第59.5話「閑話:缶コーヒーと絵文字」
あの人が山から帰ってきて、もう二週間が経つ。
変わったことと、変わらないことがある。
変わらないこと。缶コーヒーばかり飲む。ブラック。一日に何本飲んでいるのか分からない。自動販売機の前に立つ姿を見ると、条件反射のように手がブラックのボタンに伸びている。あれは好みというより、もう習性だ。
面倒くさがる。何を言っても「面倒だ」と返す。ダンジョンの同行を提案しても「面倒だ」。食事に誘っても「面倒だ」。
——でも、断らない。面倒だと言いながら、来る。
あの口癖は、照れ隠しだと最近気づいた。
変わったこと。
目。
以前の刃の目は、曇っていた。
正確には——いつも少し逸らしていた。こちらを見ているようで、見ていない。壁を見て、天井を見て、缶コーヒーを見て、地面を見る。人の目を、まっすぐ見ない。
隠し事をしている人間の目だった。
嘘をつき続けている人間の、疲れた目。
今は違う。
あの日、三十一階層でイレギュラーが出た時。私の氷が砕かれて、体勢を崩した瞬間。あの人は一歩踏み出して、藍色の鞘から刀を抜いた。
黎明。
初めて見た。初めて、あの人が隠さなかった。
一振り。深層五十階層の個体が、中央から二つに分かれた。
あの時のあの人の目は、まっすぐだった。曇りがなかった。迷いがなかった。
ただ目の前の脅威を断ち切る、それだけの目。
それが、こんなにも綺麗だなんて知らなかった。
帰り道、自動販売機の前でカフェラテを買ってくれた。
覚えてたんだ、と聞いたら「たまたまだ」と言った。
嘘。
あの人は覚えている。私が何が好きか、全部覚えている。ただ、認めるのが面倒なだけ。
——そういうところが、大好き。
◇ ◇ ◇
朝。マンションのベッドの中で、携帯を開く。
『今日も缶コーヒー?』
送信。絵文字をつけようか迷って、やめた。刃は絵文字を使わない。こちらが合わせる必要はないけど、あまり派手にすると引かれる気がする。
五分後、返信。
『うるさい』
笑った。声が出た。
「うるさい」。たった四文字。句読点もない。絵文字もない。でも、返信が来た。それだけで嬉しい。
以前は既読無視だった。山に行く前は、メッセージを送っても三回に一回しか返事が来なかった。返ってきても「。」だけとか、「別に」とか。
今は、返ってくる。短いけど、返ってくる。
『今日ダンジョン行かない?』
送信。今度は少し迷って、絵文字をつけた。笑顔。一個だけ。
十分後。
『面倒』
断っていない。「行かない」ではなく「面倒」。これは「行く」の意味だ。もうこの翻訳には慣れた。
『何時にする?』
『十時』
『了解。入口で待ってる』
返信なし。これも「了解」の意味だ。
とっても変だけど、とっても有意義なコミュニケーション。
◇ ◇ ◇
ダンジョンの入口で待っていると、刃が来た。いつもの軽装。左腰に日本刀。ポーター用のバックパック。右手に缶コーヒー。いつまで経っても、ポーターの格好のまま。もう、意地張ってるとしか思えない。
朝の十時に缶コーヒー。やっぱり変わっていない。
「おはよう」
「ああ」
隣に並んで歩く。半歩後ろでもなく、三歩先でもなく、横。
以前は、この距離が取れなかった。刃はいつも少し離れた場所にいた。近づくと、さりげなく距離を開けた。猫みたいに。いや、猫の方がまだ素直だ。
今は横にいる。缶コーヒーを飲みながら、何も言わずに。
それだけのことが、たまらなく嬉しい。
「なに笑ってるんだ」
「笑ってない」
「笑ってた」
「……少しだけ」
刃が面倒くさそうな顔をした。でも、離れなかった。
◇ ◇ ◇
夜。マンションに帰って、シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。
携帯を開く。
今日のダンジョンの写真を見返す。私が撮ったものだ。刃は写真を撮らない。撮られるのも嫌がる。
唯一撮れたのは、休憩中に缶コーヒーを飲んでいる後ろ姿。壁に寄りかかって、天井を見上げている。左腰に藍色の鞘が見えている。
前までのこの人には、こんな写真すら撮れなかった。撮ろうとすると気配で気づいて、顔を逸らされた。
今日は、気づいていたけど逸らされなかった。
あの日。深層で百体の魔獣を倒した人が。
世界ランキングの頂点にいるかもしれない人が。
自動販売機の前で毎日ブラックのボタンを押して、「面倒だ」を口癖にして、メッセージに「うるさい」と返してくる。
こんなに面倒くさがりで。
こんなに不器用で。
こんなに、優しいなんて。
知らなかった。
携帯を胸に抱えて、目を閉じた。
明日も「面倒だ」と言ってもらおう。
明日も缶コーヒーを飲む後ろ姿を見よう。
明日も、隣を歩こう。
『おやすみ』
送信。絵文字はつけなかった。
一分後。
『ああ』
——返ってきた。
笑った。目が熱くなった。泣きそうだった。嬉しくて。
明日も、きっといい日になる。
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そのため○.5話を投稿する際は、今回のように本編+○.5話の同時更新となります。




