第65話「もう隠れない」
目を閉じた。
偽装秘術——フェイク・コード。体内の魔素回路に刻まれた術式。師匠が教えてくれた、唯一の「隠れるための技術」。
十年前、登録所の窓口で。刃は右手を登録クリスタルに置いた。フェイク・コードを起動した状態で。クリスタルが読み取ったのは、Fランク相当の魔素出力。本来の数値の、百分の一以下。
窓口の職員は何も怪しまなかった。当たり前だ。少年がFランクで登録すること自体は、珍しくもない。普通の、平凡な、何の変哲もない探索者登録。
それが、十年間続いた。
今、それを解く。
手順は単純だ。フェイク・コードは、魔素回路に「蓋」をしているだけだ。蓋を外せばいい。師匠は「いつか解く日が来る」と言っていた。その「いつか」が、今日だった。
刃は胸の前に置いた右手に意識を集中させた。魔素回路の中を流れる力。その流れの上流に、フェイク・コードの術式がある。十年間、刃の全てを偽ってきた蓋。
——外す。
音はなかった。
光もなかった。
劇的なことは、何も起きなかった。
ただ、部屋の中の空気が変わった。
急激に、ではない。ゆっくりと、しかし確実に。水面に一滴が落ちて、波紋が広がるように。刃の体から放たれる魔素の密度が変わった。
Fランク相当の出力——一般人よりわずかに高い程度の魔素放出。それが、蓋を外した瞬間から上昇を始めた。
理事たちが最初に気づいた。
白髪の老人理事が、椅子の背もたれを強く握った。眼鏡の女性理事が、持っていたペンを落とした。金属がテーブルに当たる小さな音が、静寂の中で異様に大きく響いた。
魔素が濃くなっていく。
探索者であれば誰でも感じ取れるレベルの変化だった。部屋の温度が下がったわけではない。音が消えたわけでもない。しかし、空気の質そのものが変わっていた。重い。息を吸うのに、わずかに力がいる。
これは人間が出す魔素ではなかった。ダンジョンの深層で感じる圧——魔獣の群れが潜む階層に踏み込んだ時の、あの圧迫感に似ていた。
荒木理事の顔から、余裕が消えた。
広瀬理事が立ち上がりかけた。東条理事長が手で制し、座り直させた。しかし、理事長自身の顔にも、動揺が走っていた。
記録係が席から立ち上がった。壁際まで後退した。本能的な反応だった。
ミリアだけが、動かなかった。部屋の隅で、タブレットを握りしめたまま、刃を見つめていた。その目は——恐怖ではなかった。理解だった。ずっと感じていた違和感の正体が、今、形になっていく。そのことへの、静かな理解。
レイラは——目を閉じていた。
隣に座ったまま、静かに目を閉じていた。泣いていたのかもしれない。しかし、その顔には笑みがあった。知っていた。この人の本当の姿を、誰よりも先に知っていた。それが、今、世界に示される。
刃は目を開けた。
テーブルの中央に設置されていたステータス表示モニターが、自動的に反応していた。面談室の標準装備だ。室内にいる探索者の魔素出力をリアルタイムで計測するシステム。通常は面談の参考資料程度の役割しかない。
しかし今、そのモニターの表示が異常な動きを見せていた。
数値が回転していた。
桁が上がった。また上がった。表示のリフレッシュが追いつかない。数値が跳ね上がり、安定し、また跳ね上がる。まるで底のない井戸を覗き込んでいるように、終わりが見えなかった。
理事長が立ち上がった。モニターに目を奪われている。
「これは……」
眼鏡の女性理事が、モニターの数値を読み上げた。声が震えていた。
「安静時魔素放出量……四千八百。いえ、まだ上がっています。五千二百——五千六百——」
ミラの研究室で測った時と同じだ。あの時も計測器が壊れた。しかし今回は、協会本部の正規計測システムだ。最高精度の機器。壊れる余地はない。
「……七千二百。七千四百——」
白髪の老人理事が、信じられないという顔で口を開いた。
「Sランクの上限値が千二百前後のはずだ。レイラ・フロストヴェール氏でも千四百五十だったと聞いている。この数値は——」
「——機器の故障では?」
荒木理事が言った。しかし、その声には先ほどまでの余裕がなかった。自分でも信じていない言い訳を口にしている顔だった。
理事長が記録係を見た。
「計測システムのステータスは」
記録係が壁際のコンソールを確認した。手が震えていた。
「正常です。全チャンネル、エラーなし。キャリブレーションも正常値。数値は——正確です」
モニターの数値が、ようやく安定した。
安静時魔素放出量:八千二百。
部屋の中の誰も、声を出さなかった。
Sランク探索者の平均が八百から千二百。世界最高峰のレイラ・フロストヴェールが千四百五十。
八千二百。安静時で、この数字。
その数値が意味するものを、この部屋にいる全員が理解していた。しかし、理解した上で、信じることができなかった。
荒木理事がモニターから目を離し、刃を見た。その目から鷹の鋭さが消え、代わりに別のものが浮かんでいた。恐れではない。もっと根源的なもの——人間が、自分の理解を超えた存在と対峙した時に浮かべる表情だった。
理事長が、ゆっくりと椅子に座り直した。
「八雲さん。あなたは——」
理事長の声が、わずかにかすれた。
「あなたの実力は——世界ランキングの、どの位置に相当するのですか」
刃は、面倒くさそうに頭を掻いた。
「知りません」
正直な答えだった。ランキングに興味がなかった。数字に意味を感じなかった。自分が強いことは知っている。しかし、それが世界で何番目なのかは考えたことがなかった。
「ただ——」
刃がモニターを見た。八千二百という数字が表示されている。
「ミラ・ヴァレンティという研究者が、俺の魔素データを分析しています。彼女の計測では、安静時の数値だけでなく、戦闘時の瞬間最大出力も異常値だったそうです。正確な順位は、協会の方で判断してください」
理事たちが互いの顔を見合わせた。混乱。動揺。驚愕。しかし、その中に——期待も混ざっていた。人類最高峰の戦力が、自分たちの管轄下にある組織に所属しているかもしれない。その事実の持つ意味を、理事たちもまた理解し始めていた。
荒木理事だけが、まだ冷静さを保とうとしていた。
「……八雲氏。実力があることと、十年間の偽装登録は別問題です。あなたが強いことは分かりました。しかし、規約違反は規約違反です」
「その通りです」
刃が荒木理事を見た。まっすぐに。
「偽装登録の処分は受けます。俺がやったことです。規約に従います」
荒木理事が一瞬、言葉を失った。反論を予想していたのだろう。しかし刃は抵抗しなかった。淡々と事実を受け入れた。
「ただし」
刃の声が、わずかに低くなった。
「レイラ・フロストヴェール氏のログ改竄については、改めて申し上げます」
刃がレイラの方を一瞬だけ見た。レイラは目を開けていた。涙の跡がうっすらと頬に残っていた。しかし、その目はまっすぐだった。
「フロストヴェール氏がログを改竄したのは、俺の秘密を守るためです。俺が偽装を続けていたから、彼女は嘘をつく必要があった。原因は俺です。彼女が独自の判断でやったことは事実ですが、そうせざるを得ない状況を作ったのは俺の偽装です」
荒木理事が口を開きかけた。
「もし彼女のログ改竄を処分するのであれば——」
刃の目が荒木理事を捉えた。その目に、感情が宿っていた。面倒くささでも、諦めでもない。もっとまっすぐな、強い光。
「——俺の偽装登録の処分に上乗せしてください。彼女の処分は、不要です」
広瀬理事が小さく息を吐いた。荒木理事の唇が引き結ばれた。理事長が腕を組んだまま、刃を見つめていた。
「刃」
レイラの声が、静かに響いた。
「やめて。私の分は、私が受ける。あなたが全部背負う必要はない」
刃はレイラを見なかった。前を向いたまま言った。
「背負ってない。事実を言ってるだけだ」
レイラが唇を噛んだ。何かを言いたそうだったが、言葉にならなかった。
東条理事長が、長い沈黙の後に口を開いた。
「本日の面談は、ここまでとします」
理事たちが、ざわめいた。荒木理事が何かを言いかけたが、理事長が手で制した。
「八雲氏の偽装秘術の解除は確認されました。ステータスデータは記録済みです。今後の処分については、理事会で協議の上、追って通達します」
理事長が立ち上がった。刃を見下ろした。いや——見上げた。椅子に座った刃を、立ち上がった理事長が見下ろしているはずだった。しかし、不思議なことに、その視線の角度は逆だった。
「フロストヴェール氏のログ改竄については、状況を総合的に判断します。現時点では、処分を保留とします」
荒木理事が眉をひそめた。しかし、理事長の言葉に異を唱えなかった。この場で反論するには、空気が重すぎた。
「八雲さん。最後に一つだけ」
理事長の声が、少しだけ柔らかくなった。
「隠す理由がなくなった、と先ほどおっしゃいましたね」
「はい」
「では——今後は、どうされるおつもりですか」
刃は立ち上がった。椅子の横に立てかけた刀袋を手に取った。左手で提げる。黎明の重み。師匠が持たせてくれたもの。
「隠す理由がなくなりました。ならば——話せばいい。それだけです」
理事長が頷いた。何かを噛みしめるように、深く。
「分かりました。本日はありがとうございました」
刃は頭を下げた。浅く。形式的に。しかし、誠意はあった。
レイラが立ち上がった。二人で、会議室のドアに向かった。
ミリアがドアを開けた。白い廊下の光が差し込んだ。
刃は振り返らなかった。
部屋の中に残した八千二百という数字も、理事たちの動揺も、荒木理事の敵意も——全て、背中で受け止めた。
廊下に出た。ドアが閉まった。
レイラが、隣を歩いていた。
しばらく、何も言わなかった。白い廊下を、二人の足音だけが規則正しく響いた。消毒液の匂い。窓からの午前の光。いつもの協会本部の廊下。しかし、今日のこの廊下は、昨日までとは違う場所だった。
レイラが、ぽつりと言った。
「……ありがとう」
「何が」
「庇ってくれて」
「庇ってない。事実を言っただけだ」
レイラが小さく笑った。泣き笑いのような顔だった。
「そういうところが——大好き」
刃は何も言わなかった。前を向いたまま歩いた。しかし、歩く速度が少しだけ——ほんの少しだけ——遅くなった。レイラの歩幅に、合わせるように。




