第66話「波紋」
協会本部の廊下を歩いて、エントランスに辿り着くまでの五分間で、刃は三度声をかけられた。
一度目は、受付の職員だった。いつもなら目も合わせないFランクポーターに対して、今日は立ち上がって頭を下げた。
二度目は、すれ違った中年の男だった。スーツ姿。協会の管理職だろう。刃の顔を見て立ち止まり、何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わずに道を空けた。
三度目は——ミリアだった。
エントランスの手前で、ミリアが二人を待っていた。あの第一会議室のドアを閉めた後、先に降りていたのだろう。手にはファイルを一つ持っている。
「八雲さん。レイラさん。少々お時間をいただけますか」
事務的な声。しかし、目が違った。いつものジト目ではない。まっすぐに刃を見ている。
「理事会からの通達が二点あります。正式な書面は後日郵送されますが、口頭で速報をお伝えします」
ミリアがファイルを開いた。
「一点目。八雲刃氏のFランク登録は、本日をもって凍結されます。偽装秘術の使用による登録情報の不正については、今後の査定と合わせて処分内容を確定します。なお、査定期間中の探索者活動は制限されません」
「……制限されないのか」
「されません。理事会の判断です」
制限されない。つまり、ダンジョンにも入れるし、ポーター業務も続けられる。予想より軽い。荒木理事はもっと厳しい処分を望んでいたはずだが、理事長が抑えたのだろう。
「二点目。レイラ・フロストヴェール氏の氷眼ログデータに関する改竄行為について。理事会は、当該行為を『緊急時の情報管理判断』として認定し、処分は——」
ミリアが一瞬だけ言葉を切った。声の調子が、わずかに変わった。
「——厳重注意に留める、とのことです」
レイラの息が、小さく漏れた。
「厳重注意……」
「はい。資格剥奪も刑事処分もありません。ただし、今後同様の行為があった場合は、改めて処分の対象となります」
レイラが目を伏せた。唇が震えていた。泣きそうだった。しかし、泣かなかった。Sランク探索者の矜持が、ぎりぎりのところで彼女を支えていた。
「……ありがとうございます」
「私に感謝されても困ります。理事会の判断ですので」
ミリアがファイルを閉じた。事務的な報告は終わった。しかし、ミリアは立ち去らなかった。
刃を見た。
「八雲さん」
「何だ」
「一つだけ、個人的に聞いてもいいですか」
ミリアのジト目が、少しだけ緩んでいた。それは怒りでも蔑みでもなく——好奇心だった。純粋な、人間としての好奇心。
「十年間、Fランクの探索者として。あなたにとって、それは——辛くなかったんですか」
刃は少し考えた。
「辛くはなかった。面倒だったけど」
「面倒」
「面倒だった。でも、楽だった。誰にも期待されない。誰にも見られない。缶コーヒーを飲んで、簡単な依頼をこなして、家に帰る。それだけの日常が——悪くなかった」
ミリアが小さく頷いた。
「でも、もうその日常には戻れませんね」
「そうだな」
「残念ですか」
「……少しだけ」
ミリアが初めて、ジト目ではない顔を見せた。それは——笑み、だった。ほんの一瞬。しかし、確かに。
「協会としては、これからよろしくお願いします。八雲さん」
ミリアが頭を下げて、去っていった。白い廊下を、規則正しい足音で。
刃はレイラを見た。レイラの目は赤かった。泣いてはいない。でも、泣いた後のような目だ。
「行くか」
「……うん」
◇ ◇ ◇
協会本部を出た。外は晴れていた。朝と同じ東京の景色。信号の音。車のクラクション。通行人の群れ。何も変わっていない。変わったのは、この二人だけだ。
刃は自動販売機を見つけた。缶コーヒーを買った。ブラック。プルタブを開けた。一口飲んだ。苦い。うまい。いつもの味。
世界が変わっても、缶コーヒーの味は変わらない。それだけで、少し安心した。
レイラが隣を歩いていた。しばらく、何も言わなかった。
「ねえ」
「何だ」
「焼肉の予約、十九時にしてあるんだけど」
「……もう予約してたのか」
「昨日した」
「結果が出る前に」
「結果がどうであれ、お腹は空くって言ったでしょ」
刃はため息をついた。この女は本当に——面倒で、図々しくて、泣きもろくて、そして、どうしようもなく正しい。
「……焼肉でいい」
「焼肉『が』いい」
「……焼肉がいい」
「よし」
レイラが笑った。
刃は缶コーヒーを飲みながら歩いた。隣にレイラがいる。刀袋を左手に提げている。東京の空は青い。
Fランク探索者の日常は、今日で終わった。
明日からは——何になるのか、まだ分からない。
面倒だ。きっと面倒になる。世界中が騒ぐかもしれない。記者が来るかもしれない。ランクの再査定がある。ミラが大喜びで論文を書くだろう。ルーカスが「やっぱり師匠は最強だ!」と叫ぶだろう。ガレスは黙って酒を飲むだろう。
でも。
隣を歩く女が、蒼い瞳で笑っている。
缶コーヒーは苦くてうまい。
それだけで——十分だった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
焼肉屋の個室で、レイラがカルビを焼いている。刃はハイボールを飲んでいる。理事会の面談が終わった日に、焼肉屋の個室で肉を焼いている。人生とは不思議なものだ。
「ねえ」
「何だ」
「明日からどうするの」
「どうするって」
「Fランクじゃなくなったでしょ。ポーター業務は続けるの?」
刃は焼けたカルビをタレにつけて、口に入れた。うまい。
「……続ける」
「え?」
「ポーターが嫌いだったわけじゃない。探索者としてダンジョンに挑むのも好きだが、荷物を運ぶのは性に合ってた。ただ、ランクが変わるだけだ」
レイラが箸を止めた。目を丸くしている。
「世界ランキング一位かもしれない人が、ポーターを続けるの?」
「面倒なことが増えるだけだ。ランクが上がったからって、やりたいことが変わるわけじゃない」
「……あなたって、本当に」
レイラが笑った。呆れたような、嬉しいような、複雑な笑顔だった。
「じゃあ、私がまた指名するね。ポーター」
「好きにしろ」
レイラがビールのジョッキを持ち上げた。
「乾杯しよう」
「何に」
「新しい日常に」
刃はハイボールのグラスを持ち上げた。レイラのジョッキとぶつけた。小さな音がした。個室の中に、二人分の乾杯の音が響いた。
「新しい日常に」
「……新しい日常に」
窓の外に、東京の夜景が広がっていた。
無数の光。一つ一つが誰かの日常だ。
明日から、刃の日常も変わる。でも、缶コーヒーは飲む。荷物は運ぶ。刀袋は左手に提げる。
変わるものと、変わらないもの。
隣にいる女は——変わらない。それだけは確かだった。
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