第97話「一人で行く話」
話を決める時の四人は、深層より静かだった。
長野駅近くのビジネスホテル。
窓の外はもう暗く、部屋の中だけが白く明るい。ローテーブルの上には紙の地図、端末、缶コーヒー、ミネラルウォーター、栄養バー。泊まるための部屋ではなく、完全に作業場だった。
レイラがペンを走らせる。
ガレスが時刻を書き込み、ミラが必要機材と不要機材を分け、刃はその全部を眺めていた。
「見てるだけなの、珍しいですね」
ミラが言った。
「見てるだけじゃねえよ。聞いてる」
「発言量が少ない」
「お前が多いんだよ」
「それは事実です」
認めるのも早かった。
ガレスが紙地図の一点を指した。
「整理する。車はここまで」
林道の終点手前。現在使われていない保守車両待避所と、古い簡易ゲートの記号がある場所だ。
「二十時二十分着を目標にする。そこから全員で歩く。観測点の手前、最後の尾根分岐までで約二十五分」
「そこで刃だけ前へ」
レイラが続けた。
「私たちは尾根の陰で待機。視線も、術式も、極力観測点側へ出さない」
「徹底してるな」
「相手が警戒条件を出してるなら、まずは守る」
乾いた口調だった。
だが、乾いているからこそ本気だと分かる。
ミラが端末を一台持ち上げた。
「持っていくのはこれだけでいいです」
薄い端末だった。通信機能は残っているが、保存領域はほぼ空にしてある。
「原本データ、刻印片の高解像度、地図のフルスキャン、全部こっちには入れません。向こうに見られて困るものは置いていきます」
「じゃあ持ってく意味あるのか、それ」
「生存確認と最低限の時間同期です」
ミラは即答した。
「あと、八雲くんが無言で消えると、待ってる側の精神衛生が悪いので」
「最後だけ研究者の説明じゃないな」
「共同生活の知見です」
何の共同生活だ、と突っ込みかけてやめた。
もう今さら、そういう話でもない。
「通信条件は」
刃が聞くと、ガレスが地図の横へ短い線を三本引いた。
「分岐点までは生きる可能性が高い。その先は死ぬ前提で考える」
「雑だな」
「現場はそんなものだ」
確かに間違ってはいない。
「分岐へ入る前に一回、生存だけ送れ」
ガレスは続ける。
「文面は要らん。既定スタンプ一つでいい」
「戻る時も同じ」
レイラが補う。
「余計な会話は残さない」
ミラが指を立てた。
「なので、スタンプは三種類です。入る、接触済み、戻る」
「雑だな」
「誰かさん向けに最適化しています」
誰かさん、で済ませる気が一切ない目だった。
ガレスは時計を見る。
「二十一時を五分過ぎても接触済みの合図がない場合、予定通り待機継続」
「すぐには動かないんだな」
「動かない。相手が時間ぴったりに出てくるとも限らん」
現実的だった。
深層でも地上でも、この男の基準はそこが強い。
「二十一時三十分」
今度はレイラが続ける。
「この時点でも接触済みも帰還もないなら、私が観測だけ上げる」
「上げるって」
「氷眼の解像度を上げる。でも、踏み込まない。見るだけ」
刃は少しだけ眉を寄せた。
「無理するなよ」
「誰に言ってるの」
「お前に」
「珍しい」
レイラはそこでわずかに口元を緩めた。
「分かった。見える範囲だけにする」
ガレスがさらに次を置く。
「二十二時」
部屋が少しだけ静かになった。
この時刻だけは、全員が同じ重さで聞いていた。
「この時点で戻らないなら、一人条件は切る」
ガレスの声は低いが揺れなかった。
「俺が先行する。レイラは視界補助。ミラは後方で記録と退路管理」
「却下」
刃は即答した。
「お前らまで巻き込むな」
「巻き込まれる前提でここにいる」
ガレスも即答だった。
「だから時間を切ってる。戻らない場合の話を、戻る前提のまま曖昧にする方が危ない」
その通りだった。
気に入るかどうかは別だが、正しい。
ミラが端末の画面をこちらへ向けた。
「情報側も同じです。二十二時時点で帰還なしなら、原本分離状態を固定します。八雲くんが持ってる端末は遠隔消去。こっちの保管データは別経路へ移します」
「そこまでやるのか」
「そこまでやる話です」
眠そうな顔のまま、声だけが妙に固かった。
「向こうが第一世代寄りの管理系設備なら、端末を見られる前提で動いた方がいい。見せていい物だけ持って行っても、持ってるという事実だけで推測されますから」
「嫌な言い方だな」
「嫌な状況なので」
レイラが最後の線を引いた。
「だから、今回は一人で行く。でも、勝手にはしない」
刃は顔を上げた。
さっきまで自分で言うつもりだった言葉を、先に置かれた。
「取るなよ、俺が言おうと思ってたのに」
「じゃあ、自分で言い直して」
逃がさない顔だった。
ひどい。
缶コーヒーを一口飲む。ぬるい。苦い。だが、こういう時には妙にちょうどいい。
「……今回は一人で行く」
刃は三人を順に見た。
「でも、勝手にはしねえ。戻らない場合の線も、持ってく物も、全部ここで決める。……それでいいんだろ」
ガレスが頷く。
ミラも頷く。
レイラだけが数秒こちらを見て、最後に小さく息を抜いた。
「うん。それでいい」
そこでようやく、部屋の空気が少しだけ落ち着いた。
◇
準備は早かった。
ミラは端末の中身を最後まで削り、空の端末に既定スタンプだけを残した。ガレスは現地までの車、林道歩行、尾根分岐、待機位置までの時刻を紙に落とし直す。レイラはその紙をさらに簡略化して、暗闇でも見失わない形へ整える。
刃の役目は少ない。
少ないが、何もしていないわけではない。
全員が動きやすいように、話を短く切る。
迷う箇所はその場で決める。
必要以上に背負わない。
それ自体が、前よりはできるようになっていた。
「そういえば」
ミラが不意に顔を上げた。
「八雲くん、一人で行く前の顔、前よりましです」
「どういう意味だ」
「前は“どうせ自分でやる”顔でした」
「今もやるのは俺だろ」
「そこじゃないです」
彼女は少しだけ笑った。
「今はちゃんと、戻って説明する気の顔してます」
それは褒め言葉なのか、観測結果なのか、少し迷う。
多分、両方だった。
レイラがバッグの口を閉じながら言う。
「前より面倒が増えただけ」
「ひどいな」
「でも、前よりまし」
それも多分、褒め言葉だった。
ガレスが立ち上がる。
「出るぞ。路面が冷える前に林道へ入りたい」
全員が動く。
この四人は、決まると速い。
部屋の電気を落とす直前、端末が一台だけ震えた。
刃が足を止める。
差出人表示を見て、少しだけ意外に思った。
「……鉄爺?」
レイラが振り返る。
「このタイミングで?」
「珍しいですね」
ミラも覗き込む。
短いメッセージだった。
『地鉄が思ったより生きてる』
『繋ぎ方が見えた』
『戻せる。死ぬ前に帰ってこい』
一番最後だけ、いつもの鉄爺だった。
だが、その三行で十分だった。
古びた刀は終わっていない。過去は、火の中でもちゃんと繋がる。
刃は画面を見たまま、短く息を吐いた。
「……縁起でもねえ」
ガレスが口元だけで笑う。
「職人なりの景気づけだろう」
「だとしたら趣味が悪い」
「今さらだね」
レイラが先に部屋を出た。
振り返らずに言う。
「じゃあ、帰ってきてから文句言いなよ」
短いが、十分だった。
刃は端末をしまい、刀袋を左手で提げ直す。
今度は一人で行く。
だが、その前に、帰る先はもう決まっていた。




