第87話「持ち帰ったもの」
障壁から流れた音声は、最初のほとんどがノイズだった。
砂を噛むような雑音。
古い機械が無理やり喋ろうとしているみたいな掠れ。
それでも、言葉だけは確かに人のものだった。
『――帰還補助記録、起動』
全員が息を止める。
障壁の中央で淡く灯っていた黒い窪みが、脈打つように明滅した。
『主脈採取を確認。経路固定を開始する。固定時間、百二十秒』
ミラが即座に端末を見た。
「戻った……!」
さっきまで乱れていた地形ログが、一気に細く収束する。完全ではない。だが、障壁の向こうへ続く一本だけが、はっきりとした線になった。
『深追いするな。連れがいるなら、まず帰せ』
刃の喉が、わずかに止まる。
声そのものは知らない。知らないはずなのに、言葉の切り方だけが妙に引っかかった。
『欠片は持ち帰れ。記録はそこで終わりだ』
最後の一文だけ、ひどく乱れた。
声というより、息に近い音だけが残る。だが、それで十分だった。
障壁が、ゆっくりと左右に割れる。
その向こうには通路があった。
自然洞窟ではない。
幅は狭いが、壁面は削られ、床も平らに均されている。古い保守通路のような、人工的すぎる直線だった。奥へ行くほど、忘却領域特有の距離の狂いが薄くなる。
「百二十秒です!」
ミラが叫ぶ。
「行けるのは今だけ!」
「行くぞ」
ガレスが先頭を刃へ返し、四人は一斉に飛び込んだ。
保守通路の中では、外の崩落が嘘みたいに静かだった。
だが完全な安全地帯ではない。後ろではまだ障壁が閉じ始め、足元の線も時間とともに痩せていく。固定されたのは永続ではなく、一時的な帰還路だけだ。
刃は前だけを見る。
直線の先、右へ折れた先、さらに短い階段。その全部が、今だけは素直だった。だからこそ速い。ミラの更新も最小限で済む。
「次、左。そこ抜ければ六十七層側の休止点と繋がります!」
「後ろ、まだ閉じてる!」
レイラの声。
振り返るまでもない。追ってきているのは敵ではなく、地形そのものだ。
「走り切れ」
ガレスが短く言い、温度管理ケースを抱え直す。
ミラは息を切らしながらも端末を落とさない。レイラは最後尾で、崩れかけた通路の継ぎ目だけを氷で止める。刃は必要な角だけを切って、走路をまっすぐにした。
最後の折れ角を抜けた直後、背後で重い音がした。
障壁が閉じた音ではない。保守通路そのものが、後ろからまとめて岩に沈んだ音だった。
だが、その頃にはもう四人とも外へ出ている。
六十七層側の古い休止点。
見覚えのある壁。人の残した薄いマーキング。乾いた空気。全部が、ようやく現実に戻った感じがした。
ミラが膝へ手をついた。
「……戻った」
「完全に、ではない」
ガレスが周囲を見る。
「でも帰路としては十分だ」
「十分」
刃もそう返す。
それで、四人とも次に切り替えた。
ここから地上までは、知っている帰り道だ。
楽ではない。だが、未知ではない。
主試料を守るために速度は少し落とした。
ガレスがケースを持ち、レイラが薄い氷膜を絶やさず貼り直す。ミラは移動しながらも位相変動を監視し、刃が前を切る。途中の魔獣は避けられるものを避け、邪魔なものだけを抜く。今は勝負ではない。持ち帰るための帰路だ。
十八時間ごとの定時報告は、とっくに枠を越えていた。
それでも通信が通るところまで戻った瞬間、ミラは最低限の追加報告だけを投げた。
『帰還路復帰。四人生存。主試料保持。地上へ向かう』
返信は、異様な速さで返ってきた。
『受領。入口受入体制、緊急完全展開』
『医療班、保全部、監督班配置済』
『報道遮断困難。現地は過密』
「最後の一行が一番いらないな」
刃が言うと、ミラが苦笑した。
「でも事実です」
「面倒だ」
「うん」
レイラだけは、それに何も言わなかった。
代わりに氷膜の厚みをほんの少しだけ上げる。試料を守る方へ、意識を寄せたのだろう。
地上へ戻るにつれて、人工物の比率が増えていく。
古い標識。整備痕。協会が後から付けた安全灯。六十七層より上は、もう忘却領域の理不尽ではない。だからこそ、疲労の方が目立つ。ガレスの呼吸は重く、ミラの足は何度かもつれそうになり、レイラの氷も以前より出力が細い。
それでも誰も止まらない。
止まる理由がないからだ。
最後の転移階段を抜け、第一階層の既知ルートへ戻った時、刃はようやく肩の力を半分だけ抜いた。
まだ終わってはいない。だが、帰れる距離に入った感覚は確かだった。
入口の大扉が見えたのは、その少し後だ。
扉の向こうは、昼より明るかった。
夜だというのに、投光器と報道ドローンのライトが集まり、入口前の広場を白く焼いている。協会の規制線は何重にも張られていたが、その外側には人の壁があった。記者。企業関係者。配信カメラ。野次馬。全員が、ただ扉だけを見ている。
四人が出た瞬間。
音が爆ぜた。
「出た!」
「遠征隊です!」
「全員生還!」
「ケースを持っています、あれが――」
フラッシュ。ライト。叫び。
刃は思わず顔をしかめた。
「うるせえ」
「帰ってきたんだなって感じはするよ」
ミラが息を切らしながら言う。そういう基準はいらない。
だが、次の瞬間には協会側の動きの方が早かった。
待機していた受入班が一斉に前へ出る。医療班、保全班、監督班。さらに簡易遮蔽幕まで展開され、四人を囲うように通路が作られた。
「八雲隊、こちらへ! 生体確認を最小限で済ませます!」
「主試料の保全を優先! 温度管理ケースを引き継ぎます!」
ガレスがケースを抱えたまま言う。
「引き継ぎは保全責任者の対面確認後だ!」
「承知しました!」
その声に迷いがないのがよかった。
事前に詰めていた段取りが、ちゃんと生きている。
レイラは刃の半歩前に出て、報道のレンズだけを睨んだ。
それだけで何本かのドローンが自然に距離を取る。
「質問は帰還処理後にして」
低い一言だったが、十分だった。
それでも声は飛ぶ。
「主脈採取は成功したんですか!」
「特級遠征の成果を公開する予定は!」
「各企業から正式協議要請が――」
刃は全部無視した。
聞く価値がない。
受入区画の中で、保全責任者がケースの封印状態を確認する。ミラが数値ログを見せ、レイラが氷膜の残余時間を伝え、ガレスが搬送経路の優先順位を切る。刃がやることは少ない。少ないが、それでいい。
四人で来たのだから、四人で持ち帰る。
十分後には、試料は専用の耐衝撃コンテナへ移されていた。
それでも最終確認だけは、鉄爺の目を通す必要がある。
護送車に乗り込む前、ミラが端末を見せた。
「速報です」
「見せるな」
「見なくても聞こえますよ」
画面には文字が流れている。
『国定ダンジョン遠征隊、全員生還』
『特級遠征、成果物持ち帰りか』
『企業各社、協会へ緊急照会』
『#忘却領域帰還』
「うん。最悪」
レイラが言った。
それには同意しかない。
職人街へ向かう護送車の中は、ようやく静かだった。
外のサイレンとローター音だけが遠くに混じる。車内では誰も大きく喋らない。疲れているのもあるし、まだ全部終わっていないのもある。
ガレスが最初に口を開いた。
「一つずつ確認する。生存、達成、保持。ここまでは完了だ」
「うん」
ミラが頷く。
「でも、音声ログが残ってます」
「記録は取れたのか」
「一応。障壁起動と同時に自動で取ってました。ただしノイズだらけです」
刃は窓の外を見たまま聞く。
「聞ける形になるか」
「やってみます」
レイラがその横顔を見た。
何か言いかけて、言わない。そういう沈黙だった。
鉄爺の工房に着いた時には、もう日付が変わりかけていた。
それでもあの老人は寝ていなかった。扉を開けた瞬間、炉はまだ生きていて、鉄と油の匂いが濃く鼻に入る。
「遅ぇ」
第一声がそれだった。
いつも通りで、少しだけ安心する。
「持ってきた」
「見りゃ分かる」
鉄爺は受入台の前へ顎をしゃくった。
保全責任者立ち会いのもとで封印が解かれ、断熱袋が出される。レイラが氷膜をゆっくり剥がし、ミラが最終ログを表示する。鉄爺は何も言わず、まず目で見た。
次に指先で表面をなぞり、最後に小さな金槌でごく軽く叩く。
高い音が、工房の奥まで真っ直ぐ抜けた。
鉄爺の口元が、ほんの少しだけ歪む。
「……本物だ」
その一言で、ようやく終わった気がした。
「条件は」
ミラがすぐ数字を出す。
「重量三・零四kg、純度九十八・三%、単一位相比率八十三・八%」
「十分だ。これなら打てる」
鉄爺は試料を見たまま続ける。
「むしろ上等すぎる。よく欲張らなかったな」
「欲張ると死ぬって、あんたが言った」
「だから正しい」
短いやり取りだった。
だが、それで十分だった。
鉄爺の視線が、次に刃のポーチへ向く。
「で、そっちの面倒も拾ってきたか」
「分かるのか」
「顔でな」
刃は板片を取り出し、作業台へ置いた。
鉄爺は一度だけ見て、すぐ眉を寄せる。
「刀の部材じゃねえな」
「何か分かるか?」
「すぐには無理だ。だが、ただのゴミでもねえ」
そこでミラが端末を持ち上げた。
「音、少しだけ抜けました」
全員の視線がそちらへ向く。
工房の空気が静かに張る。ミラはノイズ除去した波形を表示し、再生ボタンを押した。
最初の部分は、障壁前で聞いた通りだった。
『――帰還補助記録、起動』
『主脈採取を確認。経路固定を開始する』
『深追いするな。連れがいるなら、まず帰せ』
『欠片は持ち帰れ。記録はそこで終わりだ』
そこから先。
障壁前では潰れていた数秒が、ノイズの奥から少しだけ浮いた。
掠れている。
古い。
だが、今度は言葉として聞き取れた。
『門の先は、まだ早い』
誰も動かない。
ミラが再生を止めない。
『……次は、お前一人で来い』
音が切れた。
工房の中で、炉の火の音だけが残る。
刃は何も言わなかった。
言えるわけがない。
師匠の声ではない。
だが、似ていた。
言葉の運び。間の置き方。余計な説明を省く癖。知らない誰かの声なのに、知らないままではいられない。
鉄爺も珍しく黙っていた。
ガレスはケースの上に手を置いたまま、何も挟まない。ミラは端末を見つめ、レイラだけが刃を見ていた。
「……行くの?」
小さな声だった。
責めてもいない。止めてもいない。ただ、確認だけがある。
刃は少しだけ息を吐く。
「今すぐじゃない」
それが今の答えだった。
「でも、無視はできない」
レイラは黙って聞いていた。
それから、ほんの少しだけ近づいて、刃の隣に並ぶ。
「じゃあ、その時も見る」
刃は横を見なかった。
見なくても、そこにいるのが分かるからだ。
外ではまだ報道のライトが夜を白くしている。
協会は成果を欲し、企業は接触を強め、鉄爺は炉の火を落とさず、刻印片と音声ログは机の上で冷えている。
四人は帰ってきた。
深淵鉄も持ち帰った。
けれど、本当に持ち帰ってしまったのは、それだけではなかった。
忘却領域は、まだ入口にすぎなかった。
(漆ノ太刀、完)
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