第98話「火の中の答え」
長野市街を抜けてしばらくした山道手前の待避所は、夜になると妙に音が抜ける。
エンジンを落とした直後の車内。助手席にレイラ、後部座席にミラとガレス。刃は運転席へ手をかけたまま、一度だけ端末画面を見直していた。
鉄爺からの三行は短い。
だが、短いわりに重かった。
『地鉄が思ったより生きてる』
『繋ぎ方が見えた』
『戻せる。死ぬ前に帰ってこい』
「最後だけ余計だな」
刃が言うと、レイラがシートベルトを引きながら頷いた。
「鉄爺らしいけど」
「らしいで済ませるには縁起が悪い」
「でも、戻せるって書いてある」
そこは確かにそうだった。
ミラが端末を軽く掲げる。
「さっき、こっちにも来ました」
「何が」
「『五分だけ繋げ』だそうです」
送信元は鉄爺の工房。文面は本当にそれだけだった。
用件としては雑だが、あの老人にしてはむしろ親切な方かもしれない。
ガレスが時間を見る。
「五分なら取れる」
「取る前提なんだな」
「ここで取らない方が後を引く」
それもそうだった。
ミラが回線を立てる。普段使っている公開通話ではなく、一段深い経路だった。山道手前の待避所で工房の老人と暗号化通話を繋ぐ状況は、少し考えるとだいぶおかしい。
「繋がります」
画面が明るくなる。
映ったのは鉄爺の顔ではなく、炉だった。
赤い。
工房の灯りより先に、火の色がこっちへ来る。真っ赤な炉床。その前に置かれた作業台。音だけでも分かる。槌は止まっていない。
『見えてるか』
遅れて声が来た。
画面の外からだ。
「見えてる」
刃が答える。
するとようやく、鉄爺が画面へ入ってきた。相変わらず愛想がない。だが、目は前よりずっと起きている。
『ならいい。今のうちに見せとく』
言って、作業台の上へ細長い包みを置いた。
布をめくる。
そこにあったのは、まだ刀ではなかった。
古びた刀から拾い出した地鉄。切り分けられ、磨かれ、使える部分だけが順に並べられている。さらにその隣に、深淵鉄の薄い板材が置かれていた。色が違う。古い地鉄は鈍く、深淵鉄は灯りの奥で静かに青さを返す。
「……そこまでほどいたのか」
刃が言うと、鉄爺は鼻を鳴らした。
『ほどかなきゃ見えねえもんがある』
画面が寄る。
古びた地鉄の一片。ヒビは確かに深く入っていた。だが全部が死んでいるわけではない。割れの脇に、まだ粘りの残った層がある。鉄爺はそこを指先で叩いた。
『ここだ』
『思ったより残ってやがる。てめえ、無茶な使い方はしてたが、潰し切ってはいねえ』
ガレスが低く聞く。
「戻せる根拠は」
鉄爺は待っていたみたいに答えた。
『芯が残ってるからだ』
短い。
だが、それで十分な声だった。
『表のヒビは深ぇ。だが芯まで腐ってねえ。残る地鉄を拾って、深淵鉄を噛ませる場所が見えた。喧嘩させずに繋げる』
ミラが画面越しに身を乗り出す。
「位相差は?」
『そのまま重ねりゃ割れる。だから火入れの温度をずらす』
「ずらして馴染ませるんですか」
『馴染ませるんじゃねえ。通り道を作る』
鉄爺の声が少しだけ低くなる。
『昔の鉄の癖を殺さず、今の鉄の強さを喧嘩させず、振った時に一つの流れに見せる。やることはそいつだけだ』
レイラがそこで小さく息を吐いた。
「前の形に戻す、とは違うんだ」
『違うな』
鉄爺は即答した。
『戻るってのは、昔に巻き戻ることじゃねえ。今の手に合わせて、残ってる芯を生かすことだ』
火の赤さが、その言葉だけ少し深く見えた。
刃は画面を見たまま動かなかった。
古びた刀は、師匠に持たされてきたものだ。だが、今も自分に預けられているその刀を、渡された時のまま凍らせておくことと、今の自分の手で振れる形に繋ぎ直すことは、多分、別の話だった。
失くすんじゃない。
捨てるんでもない。
今の自分が先へ持っていくために、形を変えて残す。
その感覚は、少しだけ山小屋の紙片に似ていた。
師匠も、全部は言わない。だが黙ったままでも、今の自分に要る線だけは外さず寄越してくる。
「……似てるな」
無意識に声が漏れる。
レイラが横を見る。
「何が」
「やってること」
刃は短く答えた。
「刀も、師匠のやり方も。全部は見せねえくせに、繋ぐ場所だけは外さねえ」
ミラが珍しく、すぐには口を挟まなかった。
代わりに、ガレスが一度だけ頷く。
「そういう繋ぎ方はある」
その一言が、妙に重かった。
鉄爺は工具台へ何かを置いた。小さな音。
画面が少し揺れて、今度は別のものが映る。
古びた刀の茎だった。
錆と傷の間に、薄く刻まれた筋がある。銘とは違う。文字ですらない。ただ、誰かが後から引いたような細い線だ。
『こいつは最初からあったもんじゃねえな』
鉄爺が言う。
『後で入ってる。振る人間か、持ってた人間か、どっちかの印だ』
刃は目を細めた。
線の終わり方が、また少しだけ見覚えに触れる。師匠の手紙。刻印片。旧記録庫の備考欄。全部と完全一致ではない。だが、同じ手癖の周辺にある気がする。
「師匠のかもしれない」
『かもしれねえな』
鉄爺は否定しなかった。
『深いとこ見た連中ほど、何でも銘みてえに残しはしねえ。分かる奴だけ分かりゃいい印の付け方をする』
その言い方は、第一世代を知っている人間の口ぶりに近かった。
断言はしない。だが、他人事でもない。
「お前、どこまで知ってる」
刃が聞くと、鉄爺はそこで初めて笑った。
笑ったと言っても、ほとんど口元が歪んだ程度だ。
『鍛冶屋が知るのは、持ち込まれた鉄がどこを見てきたかまでだ』
ずるい答えだった。
だが、あの老人らしい。
『てめえの師匠も、その前の連中も、黙って預けるくせに、残す場所だけは妙に正確だった』
火の前で言われると、それだけで十分な手掛かりに聞こえる。
『だから言っとく』
鉄爺は最後に、深淵鉄の板材と残った地鉄を並べて見せた。
『こいつは戻せる。しかも、前より先へ行ける形でな』
短い沈黙が落ちる。
レイラが先に笑った。
「それ、本人に今いちばん効く言い方だね」
「効かせにきてるだろ」
刃が言うと、鉄爺は平然としている。
『当たり前だ。景気は上げるためにある』
「最後の文面でだいぶ下げてたけどな」
『生きて帰ってこなきゃ振れねえだろうが』
それは正論だった。
腹は立つが。
ミラが時計を見る。
「二十時三十二分」
空気が少しだけ締まる。
補助観測点までの時間が、もう綺麗な数字ではなくなってきた。
鉄爺もそれを察したのか、余計な引き止めはしなかった。
『行け』
ただ一言だった。
『火はこっちで見てる。てめえは、てめえの方を見てこい』
通話が切れる。
車内が一度だけ静かになる。
刃は黒くなった画面を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
古びた刀は終わっていない。
過去も終わっていない。
だったら、今ここで止まる理由はもうなかった。
「行くか」
刃が言う。
ガレスが短く頷く。
レイラはシートベルトを締め直し、ミラは端末を伏せた。
二十時三十三分。
補助観測点の指定時刻まで、あと二十七分だった。




