第86話「崩れる帰路」
「別の場所にされた」
ミラの声が落ちた瞬間、ガレスが全員を見た。
「慌てるな。状況を分ける」
低い声だった。
それだけで、空気が締まる。
「主試料は確保済み。刻印片も保持。優先順位は生還が一位、試料保持が二位。異論は」
「ない」
「ない」
「ないです」
即答だった。
ここで迷う余地はない。
ガレスは続けた。
「隊形を変える。先頭は刃。ミラはルート更新に専念しろ。ケースは俺が持つ。レイラは最後尾、後ろの崩落と追尾を止めてほしい」
「分かった」
「了解」
「任せて」
ミラが迷いなく温度管理ケースをガレスへ渡す。
レイラは振り返ったまま魔導剣を引き、後方の柱列へ視線を滑らせた。刃は前を見る。
やることが分かれている時の四人は速い。説明も要らない。
空洞の配置が、また一段ずれた。
柱と柱の間隔が変わる。床の硬さも、さっきまでの位置関係も信用できない。だが、完全に無秩序ではなかった。どこかにまだ抜け道がある。
ミラが歩きながら端末を叩く。
「左は死にました。さっきまでの帰還ログと一致しません。今、通せるのは右奥の細い一本」
「何秒持つ」
「暫定で七十。次の更新で変わります」
十分だった。
七十秒あれば、刃には長い。
「行くぞ」
駆け出す。
円形空洞の外周を抉るように伸びた裂け目へ飛び込み、刃は床の返りだけを追った。見た目ではない。足裏へ戻る硬さと抜け方だけを見る。奥へ逃がす道は、まだ死んでいない。
背後で鈍い破砕音が響く。
さっきまで立っていた柱が、まとめて半歩ぶん沈んだ。
「後ろ、閉じる!」
レイラの声と同時に、青白い氷が床を這った。
完全に塞ぐのではない。崩落の起点だけを選んで留める。空洞の再配置そのものは止められない。だが、追いつかれない程度に遅らせることはできる。
「二十秒!」
「十分だ」
刃は細い裂け目を抜けた。
次の通路は、前より狭い。左右の壁が近いせいで距離感はましだが、代わりに天井が不穏だった。ひび割れた岩盤が何枚も噛み合い、少しずつ位置をずらしている。
ミラがすぐ更新する。
「前方三十メートル先で二股。右は短いけど沈下、左は遠いけど安定」
「右は」
「十二秒以内なら抜けられるかも」
ガレスが即断した。
「右」
「同意」
刃もそう返した。
十二秒あれば足りる。長く安全な方を選んでいる時間の方が危ない。
通路が開ける。右の枝へ踏み込んだ瞬間、床が鳴った。
沈む。
だが遅い。刃は半歩先で振り返り、黎明を浅く振った。落ち始めた床板の縁、その連鎖だけを断つ。沈下が一拍鈍る。
「今!」
ガレスがミラの肩を押し、温度管理ケースを抱えたまま一気に抜ける。レイラが最後尾で跳んだ瞬間、背後の床が抜けた。
青白い氷の足場が空中に一瞬だけ残り、その一瞬を使ってレイラがこちら側へ着地する。
「危なっ」
「まだ喋れるなら平気だ」
刃は短く言って走り直した。
立ち止まる理由はない。
通路はまた形を変える。
今度は横ではなく、上下だ。前方の段差が一段ぶん増え、天井は逆に低くなる。圧迫感のある一本道。こういう場所は分かりやすい代わりに、塞がれやすい。
ミラの端末が短く鳴る。
「待って、前に大きい空隙があります。さっきの記録より四メートル広い」
「飛べるか」
「刃さんとレイラさんは余裕。私も補助があれば。ガレスさんはケース込みだと厳しいです」
ガレスは眉ひとつ動かさなかった。
「ならケースを先に投げる」
「駄目だ」
刃が即座に切った。
「投げて揺らしたら、中身が死ぬ」
「じゃあ、ここで置くか」
その言い方にも迷いはない。
必要なら捨てる。本気でそう言っている声だった。
刃は前方の空隙を見た。
向こう岸は遠い。だが、完全な断絶ではない。天井から細い鍾乳柱が斜めに下がり、途中で折れて壁に噛んでいる。足場にはならない。だが、荷重の流れは変えられる。
「まだ捨てない」
刃は前へ出た。
「レイラ、向こう岸の縁だけ固めろ。広くはいらない」
「分かった」
「ガレス、ケースを背負い直せ。踏み切りは一歩で足りるようにする」
レイラの氷が向こう岸へ薄く走る。
刃は鍾乳柱の根元へ黎明を入れた。深くは斬らない。落とすのではなく、角度だけを変える。折れかけた柱がわずかに沈み、手前の床と向こう岸の間へ斜めの線が生まれた。
「行ける」
ガレスが先に動く。
重い。だが、重いからこそ踏み切りが無駄なく決まる。斜めになった柱を蹴り、向こう岸へ届いた。氷で補強された縁が一瞬きしむが、割れない。
ミラ、レイラと続く。
刃は最後に跳び、着地と同時に背後の柱が落ちる音を聞いた。
「まだ持ってるか」
刃が聞くと、ガレスはケースを軽く叩いた。
「問題ない」
「じゃあ次」
息を整える暇も惜しい。
ここから先は、崩れるより書き換わる方が早かった。
ミラが秒単位で更新を飛ばす。
「前方三叉、中央だけ通れます。左は距離が伸びる、右は戻される!」
「中央!」
ガレスの声。
「次、下り坂。七歩目で床が滑る!」
「了解!」
レイラの氷が後ろだけではなく、必要な時だけ前にも走る。滑る一枚だけを凍らせ、通り過ぎた直後に砕ける。広域制御というより、秒単位の後始末だった。
刃は先頭で道を拾い続けた。
切るのは敵ではない。落ちる天井の支点、閉じようとする岩壁の噛み合わせ、足を取る段差だけだ。最短で抜けるために必要なものしか切らない。
後ろでガレスが絶えず声を出す。
「五秒後に詰める!」
「今は走るな、歩幅を合わせろ!」
「レイラ、後ろ十メートル!」
四人の動きが、きれいに噛み合う。
ミラが道を出し、ガレスが時間を切り、レイラが潰れかけた余白を繋ぎ、刃がそこを通せる形に直す。
それでも、忘却領域は甘くなかった。
長い直線へ出たところで、床が丸ごと波打った。
前後ではない。通路全体が、横にずれようとしている。
「横滑り来る!」
ミラの声。
ガレスが即座に判断した。
「壁際寄れ! ケースは中央維持!」
刃は左壁へ跳んだ。だが、ミラの足元だけが遅れた。床の波にさらわれ、身体が半歩外へ流れる。
そこへレイラの氷が伸びた。
細い氷帯がミラの足首の前へ走り、滑りを止める。
同時にガレスの手が襟を掴み、中央へ引き戻した。
「ごめん!」
「謝るな、次を見ろ!」
ガレスの声はきつい。だが、焦りはない。
それがありがたい。
刃はそこで、一瞬だけ計算した。
もし次が来て、誰かひとりでもケースと引き換えで助かるなら、迷わず捨てる。深淵鉄は後で取り返せばいい。人間は今しか拾えない。
だが、まだその段階ではない。
「まだ捨てない」
自分に言い聞かせるように呟き、刃は前を切る。
しばらくして、通路の空気が変わった。
湿っていた岩の匂いに、妙な乾きが混じる。距離の狂いも少し薄い。忘却領域の出口に近い時の感覚だ。
ミラが息を弾ませた。
「既知ログ、かすかに戻ってます。六十七層側の古いマーカーと一部一致!」
「抜けられるか」
「たぶん。……でも、ひとつ変です」
前方に、真っ直ぐな壁が現れた。
岩壁にしては平らすぎる。横幅いっぱいを塞ぐように立つ灰黒の板。周囲の地形だけが崩れているのに、そこだけは削られたみたいに形を保っていた。
人工物。
しかも、かなり古い。
ガレスが足を止める。
「最後の障壁、って顔だな」
「前の既知ログに、こんなの無かったです」
ミラが端末を見比べる。
「座標はここで合ってる。でも出口の手前に壁なんてない」
「後ろは」
刃が聞く。
レイラは振り返ったまま答えた。
「まだ持つ。でも長くはない」
つまり、ここを抜くしかない。
刃は障壁の前へ出た。
表面には、古門字とも違う細い傷がいくつも刻まれている。規則がありそうで、途中で崩れている。どこかで見た線だった。
ポーチの中で、板片がかすかに震えた。
次の瞬間。
障壁の中央へ埋まっていた黒い窪みが、淡く光る。
誰も触っていない。
それでも、勝手に起動した。
ノイズ。
古い機械が喉を鳴らすみたいな、掠れた音。
「……何」
ミラが息を止める。
レイラの氷眼が障壁の奥を射抜こうと細まる。
ガレスはケースを抱えたまま盾を上げた。
そして、くぐもった音声が自動で流れ始めた。




