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底辺探索者の手加減極意 〜最強の師匠に育てられた俺はソロでダンジョンを攻略したいだけなのに、偶然トップ配信者を助けたら世界中から注目されてしまった〜  作者: らいお
捌ノ太刀 記録の外側

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第95話「山に残るもの」

 翌朝四時半。東京はまだ暗かった。


 刃は最低限の荷物だけを背負い、左手に生絹の刀袋を提げて部屋を出た。協会管理宿の廊下は静かで、昨日まで殺到していた連絡の気配だけが、壁の向こうに残っている。


 端末には、三件だけ新着があった。


 レイラ:『着いたら一度だけ入れて。圏外でもいい。帰りにも入れて』

 ガレス:『山は山だ。地上だからって油断するな』

 ミラ:『納戸と薪小屋、両方です。あと、明らかに怪しくない箱ほど怪しいです』


 最後の一行だけ妙にうるさい。


 『分かってる』


 短く返した。

 すぐに既読が三つ付く。こんな時間でも起きているのか、まだ寝ていないのかは聞かない方がいい。



 長野駅から山麓の集落へ。そこから先は、前に来た時と同じ山道だった。


 湿った土。杉の匂い。朝の冷え方。足場の癖。体が先に思い出し、記憶はその後からついてきた。五歳でこの山に流れ着いた時のことも、十三年間ここで暮らした時間も、東京へ出てから二年ぶりに帰った日のことも、全部この道の中に沈んでいる。


 違ったのは、煙だった。

 前に来た時は、最後の坂を登る前から小屋の煙突が見えた。今日は見えない。


 だが、完全に死んだ気配でもない。

 山道の脇に積まれた倒木は新しく切られていた。斧の面がまだ乾き切っていない。沢へ下る細い踏み跡も、草が戻り切っていなかった。誰かがここを使っている。しかも、そう昔ではない。


 師匠がいない。

 だが、いなくなったわけでもない。


 その半端さが、かえって厄介だった。



 最後の坂を登りきると、小さな平地が開けた。

 杉に囲まれた小屋は、前と変わらない。壁板は灰色、屋根は苔むし、畑は季節相応に整えられている。薪小屋の薪も、相変わらず気味が悪いほど揃っていた。

 ただ、煙突は冷えている。

 縁側に人影はなかった。

 刃は敷地の端まで視線を走らせた。気配はない。魔獣の匂いもない。山そのものは静かで、小屋だけが妙に人の手の温度を残している。


「……いるなら出てこい」


 言ってみたが、返事はない。

 鳥が一羽、杉の上から飛び立っただけだった。


 縁側に上がり、引き戸を開ける。

 木と煤と乾いた藁の匂いが、昔と同じ順番で鼻に入った。ここだけ時間が遅い。囲炉裏。土間。沢水を引いた台所。手を伸ばせば届く位置にある調味料の棚。何もかも変わっていない。


 だからこそ、変わっている場所が目につく。

 囲炉裏の灰は完全に冷えていたが、掃除が新しかった。台所の桶も乾き方が浅い。数日以内には誰かがここで生活していたはずだ。


 刃は小屋の奥へ進み、まず納戸を開けた。

 中には見覚えのある物ばかり並んでいた。米袋、干した山菜、予備の鍋、古い毛布、修繕用の釘箱。子供の頃に勝手に漁って怒鳴られた棚まで、そのまま残っている。


 だが、最奥だけが違った。

 下段に積まれた木箱が三つ。どれも地味で、生活用品の延長にしか見えない。だがミラの言う通り、こういう箱ほど怪しい。


 一つ目は食器だった。

 二つ目は冬用の予備毛布。

 三つ目を開けて、刃の指が止まる。


 油紙。防水布。乾燥剤。生活用の箱にしては、包み方が丁寧すぎた。

 中から出てきたのは、古い手帳と、折り畳まれた地図だった。


 手帳の表紙には何もない。だが中身は日記ではなかった。日付は飛び飛びで、本文も途切れている。代わりに、余白のあちこちへ短い線の組み合わせが残っていた。長短の区切り。斜線。半端な払い。

 旧記録庫で見た師匠のカード裏と、刻印片の線癖。あれと同じ種類の手だった。


「……やっぱりか」


 頁をめくる。

 読めるところと、わざと削ったように薄くなっているところがある。


 『補助線は残る』

 『門前は記録を分けろ』

 『帰還補助は別棚』


 意味はまだ全部つながらない。

 だが、ただの山暮らしの老人が書く内容ではなかった。


 地図も同じだった。

 市販の国土地図に、師匠の筆で細い追記が入っている。山道、沢筋、尾根。そこまでは普通だ。だが、その端に丸で囲われた記号が三つあった。小屋ではない。山頂でもない。観測点のような短い符号だけが書かれている。


 そのうち一つの横に、門の形に似た走り書きがあった。

 左右二本の縦線。その上をつなぐ浅い弧。雑な絵なのに、妙に引っかかる。

 刃はしばらく地図を見たまま動かなかった。


 門。

 音声ログ。刻印片。第一世代の欠けた名簿。全部が同じ方向へ寄っていく。

 だが、決定打は納戸の箱ではなかった。



 薪小屋の奥に、古い焼却缶があった。

 前に来た時は気にしていなかった。錆びた金属缶など、この山にはいくらでもある。だが今日は、その缶の下だけ床板の色が違って見えた。


 刃は薪束をどけ、缶の蓋を開けた。

 中には灰と、燃え残りの紙片がいくつも詰まっていた。

 灰は古いものだけではない。新しい黒さが混じっている。


 一枚、慎重に拾い上げる。

 端が焼け、真ん中だけが残っていた。


 『名を出すな』


 別の紙片。


 『場所を先に渡すな』


 もう一枚。


 『連れがいるなら――』


 そこから先は焼けて消えていた。

 さらに探ると、半分だけ残った紙が出てきた。


 『言葉にした時点で、協会の記録になる』

 『順番を誤れば、あちらもこちらも動く』


 刃はそこで手を止めた。


 ただ黙っていたわけじゃない。

 何も残さなかったわけでもない。


 残そうとして、消した。

 書こうとして、焼いた。

 そのうえで最後に残したのが、あの手紙だった。


 最短を選ぶな。

 勝てる道より、帰れる道を選べ。

 強い順ではなく、役割で人を選べ。


 あれは遠回しだったんじゃない。あれ以上は、書けなかったのだ。


 薪小屋の外で、風が一度だけ鳴った。

 杉の梢が揺れ、乾いた光が床へ落ちる。


 五歳の時、この山で拾われた。

 十八歳で追い出された。

 二年前に戻って、師匠の嘘を知った。

 今になって、その沈黙の形だけが分かる。


「……面倒、全部分かってて投げたのかよ」


 苦笑にもならない声が漏れた。


 師匠は多分、最初から一人で抱える気がなかった。

 だから嘘をつき、隠れろと言い、最後は判断基準だけ残した。

 刃が、力ではなく選択で動けるようになるまで。


 焼却缶の底に、もう一つだけ燃え残りがあった。


 紙ではなく、小さな金属板だった。

 煤を拭うと、薄く刻まれた記号が出る。納戸の地図にあった観測点の符号と同じ並び。その下に、古い協会規格の管理番号が半分だけ残っていた。


 山地私設保管。


 旧記録庫の票は間違っていなかった。

 師匠は、協会から離れた後も、ここのどこかで第一世代の残骸を抱えていた。



 小屋を出た時、山の空気は少しだけ傾いていた。

 日が落ちるにはまだ早い。だが、東京へ戻るなら、今のうちに下った方がいい。


 刃は手帳と地図、金属板だけを防水袋へ入れ、元の位置を大きく崩さないように箱と缶を戻した。全部持っていく気にはならなかった。ここに残っている形ごと、意味がある気がした。


 最後に小屋を振り返る。

 煙はまだない。

 だが、完全な空き家にも見えない。


 帰ってくる場所というより、途中で立ち寄るための場所。今の師匠にとって、この山はそんな使い方に変わっているのかもしれなかった。


 山道を下り、電波が戻ったのは集落まで三十分を切った頃だった。

 端末が短く震える。


 差出人不明。

 件名なし。


 本文は三行だけだった。


 『補助観測点 三-七』

 『北緯三十六・四―― 東経百三十八・零――』

 『今夜二十一時。一人で来い』


 刃は足を止めた。


 さっき見つけた地図の、丸で囲われた符号。

 その一つと、同じ並びだった。


 山の静けさが、少しだけ遅れて背中に追いついてきた。

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