の彼女(SIDEアーネスト) 1
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彼女――アシュリー・ドール子爵令嬢を見かけたのは、ほんの偶然だった。
シンクレア伯爵家の嫡男であるものの、華やかな場はどうにも首の後ろのあたりがむずがゆくなる性質で、アルバートは王太子の側近であることを理由に必要最低限の社交しか行っていなかった。
あれは、二年前。
アルバートが、十九歳の頃だ。
いつまでたっても結婚相手を決めようとしないアルバートに焦れた父が、無理矢理、マクレラン子爵家のパーティーへの参加を決めた。
子爵令息であるヴィンス・マクレランは王太子の側近仲間でもあるので、アルバートとしてもさほど抵抗なく、パーティーに顔を出すだけで当面の父親の小言から逃れられるのならばいいかと深く考えずに参加したパーティーだった。
シンクレア伯爵家の嫡男であり、王太子の側近でもあるアルバートは、自分で言うのもなんだが、結構モテる。
貴族なんてものは出世欲の塊であるから、将来有望そうな人物はリストにする勢いで把握しているものだ。
ありふれた焦げ茶色の髪ではあるが、背が高く、顔立ちも不細工ではない(と思う)。青灰色の瞳は冷たそうと言われることもあるが、より良い家に嫁ぎたいと考えている貴族令嬢はそんなものではひるまない。
アルバートは、パーティー会場に入るなりギラギラした視線を向けてくる令嬢たちに、まるでハイエナみたいだなという失礼な感想を抱いた。
アルバートだって年頃の男だ。
女性に興味がないわけではない。
だけどそれ以上に、「結婚」という二文字が煩わしく感じてしまうのだ。
アルバートが結婚に前向きになれないのは、実の両親の影響だった。
はじめに言っておくが、アルバートの両親は別に仲が悪いわけではない。
というかその逆だ。
貴族同士で、もとは政略結婚だったくせに、息子のアルバートが砂糖を吐きたくなるほどに仲がいい。
そして、アルバートの母は嫉妬深くて父がどこに行くにもついて行きたがり、「ねえどこに行くの?」「一緒に行ったらだめなの?」「この前のパーティーで仲良さそうにしていた女性は誰?」とことあるごとに父を質問攻めにする。
母を溺愛している父は、そんな質問にだらしないほど笑み崩れて、嫉妬されるのが心地いいなんてふざけたことを言うのだ。
それを目にして育ったアルバートは、将来自分が同じ目に合うかもしれないとぞっとした。
良くも悪くも生真面目で仕事に誇りを持っているアルバートにとって、円滑に仕事をする上では妻という存在は敵にしかならないと認識したのである。
ゆえにアルバートは結婚に乗り気ではない。
というかギリギリまで回避したい。
嫡男である以上、跡取りという問題が付きまとうため、永遠に結婚から逃げ続けるのは不可能だろう。
しかしアルバートは十九歳。まだいけるはずだ。もうしばらく逃げ続けよう。
端から婚活するつもりのないアルバートは、パーティーがはじまってそうそう壁際へ逃げた。
幾人かの勇気ある猛者(令嬢)がアルバートに声を掛けに来たが、角が立たないようにやんわりと「今日は体調がすぐれないので」と言って退ける。
王太子の側近である以上、人当たりも大事だ。相手を怒らせると、それが王太子への評判にもつながるのである。
目立たない壁際に非難したアルバートは、逃げる途中に手に入れていたワインをちびちび飲みながら、ホッと一息ついた。
そのときだった。
「はあ……」
小さな、それでいて憂鬱そうなため息が聞こえてきて、アルバートは何気なくそちらに顔を向けた。
すると、アルバートの右隣。三歩分ほど離れたあたりに、一人の女性が壁に背を預けて立っていた。
アルバートは思わず目を見張った。
妖精のように……というたとえが正しいのかどうかはわからないが、華奢で可憐な令嬢だったからだ。
それでいて、地味な灰色のドレスがアンバランスのように思えた。
彼女は金色の髪に透き通った湖のような碧色の瞳をしていた。
肌は驚くほど白く、ほっそりとした首はちょっと力を入れるだけで折れそうだ。
先ほど妖精に例えたが、つまるところ、現実味がないほどに整った端整な顔立ちをしている。
整った顔立ちといえばローレンス王太子を思い浮かべるが、彼を毎日のように見ているアルバートでも目を見張るほど、彼女の顔の造形は完璧だった。
歪みがないのだ。完璧なシンメトリー。
彫像ですら、ここまで完璧な顔を作ることはできないだろう。
そのくらい、彼女は輝いて見えた。
――ちなみにのちのちセオ・ハントフォードにその話をしたところ、「アシュリー嬢は確かに美人だけどそこまで神々しくはないぞ。そういうのは恋愛フィルターって言うんだ」と笑われたが、このときアルバートは、本気でアシュリーが妖精か、そうでなければ女神ではないかと思っていた。
彼女はいったい、何に憂いているのだろう。
ひどくそわそわした気持ちになって、アルバートはアシュリーの方ばかり見てしまう。
これほどの美人ならば引く手あまただろうに、彼女がただ一人、息を殺すように立っているのは何故だろうか。
(それに、このドレスは何だ。アクセサリー類も髪をまとめているリボンだけじゃないか。俺だったら彼女にもっと美しいドレスを贈るのに)
彼女に似合う色は何だろう。
瞳の色のような碧も美しいが、柔らかいパステルカラーも似合いそうだ。
彼女に贈るのならばどんなアクセサリーがいいだろうか。
金だと紙の色で霞むから銀の方がよさそうだ。
石は? 青もいいが赤もいい。緑も捨てがたいし……結局のところ、どんな色でも似あいそうだから困る。
アルバートは女性もののドレスにもアクセサリーにもまるで詳しくなかったが、どういうわけか彼女を目にしているといろいろな妄想が膨らんだ。
(俺だったら、彼女をこんな壁際に立たせておかないのに)
ダンスホールに連れ出して、彼女が望むだけダンスを踊るだろう。
立て続けに何曲も踊るのはマナー違反だと言われるが、そんなの知るか。うちの父親だって母親と何曲も踊っているのだ。
「アルバート!」
ぼーっとしていると、誰かに肩を叩かれた。
見ればヴィンスで、どうやら一人でぼけっとしているアルバートを心配して声をかけてくれたようだ。
「そんなところでぼーっとしてどうしたんだ?」
「いや……。ヴィンス、右隣の、灰色のドレスの女性の名前を知っているか?」
主催者の息子なら知っているはずだ。
ヴィンスは「アルバートが女性の名前を聞くなんて」と驚いたように目を丸くして、彼女の姿を確認すると頷いた。
「彼女はドール子爵家のアシュリー嬢だね。あんまりパーティーには来ないんだけど、今日は兄であるチャールズと一緒に参加しているよ」
「その兄はアシュリー嬢を放置して何をしている?」
「あそこ」
ヴィンスが指を指した先に、ブルネットの髪の女性とダンスを踊る金髪の男の姿があった。
「あれはアシュリー嬢の妹のダフニー嬢だよ。といっても実の妹ではなくて従妹で、親の再婚で兄弟になったみたいだけど」
「……アシュリー嬢の兄は、実の妹を放置して義妹の相手か」
「そうだね。だけど毎回あんな感じだよ。アシュリー嬢はいつも壁の花だね」
ヴィンスが声を落として「アシュリー嬢はあんまり家族と仲が良くないって話だよ」と教えてくれる。
アルバートはぎゅっと拳を握り締めた。
家族仲が良くない?
それは、アシュリーが悪いのだろうか?
家族と距離を取りたい女性が、あのように憂いた表情でため息なんてつくはずがない。
「ドール子爵家の、アシュリー嬢だな?」
調べて見なくては。
そして、もしも実家で悲しい思いをしているのならば、自分がそこから連れ出すのだ。
無自覚なままにアシュリーに恋に落ちたアルバートは決意する。
しかし、その決意が見事に砕け散るのは、パーティーから十日後のことだった。
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