第70話「変わるもの、変わらないもの」
ランク審査の翌日から、世界が変わった——とはいっても、それはまだ協会の中だけの話だった。
審査結果は「理事会で協議中」として非公開になっている。「測定不能」「特級ランク創設の議案」——そういった話は、まだ世間には出ていない。出ているのは、協会本部内で噂として漏れている断片だけだ。
しかし、それで十分だった。
協会本部に行くと、受付の職員が立ち上がって頭を下げた。廊下ですれ違う探索者たちが道を空けた。食堂に入ると、隣のテーブルが空いた。意図的に距離を取られている。
面倒だ。
Fランクの頃は誰にも気づかれなかった。空気のように存在し、空気のように消えた。それが——今は違う。どこに行っても視線が追いかけてくる。「あの人が」「審査、どうなったんだって?」「特級って……本当に作るらしいよ、内々に」。ひそひそ声が、刃の耳に届く。内部情報が漏れるのは早い。
面倒だ。本当に面倒だ。
缶コーヒーを買った。うまい。——この味は変わらない。それだけで少し、安心する。
◇ ◇ ◇
携帯が鳴った。ガレスだった。
「よう」
「……久しぶりだな」
「いい店見つけた。今夜飲むぞ」
それだけだった。
「特級」の話も、ランク審査の話も、SNSの話も、一切しなかった。ただ「飲むぞ」。それだけだった。
刃は少し考えた。断る理由がなかった。
「……場所は」
「駅前の路地裏。赤い暖簾の店だ。十九時な」
「ああ」
電話が切れた。相変わらず短い。相変わらず雑だ。飲み友達にランクは関係ない。ガレスは——変わらなかった。
◇ ◇ ◇
次にメッセージが来たのは、ミラからだった。
『刃さん、お疲れさまです! ランク審査の結果、聞きました。「測定不能」って、論文に書いたら査読で却下されるやつですね笑 ところで、お願いがあります。もう一度、魔素測定させてもらえませんか? 前回の計測器とは別のアプローチで、安静時と戦闘時の差分を取りたいんです。いい方法を思いつきました :) あと、缶コーヒーおごります。——ミラ』
刃は画面を見た。この女は相変わらずだった。計測器が壊れても、世界が騒いでも、「もう一度測らせて」と平然と言ってくる。科学者の執念は、世間の空気など知らない。
『……いいよ』
短く返した。絵文字はつけなかった。
◇ ◇ ◇
夜になった。ガレスとの約束の店に行った。赤い暖簾をくぐると、カウンターの奥にガレスが座っていた。焼き鳥を頼んでいた。ビールのジョッキが半分空いている。もう始めていた。
「遅い」
「時間通りだろ」
「俺が早く来すぎた」
刃はカウンターに座った。ビールを頼んだ。焼き鳥を追加した。
「で」
「で?」
「特級、だっけ。なんだそりゃ」
「俺が聞きたい」
「はは」
ガレスが笑った。それから、焼き鳥を一本食べた。
「なあ」
「何だ」
「前にお前に聞いた。『何者なんだ、お前は』って。あの時、お前は答えなかった」
「……ああ」
「今は?」
「今も同じだ。缶コーヒーが好きで面倒くさがりの、ただの探索者だよ」
ガレスが缶ビールを持ち上げた。
「——乾杯」
「何に」
「面倒くさい奴に」
刃はビールのジョッキを持ち上げた。ガレスの缶とぶつけた。
「面倒くさい奴に」
焼き鳥はうまかった。ビールもうまかった。ガレスは相変わらず酒が強かった。それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
店を出た。夜風が涼しかった。
携帯を見ると、レイラからメッセージが来ていた。
『明日、空いてる?』
刃は返信した。
『何だ』
『次のダンジョン、一緒に行こう :)』
刃は携帯を見つめた。世界が変わった。ランクが変わった。名前が知れ渡った。テレビが追いかけてくる。協会が新しいランクを作ろうとしている。
でも、レイラのメッセージの最後には、相変わらず顔文字がついていた。
『……ああ』
短く返した。
携帯をポケットにしまった。夜空を見上げた。星は見えない。東京の夜は明るすぎる。
変わるものと、変わらないもの。
缶コーヒーの味。ガレスの誘い。ミラの執念。レイラの顔文字。
面倒な奴らは、面倒なまま。
それが少しだけ——嬉しかった。




