第74話「鉄爺の依頼書」
理事会事前協議の翌日、十六時二十分。
刃とレイラは、下町の路地裏にある鍛冶場の前に立っていた。
引き戸の向こうから、金属を打つ乾いた音が響いてくる。
三拍で打って、一拍で止める。一定のリズム。迷いのない音。
「時間、ギリギリだね」
レイラが端末の時刻を見た。
「追加資料の提出、十八時まで。ここで仕様を確定できないと、協会に出す計画書が半端になる」
刃は頷いて、引き戸を開けた。
中は熱かった。
炉の赤い光。鉄の匂い。床に散った火花の跡。鉄爺はいつもの革エプロン姿で、短くなった鉛筆を耳に挟み、作業台に向かっていた。
「……来たか」
鉄爺は顔を上げずに言った。まるで二人が来ることを知っているかのような口ぶりだった。
「資料を作ってほしい。協会に出す遠征計画に、素材仕様が要る」
刃が単刀直入に頼むと、鉄爺は槌を置いた。
「ようやく話が早くなったな。座れ」
簡易テーブルの周りには、すでに二人分の椅子が増えていた。
ガレスとミラが先に来ていた。
ガレスは紙の地図を広げている。ミラは携帯型分析端末とノートを並べ、目を輝かせていた。
「なるほど、来てたのか」
刃が言うと、ガレスが肩をすくめる。
「補給計画と素材仕様はセットだ。ここを外すと全部崩れる」
ミラは笑って手を振った。
「私には専門外だけど……念のためにね」
鉄爺が古いクリップボードを机に置いた。
白い紙が一枚。見出しは太い字で、こう書かれていた。
『打ち直し用素材仕様書(八雲刀・暫定版)』
刃はその文字を見て、少しだけ息を止めた。
「読め」
鉄爺の短い指示に、ミラが音読を始める。
「えっと……
一. 必須素材:深淵鉄
二. 必要質量:最低二・八kg(精錬ロス込み)
三. 純度:九十七・五%以上
四. 結晶位相:単一位相比率八十%以上
五. 搬送条件:外気暴露時間を合計二十分以内に抑えること」
ミラが顔を上げた。
「……二十分? これ、かなり厳しいよ」
鉄爺が頷く。
「深淵鉄は空気に長く晒すと、位相が崩れる。崩れた鉄は打っても鳴らない。鳴らない刀は折れる」
ガレスが紙の端を押さえながら聞く。
「浅層採取で条件を満たせる可能性は?」
鉄爺は即答した。
「低い。忘却領域の入口付近は混ざりが多い。純度が足りん」
「混ざりって何だ」
刃の問いに、鉄爺は作業台から黒い金属片を二つ持ってきた。
「左が浅層で取れるやつ。右が深い層の主脈から取れるやつだ」
見た目は似ていた。
だが、鉄爺が金槌で軽く叩くと、音が違った。
左は鈍い。
右は、澄んだ高音で長く響いた。
「……音が違う」
レイラが小さく呟く。
「その通り。浅層のは不純物で音が死んでる。これで刀を打っても、こいつの力に負ける。一回は保っても、二回目で飛ぶ」
ミラが端末に数値を入力していく。
「純度九十七・五%以上、単一位相八十%以上。つまり採取地点を選ばないと詰む。闇雲に拾っても意味がない……」
ガレスが地図にペン先を当てた。
「問題は、忘却領域のどこから先でその品質が安定するかだ」
鉄爺は腕を組んだ。
「層番号で断言はできん。あの領域は数字が当てにならない。だが、入口付近では足りない。もっと奥だ」
刃は紙を見つめた。
「奥、か」
レイラが刃を見る。
「昨日の会議で言ってた通りだね。六十八層以降は入口で、目的地はその先」
「ああ」
鉄爺はさらに一枚紙を差し出した。手書きのチェックリストだ。
『採取手順(現地)』
一. 露出主脈を確認
二. 打音判定(高音持続二秒以上)
三. 一次切り出し(最大四kg)
四. 断熱袋へ封入(六十秒以内)
五. 位相安定剤を注入
ミラが目を細める。
「打音判定を現地でやるの、ロマンはあるけどリスク高いね」
鉄爺が鼻を鳴らした。
「ロマンじゃない。必要だ。数字だけじゃ偽物を掴む。耳を使え」
ガレスがレイラに向いた。
「搬送中の防護は?」
レイラは即答する。
「氷術で断熱層を作る。袋の外側に薄い保護膜を貼る。衝撃は私が受ける」
「無理するな」
ガレスの低い声に、レイラは首を振った。
「無理はしない。役割をやるだけ」
刃はクリップボードの余白に、短く書いた。
『目的:二・八kg / 九十七・五%以上 / 位相八十%以上』
それから鉄爺を見る。
「もう一つ。代替案はあるか。現地で条件を満たせない場合だ」
「ある」
鉄爺は指を一本立てた。
「持ち帰る量を減らして、品質を上げろ。量を欲張るな。五百グラムでも本物なら打てる。偽物を三kg抱えて帰る方が地獄だ」
「この人、正しいことしか言わないね」
ミラが笑う。
鉄爺は無視して、刃に紙を突き返した。
「依頼書はこれで終わりだ。提出用に清書するなら勝手にしろ。だが数字は一桁も変えるな」
刃は紙を受け取った。
「助かる。……何故深い場所で採取されたであろう深淵鉄を持っていたかは聞かないでおくよ」
鉄爺が目だけで刃を見た。
「フン……礼は持って帰ってから言え」
短い沈黙。
炉の火が小さく鳴った。
鉄爺は背を向け、次の鉄材を掴みながら言った。
「素材を取りに行くんじゃない」
槌が振り下ろされる。
甲高い音が鍛冶場に響いた。
「素材より先に、持ち帰る覚悟を鍛えろ」
その言葉だけが、熱い空気の中で妙に冷たく残った。
外に出ると、夕方の空気が少し冷えていた。
ガレスは時計を見た。
「十七時十二分。提出は間に合う」
ミラは依頼書をスキャンして、暗号化フォルダに保存する。
「協会提出版、私が整える。技術値は原文維持、説明文だけ一般向けに落とす」
レイラが端末を操作した。
「広報には『素材仕様の精査中』まで。数字は伏せる」
刃は刀袋の重みを左手で確かめた。
紙一枚。
たったそれだけで、遠征の輪郭は一気に現実になった。
「行くしかないな」
誰に向けた言葉でもなかった。
ガレスが頷く。
ミラが頷く。
レイラが、少しだけ笑って頷いた。
忘却領域の入口は、もう目の前にある。
次に試されるのは、強さじゃない。
持ち帰る覚悟だ。




