第75話「師匠の痕跡」
二十一時十分。提出期限を過ぎた協会管理システムに、追加資料の受領通知が表示された。
刃の安アパートのローテーブルには、端末が二台、紙の控えが三枚、空の缶コーヒーが四本。ようやく今日やる事が終わった形だ。
レイラはノートPCを閉じ、背もたれに深く体を預けた。
「提出、完了。補給計画と解析計画、どっちも受理された」
「助かった」
「最終判断は四十八時間以内。ここからは待ち」
刃は短く頷いた。待つのは得意でも、待っている間に何もしないのは性に合わない。
左手に提げていた刀袋を壁際へ置く。上着を脱ぐ。押し入れを開ける。いちばん奥に突っ込んでいた古いリュックを引っ張り出した。
山から東京へ戻った時以来、ほとんど開けていない荷物だった。
「……まだ何かするの?」
レイラが聞いた。声は柔らかい。
「作業ってほどじゃない。確認だ」
「何の?」
「師匠が残したもの」
レイラはそれ以上聞かなかった。「分かった」とだけ言って、席を立つ。台所で湯を沸かし始める音がした。
刃はリュックの中身を床に並べた。古い手袋、予備の包帯、防水布、小型ランタン、折り畳み式の火口缶。実用一点張りの道具ばかりだ。思い出をしまうための荷物ではない。
最後に、防水袋の底から、折り目だらけの手紙が出てきた。
師匠が残した、あの手紙だ。
東京に戻ってからも、何度か読み返した紙だ。中身はもう読んでいるつもりだった。
刃は紙を一枚広げた。手紙の本文は、何度か読んだ文面だった。問いと、短い指示。
だが、紙を光に透かした時、下端に違和感があった。折り返しが不自然に厚い。指先で探ると、薄い和紙がもう一枚、糊で貼り込まれている。
「……隠し紙かよ」
独り言が漏れた。
慎重に端を剥がす。破らないように、爪で少しずつ。和紙は古く乾いていたが、師匠の癖みたいに頑固で、簡単には外れない。
背後で足音が止まった。レイラがマグカップを二つ持って立っている。
「何か見つかった?」
「まだ読み切ってない」
「分かった。先に置いておく」
レイラはカップを机に置き、何も覗かずに自分の席へ戻った。端末を開くが、キーは叩かない。画面だけを眺めて、こちらに背を向けない位置に座る。
待つ、と決めた人間の姿勢だった。
剥がれた和紙には、地図も座標もなかった。
代わりに、短い文が縦に並んでいた。
『最短を選ぶな』
『勝てる道より、帰れる道を選べ』
『強い順ではなく、役割で人を選べ』
『答えは場所ではなく、選択に出る』
刃は紙を持ったまま動きを止めた。
最深部の座標を示す秘密文書。そんな都合のいいものを、どこかで期待していた自分がいた。だが師匠が残したのは地名ではなく、判断基準だった。
どこへ行くかより、そこで何を選ぶか。
何を斬るかより、誰を帰すか。
胸の中で、ここ数日の会議で積み上げた言葉が繋がる。
全員で帰る。無意味な戦闘はしない。目的は持ち帰ること。
偶然ではない。師匠の問いと、同じ線上にある。
刃はテーブルの上のノートを引き寄せ、短く書いた。
『判断基準を先に固定する』
『同行候補は戦闘力ではなく役割で評価』
『四人編成の再確認』
レイラがこちらを見たが、まだ聞かなかった。
刃はマグカップに口をつけた。ブラック。少し冷めていたが、苦さはちょうどよかった。
「レイラ」
呼ぶと、彼女はすぐに顔を上げた。
「うん」
「明日、候補を試す。実戦寄りの短時間テストで」
「試すってことは……選抜? てっきりこの四人でいくと思ってた」
「ああ。強い順じゃない。役割が噛み合うかを見る」
レイラは小さく頷いた。
「了解。会場は私が押さえる」
「助かる」
それだけで会話は終わった。レイラはまた端末へ視線を戻す。
詮索はしない。必要な時だけ支える。その距離感が、今の刃にはありがたかった。
零時を回った頃、刃はもう一度、和紙を開いた。
文面の下に、かすれた線がある。最初は紙の傷だと思っていたが、違った。筆圧の跡だ。墨がほとんど乗っていないだけで、文字の形になっている。
刃は鉛筆を寝かせ、紙の裏から軽く擦った。薄い灰色が浮かぶ。途切れ途切れの字が、少しずつ繋がっていく。
最後の一行だった。
『お前が連れて行く相手を間違えるな』




