第62話「嘘の代償」
面談まで、あと二日。
レイラから連絡が来たのは、夜の八時だった。
『話がある。直接会いたい』
いつものレイラらしくないメッセージだった。絵文字がない。句読点がある。文面が硬い。レイラが真剣な時のメッセージだ。
『どこで』
『私のマンション。来れる?』
刃は缶コーヒーを飲み干して、立ち上がった。
◇ ◇ ◇
レイラのマンションは、協会本部から歩いて十分の場所にあった。Sランク探索者にふさわしい高層マンションの最上階。セキュリティは堅い。エントランスで暗証番号を入力し、エレベーターで二十三階まで上がる。
レイラが指定した暗証番号は「0614」だった。何の日か聞いたことはない。聞くつもりもない。
ドアが開いた。
「来てくれたんだ」
レイラが立っていた。私服だった。白いセーターに、グレーのスカート。髪を下ろしている。普段のダンジョン装備や協会のスーツではない、素のレイラだ。
部屋の中は、想像と違った。もっと豪華な部屋を想像していたが、意外と質素だった。家具は最低限。本棚にはダンジョンの報告書と学術論文が並んでいる。キッチンには使い込まれたケトルと、マグカップが二つ。一つはレイラのもの、もう一つは——来客用だろう。
「座って。コーヒー淹れる」
「ブラックで」
「知ってる」
レイラがキッチンに消えた。刃はリビングのソファに腰を下ろした。窓の外に東京の夜景が広がっている。二十三階からの景色は、刃のアパートとは別世界だ。
テーブルの上に、ノートパソコンが開いたまま置かれていた。画面には協会のデータベースが映っている。ログの解析画面だ。レイラは自分で調べていたのだろう。どこまでが矛盾するのか。どこまでが発覚するのか。
レイラがコーヒーを二つ持ってきた。刃の前にブラックを置き、自分はカフェラテを手に取った。ソファの反対側に座る。テーブルを挟んで、向かい合う形になった。
しばらく、沈黙が流れた。
レイラがカフェラテを一口飲んだ。それから、マグカップをテーブルに置き、両手を膝の上に乗せた。
「整理したの」
レイラの声は静かだった。
「ヴィクターの証言と、私がやったことの矛盾。全部洗い出した」
ノートパソコンを刃の方に向けた。画面には箇条書きのメモが並んでいた。
「ヴィクターは供述で、スタンピード鎮圧に第三者が介入したと言っている。その第三者が八雲刃だと名指ししている。でも、私が協会に提出した報告書では、スタンピードの鎮圧は『レイラ・フロストヴェールおよび神盾機関チームによる共同対応』となっている。あなたの名前は、公式記録のどこにも出てこない」
刃は黙って聞いた。
「さらに、私の氷眼の観測ログ。あの夜、私は氷眼に記録された魔素データを改竄した。あなたの魔素放出量が異常値だったから。あなたが百体以上の魔獣を殲滅した事実も消した。報告書では『スタンピードの規模は実際より小さく、観測機器のエラーにより正確な数値は取得できなかった』としている」
レイラの声はなまだ静かだったが、指先が微かに震えていた。
「ヴィクターの証言が事実認定されれば、私の報告書と氷眼のログは、協会の規定上——」
言葉を切った。一呼吸置いた。
「——公文書偽造と証拠隠滅。最悪の場合、探索者資格の永久剥奪」
刃はコーヒーを一口飲んだ。苦い。いつもと同じ味のはずだが、今日は少し違って感じた。
「レイラ」
「私がやったこと」
レイラが刃の言葉を遮った。まっすぐな目で、刃を見た。氷のように透き通った青い瞳。あの夜と同じ目だ。百体の魔獣に囲まれた時と同じ、覚悟を決めた目。
「私がやったこと。私の判断で、私の手で、ログを改竄した。あなたに頼まれたわけじゃない。あなたは何も言わなかった。私が勝手にやった。だから——」
「だから、お前が責任を取ると?」
刃の声は低かった。
「責任を取る。面談で、正直に話す。ログを改竄したのは私で、理由は——」
「理由は、俺の秘密を守るためだろう」
レイラが言葉を止めた。
「お前が責任を取る話じゃない」
刃がコーヒーのマグカップをテーブルに置いた。静かに。しかし、確かな重さで。
「お前は俺の秘密を守るために嘘をついた。ログを改竄した。報告書を偽造した。全部、俺のためだ。原因は俺だ。俺がFランクに隠れ続けていたから、お前が嘘をつく必要があった」
「それは……」
「事実だろう」
レイラが唇を噛んだ。反論したかったのだろう。しかし、反論できる材料がなかった。事実は事実だ。刃の秘密がなければ、レイラは嘘をつく必要がなかった。改竄の必要もなかった。原因は刃だ。
「でも、選んだのは私。あなたが頼んだわけじゃない。私が——」
「お前が勝手にやった。そうだな。でも、勝手にやらせた俺が悪い」
刃は窓の外を見た。東京の夜景。無数の光が地上に散らばっている。一つ一つが誰かの生活だ。その光の中の一つに、刃のアパートがある。あの安い六階の部屋の、一つだけの窓の光。
「あの夜——」
刃が言った。
「お前が氷眼のログを消すと言った時。俺は止めなかった。止めるべきだった。あの場で『消すな。全部報告しろ。俺が自分で話す』と言うべきだった。でも、言わなかった。隠れたかったから。面倒だったから。バレたくなかったから」
レイラが刃を見た。刃はまだ窓の外を見ていた。
「それが、お前に嘘をつかせた。お前の探索者人生を危険にさらした。Sランクの資格を、お前の名誉を、全部踏みにじった。俺の——卑怯さが」
「卑怯なんかじゃない!」
レイラの声が、初めて大きくなった。
「あなたには理由があった。師匠との約束。才能がないという嘘。隠れなければならない理由があった。あなたは卑怯なんかじゃない」
「理由があれば、お前に嘘をつかせていい理由にはならない」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
窓の外で、東京の夜景が静かに瞬いていた。遠くで救急車のサイレンが聞こえた。どこかで、誰かが助けを求めている。
「……面談で」
刃が言った。窓の外から視線を戻し、レイラの目を見た。
「俺が全部話す。Fランクの偽装。実際の実力。スタンピードの夜に何が起きたか。全部。隠さない。そうすれば、お前が嘘をつく理由がなくなる」
「でも、そうしたら——」
「俺のFランク登録は取り消される。偽装の罰則を受ける。ランクの再査定。おそらく世界中に報道される。面倒なことになる」
刃は淡々と言った。自分の未来を語っているようには聞こえない声で。まるで天気予報のように。
「……でも、お前の嘘は帳消しになる。お前がログを改竄したのは事実だが、改竄の対象となったデータが俺の自己申告で証明される。隠蔽する対象そのものが表に出れば、隠蔽は意味を失う。お前のログ改竄は『不正な隠蔽』ではなく『正体不明の探索者に対する合理的な情報管理上の判断』として処理できる余地が出てくる」
レイラの目が見開かれた。
「……それ、いつから考えてたの」
「昨日」
「昨日?」
「缶コーヒー飲みながら考えた」
レイラが小さく笑った。泣きそうな顔で笑った。
「缶コーヒー飲みながら、自分の人生ひっくり返す決断をしたの?」
「ひっくり返すつもりはない。面倒だが、もう隠すつもりがないのは決めてた。タイミングが早まっただけだ」
レイラがカフェラテのマグカップを両手で握りしめた。白い指が、少しだけ白くなった。
「……ありがとうとは言わない」
「言わなくていい」
「言わない。だって、これはあなたが決めたことだから。私のためじゃない。あなたが——もう隠れないと決めたから」
半分は正しい。半分は違う。
もう隠れないと決めた。それは事実だ。山で師匠に言われた時から、決めていた。
しかし、面談で全てを話すと決めたのは——昨日だ。レイラの声が電話の向こうで震えていたのを聞いた、あの朝だ。
「隠れていては、守れないものがある。」
師匠の言葉ではない。刃自身の言葉だ。あの朝、缶コーヒーを飲みながら、自分の中から出てきた言葉。
守りたいものが何なのか。刃はもう分かっていた。
「でも」
レイラが言った。
「一つだけ。条件がある」
「条件」
「面談には私も行く。あなた一人に話させない。ログを改竄したのは私。報告書を偽造したのも私。その部分は、私が自分の口で話す。あなたが全部背負う必要はない」
「お前が行く必要は——」
「ある」
レイラの声は、もう震えていなかった。氷のように澄んだ声。Sランク探索者レイラ・フロストヴェールの声だ。
「私はあなたの秘密を守るために嘘をついた。その嘘を、今度は自分で引き取る。あなたが真実を話すなら、私も真実を話す。それが筋でしょう」
刃はレイラの目を見た。氷の瞳。あの弱々しく震えていた人間は、もういなかった。今のレイラは、あの夜のレイラだ。百体の魔獣に囲まれても折れなかった女。刃の隣に立つと決めた女。
「……面倒な奴だ」
「お互い様」
刃はコーヒーを飲み干した。冷めていた。しかし、味は悪くなかった。
「それなら」
刃がマグカップをテーブルに置いた。
「火曜日。面談の前に、一つだけやることがある」
「やること?」
「ガレスに会う。ミラにも話を通す。面談の場で俺が全部ぶちまけたら、巻き込まれる人間が出てくる。事前に伝えておくべき奴には、伝えておく」
レイラが目を見開いた。
「……あなたが、自分から人に会いに行くの?」
「面倒だが、やる。面倒だからやらないのは——もうやめた」
レイラの目が潤んだ。刃は見て見ぬふりをした。
「泣くな」
「泣いてない」
「泣いてる」
「……少しだけ」
レイラが袖で目を擦った。白いセーターの袖が少しだけ湿った。
「ガレスさんには、何て言うの」
「事実を話す。俺がFランクに偽装していたこと。スタンピードの夜に何をしたか。刀の話。全部」
「ガレスさん、怒ると思う?」
「怒るだろうな。でも、あの人は怒った後に酒を飲む」
レイラが少し笑った。今度は、泣きそうではない笑顔だった。
「ミラさんには?」
「あいつは怒らない。喜ぶだろう。研究対象が自分からデータを公開するんだから。論文に使えるデータが一気に増える」
「……それ、ミラさんの喜び方としては正しいけど、なんか悲しいね」
「あいつはそういう奴だ」
窓の外の夜景が少しだけ霞んでいた。雲が出てきたのだろう。東京の夜は、雲があっても明るい。地上の光が雲を照らし返すからだ。
◇ ◇ ◇
帰り際。玄関で靴を履いていると、レイラが背後に立った。
「ねえ」
「何だ」
「火曜日。面談が終わったら、何食べたい?」
刃は振り返った。レイラの顔は、白いセーターの襟から覗いていて、少しだけ赤かった。
「……面談の結果次第だろう」
「結果がどうであれ、お腹は空く。ご飯は食べる。だから聞いてるの」
正論だった。面倒な正論だった。
「……何でもいい」
「何でもいいは禁止。選んで」
「……ラーメン」
「却下。もっとちゃんとしたもの」
「ラーメンはちゃんとした食事だ」
「却下。焼肉にする」
「俺の意見は」
「聞いた上で却下した」
刃はため息をついた。面倒だ。本当に面倒だ。面倒で、図々しくて、涙もろくて、正論を振りかざして、人の食事の選択肢を勝手に決める女。
「……焼肉でいい」
「いいじゃなくて、焼肉がいい、でしょ」
「……焼肉がいい」
「よし。予約しとく」
レイラが笑った。それは、さっきの泣きそうな笑顔でもなく、覚悟を決めた顔でもなく——ただの、嬉しそうな笑顔だった。
刃は玄関を出た。廊下を歩いて、エレベーターに乗った。二十三階から一階へ。長い下降だ。
携帯を開いた。
ガレスに一通。
『明日、話がある。あの店で待ってくれ』
ミラに一通。
『近いうちに、話したいことがある。時間を作ってほしい』
マンションのエントランスを出た。夜風が冷たかった。自動販売機を見つけた。缶コーヒーを買った。ブラック。
一口飲んだ。苦い。うまい。
面倒だ。全部。
ガレスに会うのも、ミラに話すのも、面談で全てを晒すのも。
でも、もう逃げない。
隠さない。
嘘をつかない。
——嘘の代償は、もう十分に払った。これ以上、誰にも払わせない。




