第63話「面談の朝」
火曜日。
目が覚めた時、窓の外はまだ薄暗かった。時計を見る。五時半。アラームは七時にセットしていた。体が勝手に起きた。
天井のひびを見つめた。いつものひび。いつもの天井。いつものアパート。今日で最後になるかもしれない、いつもの朝。
いや——最後にはならない。面談がどう転ぼうと、このアパートには戻ってくる。缶コーヒーは飲む。天井のひびは消えない。変わるのは、世界の方だ。
起き上がった。キッチンに行く。冷蔵庫を開ける。缶コーヒーが三本残っている。一本取り出す。ブラック。プルタブを開ける音が、静かな部屋に響いた。
一口飲んだ。苦い。うまい。いつもの味だ。
壁に立てかけてある刀袋を見た。細長い布袋。中に二振り。藍色の鞘の黎明と、古びた刀。
手に取った。左手で提げる。この重みは、もう慣れた。師匠が持たせてくれた重みだ。
シャワーを浴びた。髪を乾かした。服を選ぶ。何を着ていくべきか少し迷った。質の良い服は持っていない。というか、持ったことがない。結局、いつもの服装にした。黒いジャケット。暗い色のシャツ。ジーンズ。ポーターの時と大して変わらない。
鏡を見た。いつもの顔だ。これが、今日から世界に知られる顔になるかもしれない。
面倒だ。
でも、迷いはなかった。
携帯を開いた。レイラからメッセージが来ていた。朝の五時四十八分。レイラが朝の六時前にメッセージを送るなんて、この世界が始まって以来初めてのことだろう。
『起きてる?』
『起きてる』
『八時にそっちの前で待ってる』
『来なくていい。協会で合流すればいい』
『行く』
一文字。返しようがない。
『……勝手にしろ』
返信なし。了解の意味だ。もう慣れた。
◇ ◇ ◇
八時。アパートの前に出ると、レイラが立っていた。
いつもと違う格好だった。神盾機関の正装——白を基調としたフォーマルスーツ。銀のラインが入った襟元。左胸には神盾機関のエンブレム。氷のように整った顔に、薄い化粧。Sランク探索者レイラ・フロストヴェールが、公式の場に立つ時の姿だ。
その手に、紙袋を持っていた。
「おはよう」
「……なんだその格好」
「正装。今日は公式の場でしょう」
「俺は私服だけど」
「知ってる。あなたにスーツを期待してない」
レイラが紙袋を差し出した。
「これ」
「何だ」
「朝ごはん。サンドイッチとコーヒー。あなた、缶コーヒーしか飲んでないでしょう」
「缶コーヒーは朝ごはんだ」
「違います」
刃は紙袋を受け取った。中にたまごサンドと、コンビニのカフェラテが入っていた。カフェラテ。レイラの好みだ。
「これ、カフェラテだけど」
「あなたの分はブラックがよかったんだけど、コンビニになかったの。我慢して」
「……」
歩き始めた。並んで。
協会本部までは歩いて二十分。電車に乗る距離ではない。タクシーを使うほどでもない。ちょうどいい距離だった。
サンドイッチを食べた。たまご。悪くない。カフェラテを飲んだ。甘い。だが、不味くはなかった。
しばらく、会話はなかった。
東京の朝は、いつも通りだった。通勤の人波。信号の音。車のクラクション。どこかのカフェから漂うコーヒーの匂い。世界は何も変わっていない。変わるのは、今日のこの二人だけだ。
「ねえ」
レイラが言った。前を向いたまま。
「何だ」
「緊張してる?」
「してない」
「嘘」
「してない。面倒なだけだ」
レイラが少し笑った。
「私は少しだけ緊張してる」
「Sランクが理事会で緊張するのか」
「理事会が怖いんじゃない。あなたが全部話した後、世界がどう変わるか——それが、少しだけ怖い」
刃は前を向いたまま歩いた。
「変わるだろうな」
「うん」
「面倒になるだろうな」
「なるね」
「でも」
刃が缶——ではなく、紙カップのカフェラテを一口飲んだ。甘い。
「隠していた時の方が面倒だった」
レイラが刃を見た。刃は前を向いたまま歩いていた。いつもの無表情。でも、目は違う。曇っていない。逸らしていない。まっすぐ前を見ている。
あの山から帰ってきた時から変わった目。隠さなくなった目。
「……そうだね」
レイラが小さく言った。
協会本部が見えてきた。白い建物。東京の中心にそびえる、探索者協会の総本部。入口には警備員が二人立っている。
刃は立ち止まった。建物を見上げた。
「行くか」
「行こう」
二人は、歩き出した。
◇ ◇ ◇
エントランスを抜けると、ミリアが待っていた。
受付カウンターの前に立っている。いつもの制服。いつものジト目。しかし、今日はその目の奥に、別の感情が混ざっていた。心配、だろうか。ミリアが誰かを心配する顔を見たのは、初めてかもしれない。
「八雲さん。レイラさん。お時間通りです」
事務的な声。しかし、微かに硬い。
「第一会議室にご案内します。理事五名が出席されています。面談は原則として非公開ですが、記録係が同席します」
ミリアが先導して歩き出した。白い廊下。窓から朝の光が差し込んでいる。足音が三人分、規則正しく響いた。
「八雲さん」
ミリアが歩きながら、振り返らずに言った。
「面談中、不当な質問や圧力があった場合は、回答を留保する権利があります。覚えておいてください」
事務的な案内のように聞こえた。しかし、それはマニュアルにない一言だった。ミリアが個人的に付け加えた言葉だ。
「……ありがとう」
ミリアが一瞬だけ振り返った。ジト目が、少しだけ緩んでいた。すぐに前を向き直した。
第一会議室の前に着いた。重厚な木製のドア。金属のプレートに「第一会議室」と刻まれている。
ミリアがドアの横に立ち、ハンドルに手をかけた。
「準備はよろしいですか」
刃はレイラを見た。レイラが刃を見た。
二人の目が合った。一秒。それだけで十分だった。
「開けてくれ」
ミリアがドアを開けた。
朝の光が、会議室の中から溢れた。長いテーブル。その向こうに、五つの椅子。五人の理事が座っている。
刃は一歩踏み出した。
隠す理由がなくなった。ならば、話せばいい。それだけだ。




