第99話「待ち合わせ」
林道の終点で車を降りた時、山はもう夜側に沈んでいた。
古い待避所のコンクリートはひび割れ、脇の簡易ゲートは半分だけ傾いている。使われなくなった保守道らしく、案内板の文字もほとんど剥げていた。
だが、完全に死んだ道には見えなかった。
ゲート脇の鎖は錆びているくせに、留め金だけが新しい。
落ち葉の積もり方も、轍の残り方も、妙に中途半端だった。何年も誰も来ていない荒れ方ではなく、誰かがたまに通って、そのたびに痕跡を消しきれていない荒れ方だ。
「……死んだ設備って顔じゃないですね」
ミラが小声で言った。
眠そうな顔のまま、視線だけが鋭い。
「見て分かるのか」
「落ち葉が変です。自然に溜まるなら、道のくぼみにもっと寄る。でもここ、歩幅分だけ薄い」
ライトを当てるまでもなかった。
確かに、人が踏んでいる筋だけが浅く残っている。
ガレスがゲートの蝶番に触れた。
「油が切れてない」
「最近まで使ってる?」
「少なくとも、忘れられたままではない」
レイラは尾根の暗がりを見たまま言う。
「『一人で来い』の意味、また少し変わったかも」
「どう変わった」
「警戒してるだけじゃない。見せたくないものがある」
刃は返事をしなかった。
返さなかったが、否定もしなかった。
ここはただの待ち合わせ場所ではない。
隠したい何かがあって、そのうえで会うなら一人にしろと言っている。そう読む方が自然になってきていた。
◇
四人はライトを最低光量まで落として林道へ入った。
先頭がガレス。最後尾にミラ。レイラと刃が中央を歩く。
靴裏が砂利を噛む音だけが短く続いた。夜の山は静かだが、無音ではない。沢の流れ、枝のこすれる音、遠くで一度だけ鳴いた夜鳥。その全部の奥に、人が手を入れた場所だけが持つ硬い静けさが混じっている。
途中でガレスが一度しゃがんだ。
「枝が払われてる」
林道脇へ張り出した細枝が、肩の高さだけ綺麗に切られていた。野生動物の道ではこうならない。刃物か鉈で払った面だ。
「今週中くらいですかね」
ミラが続ける。
「切り口がまだ白いですね」
「楽しそうだな」
「楽しくはないです。興味深いだけで」
「研究者のその言い方、だいたい信用ならねえ」
「ひどい偏見です」
偏見ではなかった。
実績に基づく判断だ。
林道が終わる手前で、レイラが小さく笑った。
「でも、ちょっと分かる」
「どっちだよ」
「生きてる施設って、嫌だけど面白い」
「お前までそっち行くのか」
「行かない。私は嫌な方が先」
乾いた返しだった。
だが、そのくらいの軽さがある方が、かえって助かる。
十五分ほど歩いたところで、道の表情が変わった。
車幅のある林道が痩せ、片側が斜面へ落ちる細い尾根道になる。足場は古いままだが、排水溝の泥だけが不自然に浅い。誰かが定期的に掻いているのだろう。
ミラが息を吐いた。
「保守されてますね」
「された、じゃなく?」
「はい。今も」
尾根の途中に、古い反射杭が一本だけ立っていた。
塗装は剥げている。だが、杭そのものは倒れていない。根元の土も締まり直されていた。壊れたものを放置したままでは、こうはならない。
刃は視線を前へ戻した。
音声ログ。帰還補助。旧記録庫の欠落名簿。山小屋の燃え残り。そこに、この山道だ。
記録だけが残っているわけではない。
誰かが、残しながら使っている。
◇
最後の尾根分岐は、地図に書かれていた通り狭かった。
左へ折れれば、緩やかに下って古い作業道へ逃げられる。正面は痩せ尾根のまま伸び、岩と杉の影の間へ消えている。観測点へ行くなら正面しかない。
ガレスがそこで止まった。
「ここからだ」
刃は頷き、端末を取り出した。
既定スタンプの一つ目。
『入る』
送信。
圏内表示は弱いが、既読はすぐに三つ付いた。
「優秀だな」
「待ってる側が本気なだけ」
レイラが言う。
その通りだった。
ミラがバッグの口を押さえながら顔を上げる。
「接触済み、忘れないでください」
「会えたらな」
「その『会えたら』がいちばん困るんですよ」
ガレスは尾根の先を見たまま短く言った。
「二十一時三十分までは見るだけだ。二十二時で切る。そこは変わらん」
「分かってる」
刃が答えると、レイラがこちらを見る。
「ちゃんと帰ってきて」
短い。
だが、それで十分だった。
「おう」
刃は左手の刀袋を握り直した。
それ以上は言わないまま、痩せ尾根へ足を踏み出す。
背中越しに、三人の気配が一段だけ遠くなった。
完全には消えない。だが、これ以上先へは来ない距離まで下がっていく。
今夜の一人は、そこまで含めて四人で決めた一人だった。
◇
尾根の先は、思っていたより人工物が多かった。
自然の地形に見える。だがよく見れば、岩の配置が不自然に揃っている。足場にされる場所だけ角が削られ、滑る箇所だけ細かい砂利が足されていた。夜目でも分かる程度には、人の手が薄く重なっている。
十分も進むと、杉の間に低い影が見えた。
半分ほど土に埋もれたコンクリートの箱。
屋根は傾斜付きで、表面には苔と黒ずみが広がっている。小屋というより、地面へ押し込まれた観測壕に近い。正面の金属扉には古い塗装が残っていたが、中央にあったはずの協会章だけが綺麗に削り落とされていた。
「……ここか」
声は自然と小さくなる。
観測点そのものは古い。
だが、古いだけでは済まない。
扉前の石段には、落ち葉がほとんど乗っていなかった。
排水溝も詰まっていない。軒下へ寄せられた枯れ枝は、ただ風で溜まった形ではなく、踏まれない位置へ避けられている。
扉脇の外灯は死んでいたが、配線を留める絶縁布だけが新しかった。
施設の寿命ではなく、使う人間の都合で保たれている。
そういう残り方だった。
刃はさらに一歩近づいた。
空気の匂いが変わる。
湿ったコンクリート。古い鉄。苔。
その奥に、微かに別の匂いが混じっていた。
薪ではない火の匂い。
湯を沸かした後みたいな、乾いた金属の熱。
扉の取っ手に手をかける。
冷え切ってはいなかった。
鍵は掛かっていない。
だが、招き入れている感じとも少し違う。
入るなら勝手に入れ、ただし余計なものは見ていくな。そんな無愛想な気配が、扉そのものから漂っていた。
刃は端末を一度だけ見た。
時刻は二十時五十九分。
接触済みのスタンプは、まだ送らない。
まだこれは、場所へ着いただけだ。
息を殺し、ゆっくり扉を押す。
蝶番はほとんど鳴かなかった。
誰かが油を差している。
開いた隙間の奥は暗い。
だが完全な闇ではない。床の先、見えない角の向こうに、ごく薄く光を吸った面がある。古い操作盤か、棚か、それとも別の何かか。
刃は敷居を越えた。
中は予想より広い。
手前は小さな前室。その先に短い通路。壁には外された計器の跡がいくつも残っている。配線は切られたままではなく、束ねて壁際へ逃がされていた。使わないものを放置した跡ではない。使うものだけ残して、いらないものを片づけた跡だ。
通路の角に、金属のカップが伏せて置かれていた。
底に、水滴がまだ残っている。
刃はそこで足を止めた。
記録を保管しているだけなら、こんな置き方はしない。
機械を維持しているだけでも、こうはならない。
ここには、生活とまでは言わないまでも、誰かの滞在がある。
人の手の温度が、まだ抜けていない。
その瞬間だった。
通路の奥、さらに先の部屋から、空気が一段だけ沈んだ。
起動音ではない。
風でもない。
息を潜めた誰かが、こちらを見た時にだけ生まれる、あのわずかな重み。
待っていたのは、記録でも機械でもなかった。
――闇の奥で呼吸を殺し、それでも消しきれない、生きている誰かの気配だった。




