第72話「遠征会議」
翌日の夕方。
刃の安アパートには、珍しく人が集まっていた。
昨夜、レイラと「最深部へ行く」と決めた直後に、刃はレイラへ一通だけ送った。
『準備会議をやる。ガレスとミラも呼んでくれ』。
理由は単純だった。国定ダンジョンの最深部——忘却領域以深は、個人の強さだけで突破できる場所じゃない。行軍と撤退判断はガレス、観測と採取管理はミラ、対外調整はレイラ。刃は、今回の遠征を最初から「四人でやる案件」として動かすことにした。
六畳間の中央に折りたたみテーブル。上には缶コーヒー、炭酸水、プロテインバー、そしてミラが持ち込んだ分厚い資料ファイルが三冊。狭い部屋に四人。いつもの面倒な連中だ。
レイラはノートPCを開いている。神盾機関のロゴ入り。画面には国定ダンジョンの公開地形図と、協会の公開データベースから引いた階層情報。
ガレスは壁際に座り、腕を組んだまま部屋全体を見ていた。会議が始まる前から、もう警備モードだ。
ミラはファイルを机に並べ、付箋を高速で貼っていく。いつも通り楽しそうだった。獲物を見つけた研究者の顔だ。
刃は床に座って、缶コーヒーを開けた。
「……で。何からやる」
レイラが即答した。
「目的の確認。次に人選。最後に情報公開の線引き」
「妥当だ」
ガレスが頷く。
ミラがペンを構えた。
「議事録、取るね。後で消す版と残す版を分ける」
「消す版って何だよ」
「外に出せない本音」
刃はため息をついた。いつもの会議だ。面倒で、でも進む。
レイラが画面を四人の方へ向けた。
「まず前提。今回潜るのは、私たちが最初に出会ったあの国定ダンジョン。近道はない。ショートカットできるゲートもない。必ず一階層から順番に降りる」
ガレスが補足する。
「地上付近が上層。三十層付近が中層。五十層以降が下層。で、六十八層以降が忘却領域だ」
ミラが資料の一枚を机に置いた。色分けされた縦断図。
「公開情報としては、ここまで。忘却領域の詳細地形はほぼ空白。協会も企業も、まともなマップを持ってない」
刃は図を見た。縦に長い、底の見えない穴。
レイラが視線を上げる。
「刃。あなたの実地情報を聞きたい。どこまで行ったことがある?」
刃は一口飲んでから答えた。
「忘却領域の、浅いところまでだ。長く滞在はしてない。腕鳴らしに魔獣と戦ってみたり、素材を採取した程度だ。あの領域は地形が一定じゃない。帰り道の方を優先した」
ミラのペンが止まった。
「浅いところって、何層相当?」
「正確な層は分からないが、七十四層相当までは降りたことがある。……だがあの辺りから、階層表示が信用できなくなる。体感で言えば、入口から少し入った程度」
沈黙が落ちた。
ガレスが低く言う。
「つまり、今回は未知域に入る」
「ああ」
刃は缶を机に置いた。
「俺が目指すのは六十八層以降——つまり忘却領域だ。もしかすると、そこより先に行く必要があるかもしれない」
レイラの蒼い瞳がまっすぐ刃を捉える。
「理由は二つ。刀の素材と、師匠の答え」
「そうだ」
ミラがページをめくった。
「素材条件は鉄爺さんの依頼書待ちだけど、純度指定が入る可能性が高い。浅層で足りないなら、深部主脈を狙うことになる」
ガレスが机を指で叩く。
「なら人選は、戦闘力じゃなく役割で決めるべきだ」
レイラが頷く。
「同意。刃が前衛主軸。ガレスが護衛と撤退指揮。ミラが解析と採取管理。私は感知・広域制御・対外窓口」
「広域制御は負荷が重い」
「分かってる。だから連戦は避ける」
ガレスの指摘に、レイラは短く返した。
ミラが手を上げた。
「はい。補給線の話に移っていい?」
「どうぞ」
「一階層から降りる以上、短距離遠征じゃない。食料、浄水、応急処置、結界電池、簡易修理材。これ全部、重量管理が必要。途中で現地調達できる前提は危険」
刃が即答する。
「荷は俺が持つ」
「それは知ってる。でも『持てる』と『最適』は別。重量が重いほど判断が遅れる。あなたは大丈夫でも、私たちが遅れる」
正論だった。
刃は眉を寄せたが、反論しなかった。
ガレスがミラを見る。
「数値で出せるか」
「出せる。個別負荷と共同装備、分けて最適化する」
レイラが次の画面を開いた。ニュース画面のスクリーンショットが並ぶ。
「最後に情報公開。ここが一番面倒」
刃が露骨に嫌そうな顔をした。
「もう十分面倒だろ」
「これからもっと面倒になる」
レイラの声は静かだった。
「いまは『測定不能』『特級議案』が内部で漏れてる段階。でも遠征が決まれば、メディアは必ず張り付く。匿名はもう限界」
ガレスが続ける。
「公開する情報を先に決める。出していいものと、絶対に出さないもの」
ミラが指を折る。
「出していいのは、遠征目的の大枠、公式監督の有無、出発時刻。出さないのは、具体ルート、採取手順、帰還条件、装備詳細、連絡プロトコル」
刃は腕を組んだ。
「住所と生活圏は」
「絶対非公開」
レイラの返答は早かった。
「そこは私が全部止める。協会と神盾機関、両方で防壁を張る」
ガレスが一拍置いて言う。
「問題は協会だ。理事会の承認が遅れれば、遠征そのものが止まる可能性がある」
その時、机の上の端末が震えた。
レイラの端末だ。差出人はミリア。
レイラが画面を見て、眉を上げた。
「……早い」
「何だ」
「理事会の事前面談。明日、午前十時。議題は遠征監督体制と情報公開範囲」
ミラが苦笑した。
「仕事が早すぎる」
ガレスは立ち上がる気配を見せないまま、声だけ低くする。
「荒木が噛んでるな」
「だろうね」
レイラは端末を伏せた。
「刃。ここから先は、あなたの意志を先に固定したい。理事会で揺らぐと、全部持っていかれる」
刃は缶コーヒーを飲み干した。空き缶を握ったまま、しばらく黙る。
窓の外で、救急車のサイレンが遠くを通った。
「……行くのは決めてる」
それから、刃は三人を順に見た。
「ただし条件がある」
「聞かせて」
刃は空き缶を机に置いた。
「一つ。全員で帰る。誰か一人でも欠けるなら、その時点で撤退だ」
「了解」
「二つ。目的は深淵鉄と手掛かりの回収。無意味な戦闘はしない。勝つためじゃなく、持ち帰るために動く」
「了解」
「三つ——」
刃は一瞬だけ言葉を切った。
「俺の過去を暴くための遠征にはしない。答えは取りに行く。でも、見世物にはしない」
部屋が静かになった。
最初に口を開いたのはレイラだった。
「約束する」
「同意だ」
「研究者としても、仲間としても守ります」
刃は短く息を吐いた。
「なら、明日の面談で線を引く。そこから先は、進むだけだ」
レイラがノートPCを閉じた。
「遠征会議、第一ラウンド終了」
ガレスが立ち上がる。
「俺は補給リストを詰める」
ミラは資料を抱えた。
「私は採取手順の短縮版を作る。制限時間を三割削る」
二人が玄関へ向かう。
帰り際、ガレスが振り返った。
「刃」
「何だ」
「明日の理事会。お前は条件だけ言え。交渉は俺たちが拾う」
「……助かる」
ガレスは手を上げ、ミラは「おやすみー」と軽く言って出ていった。
部屋に残ったのは、刃とレイラ。
短い沈黙のあと、レイラが言う。
「あなた、ちゃんと『助かる』って言えるようになったね」
「うるさい」
「ふふ」
レイラは笑って、ドアの取っ手に手をかけた。
「明日、迎えに来る。寝坊しないで」
「しない」
「本当に?」
「本当だ」
「……うん。じゃあ、おやすみ」
ドアが閉まった。
静かになった六畳間で、刃は一人、空の缶を見つめた。
六十八層以降。忘却領域。その先。
道は長い。面倒は多い。けれど、もう一人ではない。
刃は立ち上がり、シンクに缶を置いた。
明日は理事会。
線を引く日だ。
そして——本当に潜る準備が、始まる。




