第60話「師匠と呼ぶな」
携帯が鳴った。知らない番号だった。
普段なら無視する。しかし、番号の頭に協会の内線番号がついている。面倒だが、出ないわけにはいかない。
「八雲さんでしょうか。第一魔導学園のセラと申します」
女性の声。落ち着いた、教師特有の声だ。
第一魔導学園。刃は以前、協会の依頼で模擬戦の講師をやったことがある。一度だけ。あの時に出会った生徒が——
「ルーカスくんのことでご相談が」
やはりか。
「何かありましたか」
「いえ、問題があるわけではないのです。むしろ逆で——成長が著しすぎて、対応に困っています。ルーカスくんが八雲さんを『師匠』と呼んで止まらないんです。他の生徒にまで広がっていて……一度、来ていただけないでしょうか」
「……分かりました」
面倒だが、断る理由がない。断る理由がないことが、最近増えた。
◇ ◇ ◇
第一魔導学園。協会の管轄下にある養成機関だ。将来の探索者を育てるための施設で、十五歳以上の生徒が戦闘術と魔素制御を学んでいる。
正門をくぐると、校庭で生徒たちが訓練をしていた。剣を振る者、弓を引く者、魔素の操作を練習する者。
若いエネルギーに満ちている。眩しい。刃には縁のない場所だ。
校舎の入口にセラ先生が待っていた。三十代半ば。眼鏡をかけた、穏やかな顔をした女性だ。元Bランク探索者で、戦場から教壇に転じた人間だとガレスから聞いたことがある。
「お忙しいところありがとうございます。こちらへ」
案内されたのは、訓練場だった。屋内の広い空間。壁には防護魔術が施されている。
中央で一人の少年が木刀を振っていた。
ルーカス。刃が以前の模擬戦で対峙した生徒だ。あの時は粗く熱っぽい剣を振っていた。力はあるが技術がない。基礎が足りていない。そう感じた。
今は違った。
足運びが変わっている。以前の力任せの踏み込みではなく、重心を低くした滑るような足運び。刃が無意識にやっている足運びだ。基礎の中の基礎。師匠から叩き込まれた動き。
木刀の軌道も変わっている。力で振り抜くのではなく、最小限の筋力で最大の速度を出す合理的な軌道。これも、刃がやっていることの模倣だ。
ルーカスが刃に気づいた。目が輝いた。
「師匠!」
訓練場に声が響いた。周囲の生徒たちが一斉に振り返る。
「師匠じゃない」
「でも、師匠が教えてくれた足運びで——」
「俺は何も教えていない。一度見せただけだ」
「一度見せてもらったから、ずっと練習しました! 見てください、ここの踏み込み——」
ルーカスが木刀を構え、足運びを実演した。踏み込みの角度。体重移動のタイミング。確かに、刃の足運びを模倣している。しかも、かなり正確に。
一度見ただけで、ここまで再現するのか。
「セラ先生」
「はい」
「……この子、才能がありますね」
セラ先生が小さく笑った。
「ルーカスくんだけではないんです」
セラ先生が訓練場の隅を指差した。数人の生徒が、ルーカスと同じ足運びで訓練をしている。全員が、ルーカスの動きを真似ている。つまり、刃の動きの「コピーのコピー」だ。精度は落ちるが、基礎の骨格は残っている。
「あなたが一度見せた動きが、ルーカスくんを通じて学園全体に広がりつつあります。成績上位者の半数が、この『八雲式』と呼ばれる足運びを取り入れています」
「……八雲式」
聞き覚えのない名前だ。自分の動きに名前がついているとは思わなかった。師匠は「技に名前をつけるな」と言っていた。名前をつけた瞬間、技は固定される。固定された技は死ぬ。
「師匠、もう一度だけ手合わせしてもらえませんか」
ルーカスが木刀を握りしめて、真剣な目で刃を見ていた。あの日の、力任せだった目とは違う。基礎を積み上げた人間の目だ。
「……師匠じゃないと言ってるだろう」
「でも」
「でもじゃない」
刃は訓練場の壁に寄りかかった。缶コーヒーを開ける。セラ先生が困った顔で微笑んでいる。
「手合わせは無理だ。俺が全力を出したら、この訓練場が壊れる」
冗談のつもりだった。しかし、セラ先生の表情が一瞬だけ変わった。冗談だと思っていない顔。この人は元Bランク探索者だ。刃の「普通の動き」がどれほど異常かを、見る目で分かっているのだろう。
「その代わり」
刃が缶コーヒーを飲んだ。
「足運びの修正点を三つだけ言う。それ以上は自分で考えろ」
ルーカスの目が輝いた。周囲の生徒たちが集まってきた。刃は面倒くさそうに——しかし正確に、ルーカスの足運びの修正点を指摘した。
踵の角度が二度ずれている。体重移動のタイミングがコンマ三秒遅い。膝の抜きが浅い。
三つ。それだけ言って、缶コーヒーを飲み干した。
「……すごい。師匠、ありがとうございます!」
「師匠じゃない」
「はい、師匠!」
「……」
セラ先生が小さく笑った。
◇ ◇ ◇
帰り際。校舎の廊下をセラ先生と歩いていた。
「ルーカスくんは、あなたに出会ってから変わりました」
セラ先生が静かに言った。
「以前は力任せで、技術を学ぶ忍耐がなかった。でも、あなたの一度きりの模擬戦で何かが変わった。基礎を積み上げることの意味を、体で理解したんだと思います」
刃は何も言わなかった。
「八雲さん。一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」
セラ先生が立ち止まった。廊下の窓から、訓練場が見えた。ルーカスが生徒たちに足運びの修正点を教えている。刃が言ったことを、そのまま伝えている。
「あなたが思っている以上に、あなたの存在は大きくなっています」
セラ先生の声は穏やかだったが、その目は真剣だった。
「……そして、これからもっと大きくなるかもしれない」
刃はその言葉に何も返さなかった。窓の外では、ルーカスが木刀を振っていた。刃の足運びを、何度も何度も繰り返していた。
正門を出て、缶コーヒーを買った。
「……面倒だ」
つぶやいた。しかし、その声には、以前のような拒絶はなかった。
師匠と呼ぶな。俺は誰の師匠でもない。
——そのはずだった。
しかし、あの少年の足運びは、確かに刃のものだった。刃が師匠から受け継ぎ、無意識に磨き続けてきたもの。それが次の世代に渡ろうとしている。
面倒だ。本当に面倒だ。
でも——嫌ではなかった。




