第61話「ヴィクターの証言」
朝のニュースで、世界が動いた。
刃はいつものようにアパートのキッチンで缶コーヒーを開けていた。テレビはつけていない。携帯も見ていない。
窓の外は曇り空で、東京の朝は灰色だった。静かな朝だ。いつも通りの、何も起きない朝——のはずだった。
携帯が鳴った。レイラからだった。朝の七時にレイラから電話が来ることは、通常ありえない。レイラは朝が弱い。八時より前に連絡が来たことは、同行を始めてから一度もなかった。
「見て」
レイラの声は、短かった。いつもの弾んだ声ではない。硬い。何かが引っかかっている声だ。
「何を」
「ニュース。今すぐ」
刃はテレビをつけた。
画面に映っていたのは、協会の記者会見場だった。協会の広報担当が壇上に立っている。テロップには大きな文字が表示されていた。
——【速報】合同開拓イベント妨害事件 黒剣商会副社長ヴィクター・ドレイク容疑者の供述内容が一部公開
刃の手が止まった。缶コーヒーを握ったまま、画面を見つめた。
広報担当が淡々と読み上げている。
「——ヴィクター・ドレイク容疑者は、拘束後の聴取において以下の供述を行いました。第一に、合同開拓イベントにおけるスタンピードは自然発生ではなく、黒剣商会の工作による人為的なものであったこと。第二に、スタンピードの対象は神盾機関所属のSランク探索者レイラ・フロストヴェール氏であり、同氏の排除を目的とした計画であったこと——」
ここまでは、刃も知っている。あの夜の真相だ。ヴィクターが仕組んだスタンピード。レイラを狙った排除計画。それを止めたのは——
「——第三に、スタンピードの鎮圧に関して、公式記録には存在しない第三者が介入した可能性があること。ヴィクター容疑者は、その第三者について『Fランクポーター・八雲刃』という名前を供述しています」
画面の中で、記者たちがざわめいた。カメラのフラッシュが連続して光った。
「——なお、ヴィクター容疑者は『八雲刃なる人物のFランク登録自体に重大な不正の疑いがある』と供述しており、協会はこの供述内容の事実確認を進めています」
テレビの画面が切り替わり、コメンテーターが話し始めた。
「Fランクポーターがスタンピードを鎮圧した? そんなことがあり得るのでしょうか」
「ヴィクター容疑者の供述にどこまで信憑性があるのか」
「八雲刃という人物について、協会はこれまで何も把握していなかったのか」
刃はテレビを消した。
携帯を耳に戻した。レイラはまだ繋がっていた。
「……見た?」
「見た」
「どう思う?」
刃は窓の外を見た。曇り空は変わっていない。東京の朝は灰色のままだ。しかし、何かが確実に変わった。空気の温度が、一度だけ下がった気がした。
「……面倒だな」
「面倒で済む話じゃない」
レイラの声が、少しだけ震えていた。
「ヴィクターが、どこまで知っているか分からない。あの夜、私は——」
レイラが言葉を切った。氷眼のログ改竄。スタンピードの夜、レイラは自分の氷眼に記録された刃の戦闘データを改竄した。刃の正体を隠すために。
あの時は、それが正しいと思った。刃の秘密を守るために。刃が「Fランクポーター」として生きたいと望んでいるのなら、その嘘を守ることが、自分にできる最善だと思った。
「……ヴィクターの証言と、私のログが矛盾したら——」
「今は考えるな」
刃が言った。静かな声だった。しかし、いつもの「面倒だ」の延長線上にある声ではなかった。もっと低い。もっと確かな声。
「まだ証言の一部が公開されただけだ。全容は分からない。ヴィクターが何を知っていて何を知らないのか、それが分かるまで動くな」
「……でも」
「レイラ」
名前で呼んだ。珍しい。というより、初めてかもしれない。レイラの息が止まった。
「俺が何とかする」
沈黙が流れた。長い沈黙だった。レイラが何かを飲み込むような音がした。
「……分かった」
電話が切れた。
刃は缶コーヒーを飲み干した。空き缶をキッチンのシンクに置いた。
窓の外を見た。曇り空。灰色の東京。しかし、今日の灰色はいつもと違う。重い。圧し掛かるような灰色だ。
携帯が再び鳴った。今度はミリアだった。協会の受付嬢。あのジト目の女だ。
「八雲さん。おはようございます」
声が固い。いつもの事務的な口調よりも、さらに固い。
「理事会から、面談の日程調整を急ぐよう指示が出ました。最短で三日後の火曜日、午前十時。場所は協会本部の第一会議室です」
「……面談」
「はい。ヴィクター・ドレイク容疑者の供述に基づく事実確認のための面談です。出頭は任意ですが——」
ミリアの声が一瞬だけ揺れた。
「——理事会は、出頭を強く推奨しています」
任意という名の強制。協会のやり方だ。
「分かりました」
「……八雲さん」
ミリアが少し間を置いた。事務的な声の奥に、何かが混ざっていた。
「面談には、弁護士の同伴が許可されています。ご検討ください」
「弁護士は要りません」
「……そうですか。では、火曜日に」
電話が切れた。
刃はキッチンの壁に寄りかかった。天井を見上げた。白い天井。ひびが一本入っている。ずっと前からあるひびだ。
ヴィクターの証言。Fランクポーター・八雲刃。不正の疑い。理事会の面談。
面倒だ。
しかし、もう隠すつもりはなかった。山で師匠に言われた。「お前は、もう隠れる必要がない」。あの時は分からなかった。今は、少しだけ分かる。
隠れる必要がないのではない。隠れていては、守れないものがあるのだ。
レイラのログ改竄。あれは刃の秘密を守るためにレイラがついた嘘だ。刃が隠れ続ける限り、レイラの嘘も続く。レイラの嘘が続く限り、レイラは危険にさらされ続ける。
それは——嫌だった。
面倒だとか、そういう話ではない。レイラが刃のために嘘をつき、その嘘のせいで罰を受ける。そんなことを許せるほど、刃は冷たい人間ではなかったし、冷たくなりたいとも思わなかった。
携帯を握りしめた。画面にはニュースサイトの速報が並んでいた。「八雲刃」の名前が、すでにトレンドに入り始めている。まだ記事の中の一つの名前に過ぎないが、時間の問題だろう。世界が、八雲刃という名前を知り始めている。
三日後。火曜日。面談。
それまでに、やるべきことがある。
刃は携帯を開いた。メッセージを一通だけ打った。宛先は——レイラ。
『火曜日、一緒に来い』
十秒後、返信。
『行く』
短い。一文字の余韻もない。しかし、その二文字に込められた意味を、刃は理解していた。
覚悟の二文字だった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。刃はアパートの部屋で、テレビをつけずに天井を見つめていた。
携帯が断続的に鳴っている。ミラからは『ニュース見ました。大丈夫ですか? データの件、必要であればいつでも提供します』。ガレスからは電話が二回来たが、留守電にメッセージが入っていた。「見た。何かあったら言え。飲みに行くか」。ルーカスからはセラ先生経由で「師匠、大丈夫ですか!」というメッセージが転送されてきた。
面倒な奴らだ。全員。
しかし、その面倒さが、今は少しだけ温かかった。
刃はガレスにだけ返信した。
『大丈夫だ。飲みは面談が終わってから』
すぐに返信が来た。
『了解。いい店見つけた。今度は俺の奢りだ』
刃は携帯を置いた。窓の外は曇り空のままだった。しかし、雲の切れ間から一筋だけ光が落ちていた。アパートの前の自動販売機を、その光が照らしている。
三日後、全てを話す。
隠さない。もう、隠れない。
缶コーヒーの空き缶を、ゴミ箱に投げた。入った。




