第85話「主脈採取」
止まった守護個体の向こうで、まだ太い反応が脈打っていた。
ミラは端末から目を離さないまま、短く言う。
「主脈、生きてます」
「位置は」
「この空洞の奥、右壁沿い。反応強度、側脈の比じゃないです」
ガレスが守護個体の残骸を一瞥した。
「なら、戦闘確認は終わりだな」
「終わり」
刃は手の中の板片を見た。
軽い。だが、軽いからといって置いていく理由にはならない。
「それ、持ってくの?」
レイラが聞く。
刃は板片を腰のポーチへ滑り込ませた。
「持ってく。捨てる方が後で面倒になりそうだ」
「そう」
レイラはそれ以上言わなかった。
止める気がない時の返事だった。
空洞の奥へ進む。
守護個体が座っていた円のさらに先、右壁が大きく裂けていた。裂け目の内側に走る黒銀の層は、今まで見てきた側脈とは明らかに違う。細い線ではない。壁そのものの芯が入れ替わったみたいに、金属光を帯びた層が何本も重なっている。
近づくだけで、空気の重さが変わった。
忘却領域特有の曖昧さは残っている。
それでも、この場所だけは別だった。距離も輪郭も揺らぐのに、主脈の存在だけが妙にはっきりしている。強すぎて、誤魔化しきれないのだ。
レイラの氷眼が細くなる。
「……太い」
「見えるか」
「見える。側脈の時みたいな滲み方じゃない。芯が一本通ってる」
ミラがすぐに数値を重ねた。
「表面純度推定で九十八台。位相偏差も小さい。たぶん本命です」
「たぶんじゃ困る」
「これ以上は切って見ないと断言できません」
言いながらも、声は弾んでいた。
ようやく当たりを引いた時の顔だ。
ガレスが背後を見た。
「採取に入る前に確認だ。戦闘は終わったが、静かすぎる」
「静かじゃないです」
ミラが端末の表示を見せる。
「地形ノイズが増えてる。守護個体が止まってから、周辺位相の揺れが上がりました。たぶん、この空洞自体が再配置に入ってる」
「猶予は」
「分かりません。だから急ぎます」
それで十分だった。
急ぐ理由が、また一つ増えただけだ。
刃は主脈の前へ立った。
壁の裂け目から覗く黒銀の層は、岩と金属の中間みたいな質感をしている。触れれば切れそうなのに、同時に鈍い粘りも感じる。下手に大きく持っていけば、純度を落とす。鉄爺の紙にあった通りだ。
「手順、もう一回」
刃が言うと、ミラが即座に読み上げた。
「露出確認。打音判定。一次切り出しは最大四kg。封入六十秒以内。位相安定剤注入。外気暴露の累積は、前回込みでまだ一分未満」
「なら余裕はある」
「あります。でも雑にはできないです」
レイラが魔導剣を軽く返す。
「断熱は私。袋の外側に氷膜を貼る。衝撃もこっちで受ける」
「後ろは俺が見る」
ガレスが盾を構え直す。
「崩落でも魔獣でも、採取の手を止める前に一声入れる」
刃は頷いた。
「ミラ、印をつけてくれ」
「はい」
ミラが測定針を三点へ当てていく。
一つ目は悪くない。だが、音が途中で死んだ。
二つ目は長い。けれど最後に微細な濁りが混じる。
「混相です」
「分かる」
三つ目。
針が触れた瞬間、細い高音が壁の奥へ真っ直ぐ走った。
一秒。
二秒。
三秒近く、音が落ちない。
刃はそこで小さく息を吐いた。
「ここだ」
「同意です」
ミラの返答は早かった。
「ここなら、量を欲張らなくても足ります」
「三kg台で十分だ」
むしろ、それ以上はいらない。
偽物を抱えるくらいなら、本物を少しだけ持ち帰る方がいい。鉄爺の言葉はそのまま残っていた。
レイラの氷が静かに広がる。
主脈の露出点を中心に、薄い半球が形を取った。前回より密度がある。局所だけに絞ったぶん、術式効率低下の影響を押し返していた。
「持って四十秒」
「十分」
ミラが断熱袋を開く。位相安定剤、重量計、簡易分析台を一直線に並べた。無駄がない。
「切って」
刃は黎明を抜いた。
斬るのは壁ではない。主脈と周囲の混ざり目、その境界だけだ。
一太刀目で輪郭を取る。
二太刀目で奥の噛み合わせを外す。
三太刀目で、必要な重さだけを残して繋がりを落とす。
黒銀の塊が、鈍い音を立てて外れた。
その瞬間、空洞全体が小さく震えた。
「来る!」
ガレスの声。
背後の柱列で黒い筋が一斉に明滅する。守護個体はもう動かない。だが、空洞そのものが抜かれた主脈の反動を返し始めていた。
刃は採取塊を足先で手前へ滑らせる。
ミラが飛び込み、断熱袋へ封入。口を締める。安定剤注入。
「封入完了!」
「時間」
「三十七秒!」
レイラの氷膜が最後まで持つ。
直後、右壁の裂け目がひとつ増えた。遅ければ危なかった。
ミラは断熱袋ごと分析台へ乗せる。
重量、純度、位相。
数値が立ち上がるまでの数秒が長い。
その間にも、空洞の低い唸りは強くなっていた。
柱の配置が、わずかずつずれる。目に見えるほどではない。だが、足裏が先に変化を拾う。
「出ます」
ミラの声が震えた。
疲れではない。
これは期待の方だ。
「重量三・零四kg。純度九十八・三%。単一位相比率八十三・八%」
条件を越えた。
今度は誰も言い直しを求めない。
数字が、きれいすぎた。
ガレスが短く息を吐く。
「足りたな」
「足りた」
刃もそう返す。
それで十分だった。
大声もいらない。ここで喜びすぎる方が危ない。
レイラが氷膜ごと断熱袋を包み直す。
「保護層、もう一枚入れる。帰路でぶつけても割らせない」
「頼む」
ミラは端末の画面を切り替えた。
「協会に最低限だけ送ります。詳細は帰還後。今ここで解析ログまで投げてる暇はない」
「文面」
「主試料確保、条件達成見込み。帰還行動へ移行。環境変動増大、以降は生還優先」
「それでいい」
レイラが通信端末へ打ち込む。
送信は重かったが、今回は止まらなかった。どこかで地上へ抜けたのだろう。
返信を待つ必要はない。
今、優先するのは帰ることだ。
「刻印片はどうする」
ガレスの問いに、刃は即答した。
「持ち帰る」
「素材優先でもか」
「軽い。邪魔にもならない。それに――」
刃はポーチの位置を確かめた。
「こっちも多分、本物だ」
レイラが一度だけ刃を見た。
「そう言うと思った」
ミラが温度管理ケースを抱え直す。
「じゃあ決まりです。試料と刻印片、両方持って帰る」
「全員で、な」
ガレスの確認に、三人とも頷いた。
その時だった。
端末の表示が、まとめて乱れた。
地形ログの線が一度消え、次の瞬間にはまったく違う形で再描画される。今いる空洞は同じだ。だが、その外側へ伸びるはずの帰路データだけが、別物になっていた。
ミラの顔色が変わる。
「待って」
「何だ」
「座標……」
ミラの指が震えたまま画面を拡大する。
「帰還路の座標が書き換わってる。さっきまでの当たりルート、全部ずれてる」
レイラが即座に後ろを見る。
柱の向こう、通ってきたはずの通路はまだある。あるのに、距離感が違う。少し前より遠い。
ガレスが盾を持ち上げた。
「消えたのか」
「消えた、じゃないです」
ミラは息を詰めた。
「別の場所にされた」
条件は満たした。
主脈も採れた。
持ち帰るものは揃った。
だから今度は、忘却領域の方が答えを返してきた。




