第101話「連れを呼べ」
刃は端末の画面を見下ろしたまま、親指を止めた。
さっき送ったのは、接触済みという最低限の合図だけだ。
それで三人は動ける。動けるが、それでは足りない。
目の前の女は、もう一度はっきり言った。
「呼べ。今度はちゃんと文で送れ」
刃は佐伯を見た。
「さっきので意味は通るだろ」
「通る。だから次だ」
乾いた声だった。
だが、突き放してはいない。
「ここから先は、お前一人に聞かせて終わらせる話じゃない。呼ぶなら、お前の言葉で呼べ」
面倒な言い方をする。
だが、言いたいことは分かった。
刃は短く息を吐き、端末を打った。
『入ってこい。話が変わった』
少し考えて、もう一文足す。
『観測点の中だ。扉はそのまま使え』
送信。
圏内表示は相変わらず弱い。だが今度は、既読が並ぶより先に返信が来た。
レイラ:『了解。二分』
ガレス:『退路だけ見てから入る』
ミラ:『機材には触らないよう最大限努力します』
刃は眉を寄せた。
「努力って何だ」
思わず口に出る。
佐伯が小さく鼻で笑った。
「まともなのが一人しかいないな」
「誰のことだ」
「さてな」
刃は端末をしまった。
通路の奥は静かなままだが、もう少しすれば変わる。あの三人は来ると決めたら早い。
佐伯は卓上灯の角度を少しだけ動かした。入口側へ光が伸びる。
「座らないのか」
「いい」
「剛に似たな。落ち着かない時ほど立ってる」
そんなところまで似なくていい、とは言わなかった。
言ったところで、似ているものは似ている。
部屋のさらに奥にある厚い扉は、沈黙したままだった。
その向こうへ意識を向けそうになるたび、刃は視線を戻す。まだ早い。そういう線引きだけは、今夜のうちに嫌というほど分からされた。
やがて、通路の向こうから靴音が来た。
一人分ではない。間隔が違う。先に重い足音が止まり、その半歩後ろで軽い足音が揃い、最後に少し跳ねるようなリズムが混ざる。
ガレス、レイラ、ミラ。
その順だ。
入口の前で一度だけ気配が止まり、次の瞬間、金属扉が静かに開いた。
最初に入ってきたのはガレスだった。
大きな体を少しだけ屈め、部屋の角と天井、刃の立ち位置、卓上灯、佐伯の両手、奥の扉までを一息で見て取る。斧は背だが、手はすぐ動かせる位置にある。
「……敵意なし、でいいのか」
誰にともなく問う声だった。
「今のところはな」
刃が答えると、ガレスは一歩だけ中へ入った。
その横を、レイラが抜ける。
髪先に夜気の湿りが少し残っていた。室内を見渡したのは一瞬だけで、次にはもう刃の横へ来ている。
問いはない。確認もない。ただ、当たり前みたいに隣へ立った。
「二分きっかり」
レイラが言う。
「誰も褒めてない」
「褒めてほしくて急いだわけじゃない」
その返しだけで、張っていた空気がほんの少しだけ動いた。
最後に入ってきたミラは、扉を閉める前から目が忙しかった。
外された計器、端子盤、古い表示灯、壁際の紙束、卓上のケトル。視線が一度も止まらない。
「旧協会規格の操作卓、生で残ってるの初めて見たんですけど」
言いながら半歩進み、すぐに刃の視線を受けて止まった。
「触ってない。まだ触ってないです」
「まだって言ったな」
「希望の話です」
ガレスが低く息を吐く。
「希望を口に出すな」
「でも希望は持っていいでしょう?」
そのやり取りを、佐伯は椅子に座ったまま見ていた。
順番に。雑ではなく、値踏みでもなく、確かめるように。
まずガレスで目が止まる。
「先に退路を見るか」
ガレスは肩を動かさないまま返した。
「塞がれて困るのは、だいたい帰りだからな」
佐伯の口元がわずかに緩む。
「まともだ」
次にミラを見る。
「お前は観測じゃないな。測定の方か」
「解析寄りです。あと、見たものを見なかったことにするのが苦手です」
「今夜は覚えろ」
「努力します」
そして最後に、レイラへ視線が移った。
レイラは逸らさない。
佐伯も逸らさない。
「……なるほど」
佐伯が言った。
「剛が面倒だって顔をするのも分かる」
レイラの眉がわずかに動く。
「どういう意味」
「横に立つと決めたら動かん目をしてる」
佐伯はそこで初めて、四人全員をひとまとめに見るように顎を引いた。
「刃だけに話すつもりだった」
部屋が静かになる。
「ここまでの流れなら、それで足りると思っていた。お前本人へ線を渡して、あとは剛の判断に乗せる。そのくらいで済ませるつもりだった」
刃は腕を組んだまま聞いた。
「今は違うのか」
「違う」
佐伯は即答した。
「ここまで来たなら、四人で聞け」
その言い方には、許可より確認の色が強かった。
お前らはもうその位置に立っている、と言われたような響きだった。
ミラが口を開く。
「じゃあ、『一人で来い』って条件は……本当に最初の接触だけのためだったんですね」
「そうだ」
佐伯は卓上の紙束へ指を置いた。
「信じていたからじゃない。人数が増えた時点で、意味が変わるからだ」
ガレスが短く問う。
「どう変わる」
「個人の接触で済まなくなる。探りでも、誤認でも、私的行動でも包めなくなる」
レイラが刃の横から続ける。
「見た人間が増えれば、それだけ記録になる」
佐伯はうなずいた。
「そういうことだ。一人が見て帰るのと、複数人が見て持ち帰るのでは、残る重さが違う」
その言葉で、刃は忘却領域から帰ってきてからここまでの流れをまとめて思い出した。主試料、音声ログ、刻印片、帰還補助、長野の山小屋。全部が“持ち帰った”から今ここにある。
「だから最初は刃だけを呼んだ」
ミラが呟く。
「……でも、全員で忘却領域から帰ってきちゃったから、もう個人案件じゃない」
「そうだ」
佐伯ははっきり言った。
「お前らは持ち帰った。しかも四人で帰った。あの時点で、剛のところの一人で済む刃は終わっている」
刃は心底嫌そうに顔をしかめた。
「言い方が気に入らねえ」
「気に入るように言うつもりもない」
返しが早い。
だが、敵意はない。
レイラが小さく息を吐いた。
「……それで、私たちはここで何を聞く」
佐伯はしばらく答えなかった。
全員の立ち位置をもう一度確かめるように視線を巡らせ、それから卓上灯の輪の中へ手を戻した。
「順番だ」
乾いた声が、部屋の中心へ落ちる。
「今夜全部は話さない。話せる線と、まだ話さない線がある」
その線引き自体は、さっき刃一人へ向けて言った時から変わっていない。
だが今度は、その線引きを四人全員へ向けて言っている。
ガレスが低く問う。
「話せる線だけで足りるのか」
「足りるようにするのが私の仕事だった」
第一世代。
観測と帰還補助。
そう名乗った重みが、その短い返答にも乗っていた。
ミラはもう機材を見ていなかった。
佐伯を見ていた。
「じゃあ、まず何からです」
佐伯は一度だけ刃を見た。
その視線は、年長者が子供を見るものでも、観測者が対象を見るものでもなかった。事実を事実として置く者の目だった。
「まず一つ訂正する」
誰も動かなかった。
卓上灯のかすかな唸りだけが残る。
佐伯透子は、はっきりと言った。
「八雲刃。お前は長野へ来たんじゃない」




