第100話「第一世代」
通路の奥の気配は、殺気ではなかった。
斬るつもりなら、もっと早く来る。
気配を消し切れない距離でこちらを見ているということは、見てから決めるつもりだ。
「入れ」
低い女の声がした。
乾いている。年齢は読み取りにくいが、若くはない。だが、弱っている声でもなかった。
「扉、ちゃんと閉めろ。冷える」
刃は後ろ手で扉を閉めた。
金属が静かに噛み合う。
通路の先の小部屋に、卓上灯が一つだけ点いていた。
古い操作卓。湯気の消えかけたケトル。積まれた紙束。壁際には外された計器と、まだ生きている表示灯が数点。生活と設備の境目が曖昧な部屋だった。
灯りの横に、女が座っている。
灰色の髪を短く切り揃え、厚手のカーディガンの上へ古い作業用ベストを羽織っていた。六十代後半か、七十に届いているかもしれない。細い。だが、細いだけで済まない静けさがある。
刃を見上げる目だけが、やけに澄んでいた。
「まず、送れ」
女が言った。
「何を」
「接触済みだ。後ろの三人に」
刃の眉がわずかに動く。
「……分かるのか」
「分からないなら、こんな場所で待たない」
当然みたいに言われた。
刃は端末を取り出し、既定スタンプの二つ目を押す。
『接触済み』
送信。
圏内表示は弱いままだが、数秒後に既読が三つ並んだ。
女はそれを見て、初めて少しだけ息を抜いた。
「剛よりましだな」
その名前が出た瞬間、部屋の温度が変わった気がした。
「……あんた、誰だ」
刃が聞くと、女は卓上灯の横にあった金属タグを指先で裏返した。
擦れた刻印が灯りに浮く。
旧協会規格。
個人識別番号。
その下に、名前。
――佐伯 透子。
「第一世代」
女は短く言った。
「観測と帰還補助をやってた。名簿から抜け落ちた方のな」
刃は黙って立ったまま、彼女を見た。
第一世代。
協会の伝説。ダンジョンを切り拓いた連中。記録庫では肝心な部分だけが抜かれ、今では輪郭だけが残っている世代。
その生き残りが、目の前にいる。
「『忘却領域の先へ行くな』って送ったのも、あんたか」
「そうだ」
佐伯は否定しなかった。
「帰還補助の音声ログも」
「そうだ」
即答だった。
「残したのは私だ。あの記録の前半も後半も、条件分岐も、全部」
あまりにもあっさり言われて、逆に現実感が薄い。
だが、線は綺麗につながる。
「連れがいるならまず帰せ」
刃が続ける。
「次は、お前一人で来い」
「だから、その通りにした」
佐伯はケトルの横に置いてあった金属カップを起こした。
底の水滴が灯りを返す。
「お前一人を呼んだのは、信じてるからじゃない」
乾いた口調のままだった。
「人数が増えた時点で、意味が変わるからだ」
刃は腕を組んだ。
「どう変わる」
「個人の接触で済まなくなる。探りでも、事故でも、黙秘でも包めなくなる」
佐伯の目が、卓上の古い記録紙へ落ちる。
「一人が見て帰るのと、複数人が見て持ち帰るのでは、残る記録の重さが違う。協会も、国家も、企業も、引き返せなくなる」
山小屋の焼け残りが頭をよぎった。
言葉にした時点で、協会の記録になる。
順番を誤れば、あちらもこちらも動く。
「……師匠が燃やしてたのは、それか」
佐伯は一度だけこちらを見た。
「山小屋、見たんだな」
「見た」
「なら話は早い」
彼女はカップへ湯を注いだ。ひどく普通の動作だった。普通すぎて、かえって異様だった。
「あいつは黙ってたんじゃない。書けば残るから、書けなかった。残すたびに、お前を記録へ近づける」
「それでも手紙は残した」
「全部は書かなかっただろ」
刃は返さなかった。
返せない代わりに、少しだけ視線を細めた。
佐伯はその反応を見て、わずかに口元を緩めた。
「剛らしい。いつも肝心なところで、説明の代わりに判断基準だけ置いていく」
その言い方には、長い付き合いの響きがあった。
「門の先はまだ早い」
刃が言う。
「それもあんたか」
「そうだ」
卓上灯の白い輪の中で、佐伯の横顔だけが少し陰る。
「勘違いするな。お前に力が足りないって意味じゃない」
その一言で、部屋がまた静かになった。
「今のお前なら、辿り着く」
佐伯ははっきり言った。
「お前一人でも、連れがいても、たぶん辿り着く。だから早い」
刃はそこで初めて、ほんの少しだけ息を止めた。
「辿り着いた後が問題だ」
佐伯の声は低いが、揺れない。
「私たちの頃の『深層遠征』は、建前の言葉だ。五十層より下をひっくるめて、そう呼ばせた。だが実際には、その先まで見た連中がいる」
刃は黙って聞いていた。
今の会話を外へ出せば、それだけで大騒ぎになる。そんな確信があった。
「それを協会は消した」
佐伯は続ける。
「消して、深層って曖昧な言葉に丸めた。正しかったとは言わない。でも、あの時はそれしかなかった」
「じゃあ、忘却領域の先には何がある」
刃が問う。
佐伯はすぐには答えなかった。
答えないまま、刃をまっすぐ見た。
「今はまだ、そこまでだ」
――拒絶ではない。
線引きだった。
「お前がここへ来た。私が会った。剛が残した線も、お前の連れも、もう無視できないところまで来てる。だが、今夜その先まで言葉にすると、今度は私が順番を誤る」
ひどく納得できる言い方だった。
納得できるのが、いちばん面倒だった。
「……で」
刃は短く聞いた。
「俺に何をさせたい」
佐伯はそこで、初めて少しだけ笑った。
鉄爺とも師匠とも違う。乾いたが、誤魔化しのない笑い方だった。
「やっとそこを聞くか」
彼女は椅子の背にもたれ、細く息を吐く。
「一つ、覚えて帰れ。お前が連れを連れて先へ踏み込んだ時点で、それは探索じゃなく証明になる」
「証明?」
「向こうにも、こっちにもな」
その言葉の意味はまだ半分しか分からない。
だが、半分で十分重かった。
「二つ目」
佐伯は指を一本立てた。
「剛は、お前を隠したんじゃない。先に記録されるのを避けた」
山小屋の燃え残りが、また頭の奥で繋がる。
「三つ目」
彼女は卓上の古い紙束を一枚だけ引き抜いた。
そこには、線と記号と、現在の協会規格とは違う短い符号が並んでいた。
「お前が五つの冬に長野へ抜けた夜、最初にその記録を消したのは私だ」
刃の視線が止まる。
部屋の音が全部遠のいた気がした。
「……あんた」
「見てた。正確には、観測線に引っかかったのを消した」
佐伯は紙束を戻した。
「剛だけじゃない。私も隠した」
そこで初めて、刃はこの部屋の狭さを忘れた。
長野の山小屋。師匠の嘘。旧記録庫の欠落。帰還補助。警告メール。全部が、目の前の女のところへ集まってくる。
「なんで今さら出てきた」
刃の声は低かった。
怒りではない。だが、平坦でもなかった。
佐伯は正面から受けた。
「お前一人なら、まだ黙っていられた」
静かな声だった。
「だが、お前は連れを選んだ。持ち帰った。しかも全員で帰った。……あのやり方をされたら、もう“剛のところの一人で済む刃”では隠せない」
レイラ、ガレス、ミラ。
三人の顔が順に浮かぶ。
佐伯は卓上灯の向こう、さらに奥の暗がりへ目をやった。
部屋のさらに先に、まだ扉がある。厚い、古い、施設本来の用途を隠したまま生き延びてきた扉だ。
「お前が来たなら、もう隠しきれん」
その一言が、観測点の空気を静かに決めた。
「連れを呼べ、八雲刃」
佐伯透子は、はっきりと言った。
「ここから先は、一人で聞いて終わる話じゃない」
刃は返事をしなかった。
返事の代わりに、端末を握る手へわずかに力を込める。
――一人で来たはずの夜だった。
だがその夜の奥で、忘却領域から持ち帰ったものは、ようやく四人の前で本当の形を取り始めていた。
祝、100話!
当初考えていたプロット通りに、ここまで書き続けることができました。
これも、日々読んでくださっている皆様のおかげです。ありがとうございます!
登場人物や設定も増えてきて、管理が少し大変になってきましたが、下記の登場人物まとめなどを随時更新しつつ、なるべく分かりやすく進めていく予定です。
引き続き、楽しんで読んでいただけると嬉しいです!
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▼登場人物まとめ
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▼単語集
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▼設定資料集
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