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底辺探索者の手加減極意 〜最強の師匠に育てられた俺はソロでダンジョンを攻略したいだけなのに、偶然トップ配信者を助けたら世界中から注目されてしまった〜  作者: らいお
陸ノ太刀 もう隠れない

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第59話「観測者」

 協会の研究棟。地下二階。

 白い廊下を歩いていると、消毒液とコーヒーの匂いが混ざった独特の空気が流れてきた。研究者の巣だ。刃はこの手の場所が苦手だった。清潔すぎる。静かすぎる。自分の足音すら気になる。——もっとも、刃の足音は誰にも聞こえていないのだが。


 ドアをノックした。返事はなかった。もう一度ノックした。やはり返事はない。

 ドアノブを回すと、鍵は開いていた。中に入る。


 中に入ると、一人の女がどこか眠たげだが真剣な瞳で計測装置に顔を突っ込んでいた。

 ミラ・ヴァレンティ。蒼天弓(スカイボウ)所属のAランク探索者。

 白衣を着ている。ただし、裾口からは魔獣素材で作られた探索者用のブーツがはみ出している。腰には二本の短剣刀。白衣の下は完全に探索者のままだ。


「ミラさん」


 反応がない。


「ミラさん」

「……あと三十秒」

「はいはい、待ちますよ……」


 三十秒後、ミラが計測装置から顔を上げた。眼鏡が曇っている。寝癖がついている。おそらく泊まり込みだろう。


「おはようございます、八雲くん。来てくれたんですね」

「メッセージに『都合のいい日を教えてください』と書いてあったので」

「あれ、半分諦めてました。八雲くんが素直に来るとは思わなかった」

「……来なければよかったですか」

「冗談です。さ、こちらへ」


 ミラが研究室の奥を指差した。大型の計測装置が三台並んでいる。魔素測定器。協会の標準装備よりも明らかに大きく、複雑だ。


「ミラさんの自作ですか」

「自作……とまでは言いませんが、改造品です。協会の標準品は精度が足りないので、測定レンジを拡張しました。一般の探索者なら十段階で十分ですが、Sランク以上の計測には百段階が必要なんです」


 ミラが計測装置の前に立ち、手のひらサイズのクリスタルを差し出した。


「これを握ってください。魔素の安静時放出量を測定します。力は入れなくていいです。普通にしてください」

「……ダンジョン内でデータを取ってたんじゃなかったんですか」

「取ってましたよ。崩落区域で三トンの岩盤を片手で本当に動かしてたでしょう。あの時からずっと気になってました。魔素の安静時放出量は、ランクが上がるほど上限値が定まるのが普通です。あなたの場合、安静時から常に天井を超えているはずなんです」

「……見てたんですか」

「ずっと観察中です。これも私の仕事ですから」


 刃はクリスタルを受け取り、軽く握った。普通にする。何も考えない。

 計測装置のディスプレイに数値が表示され始めた。ミラが隣のモニターで数値を確認している。

 三秒後、ディスプレイが赤く点滅した。


「……エラー?」


 ミラが眉をひそめた。計測装置を操作し、リセットをかける。


「もう一度お願いします」


 刃はクリスタルを握り直した。普通にしている。何も変えていない。

 五秒後、再びディスプレイが赤く点滅した。エラー。


「……八雲くん、本当に何もしてないですか」

「何もしてません」

「力を入れてないですか」

「入れてません」

「……もう一度」


 三度目。ミラが計測レンジを最大に拡張し、クリスタルを新しいものに交換した。

 刃がクリスタルを握る。

 ディスプレイに数値が表示された。今度はエラーにならなかった。


 ミラの手が止まった。

 数秒間、モニターを見つめていた。それから、もう一度見た。三度目に、自分の眼鏡を外して拭き、再びかけ直してから見た。


「……八雲くん」

「はい」

「計測器の故障だと思いました」

「違ったんですか」

「違いました」


 ミラがモニターの前の椅子に座った。背もたれに体を預け、天井を見上げた。


「安静時の魔素放出量。一般探索者の平均がこの計測器で五十。Aランクで三百から五百。Sランクで八百から千二百。レイラさんが千四百五十。これが現在の世界的な数値基準です」


 ミラが刃を見た。琥珀色の瞳が、いつもの快活さを失っている。


「八雲くんの数値は——」


 ミラが一度言葉を切った。


「——桁が三つ違いました」


 刃は黙っていた。


「レイラさんの千倍以上です。正確に言うと、千四百五十の約千百倍。測定レンジを百段階に拡張してなければ、そもそも計測できなかった。最初の二回のエラーは、数値がレンジを振り切ったせいです」


 ミラが立ち上がった。研究室の壁に貼られたグラフの前に歩いていき、指でSランクの数値帯を示した。


「ここがSランク。世界のトップ。人類最強の領域です」


 ミラの指が、グラフの遥か上を指した。紙が足りない場所を。


「八雲くんは、ここです。グラフの外です。比較対象が存在しません」


 沈黙が流れた。計測装置の冷却ファンが低く唸っている。


「……八雲くん」


 ミラが振り返った。真顔だった。


「あなた、人間ですか?」


 刃は少し考えた。


「……多分」


 ミラは笑わなかった。冗談だと思っていなかった。


「多分、というのは」

「師匠にも聞いたことがない。ダンジョンで拾われたので、自分がどこから来たのか分からない」


 ミラの瞳が揺れた。科学者としての好奇心と、人としての共感が混ざったような目だった。


「……すみません。踏み込みすぎました」

「いいですよ。隠すことでもない」


 ミラが少し驚いた顔をした。隠すことでもない。この男が、そう言うのか。


「データは嘘をつきません」


 ミラが自分のデスクに戻り、モニターに映る数値を見つめた。


「でも、このデータを論文にしたら、私の研究者としての信用は終わります。査読委員会は機器の故障だと判断するでしょう。あるいは、私がデータを捏造したと」

「出さなければいいのでは」

「科学者として嘘はつけません。データが存在する以上、それを隠すことは嘘と同じです」


 ミラがコーヒーを淹れ始めた。研究室の隅にあるドリップセット。手つきが慣れている。毎日何杯も淹れているのだろう。


「八雲くんも飲みますか」

「いただきます」

「ブラックでいいですか」

「はい」


 二つのマグカップがデスクに置かれた。ミラが一口飲み、顔をしかめた。


「……苦い。この味は八雲くんの影響です。前はハーブティー派だったのに、最近はブラックばかり飲んでいます。面倒なものに巻き込まれました」

「巻き込んだ覚えはないです」

「データが巻き込んだんです。あなたのせいじゃない。あなたの魔素のせいです」


 刃はコーヒーを一口飲んだ。苦い。うまい。研究室のコーヒーにしては悪くない。


「ミラさん」

「はい」

「このデータ、レイラには」

「まだ共有していません。ただ、レイラさんも氷眼で似たようなデータを持っているはずです。遠からず、同じ結論に辿り着くでしょう」


 ミラが椅子の背もたれに身を預けた。


「八雲くん。一つだけ聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「この数値を、隠しますか?」


 刃はコーヒーを見つめた。黒い液面に、天井の蛍光灯が映っている。


「……隠しません」


 ミラの瞳が大きくなった。


「前は隠していました。でも、もう隠す理由がなくなった。データは好きに使ってください。論文にするかどうかは、ミラさんが決めることです」


 ミラはしばらく黙っていた。それから、小さく笑った。


「……面倒なものに巻き込まれたと思ったけど、少し撤回します」

「撤回?」

「面倒だけど、面白いデータです。科学者として、こんなデータに出会えることは一生に一度あるかないかです」


 ミラがモニターの数値を指で叩いた。


「桁が三つ違う異常値。比較対象なし。既存の理論では説明不可能。でも、目の前に実在している。これを面白いと思えなかったら、研究者を辞めるべきです」


 刃はコーヒーを飲み干した。立ち上がる。


「また来ますか、と聞いたら面倒ですか」

「面倒です」

「知ってます。でも、追加データが必要なんです」

「……考えておきます」

「期待してます」


 研究室を出た。白い廊下を歩く。消毒液の匂いが薄れ、外の空気が近づいてくる。

 面倒な研究者だ。データは嘘をつかないと言い切る。論文にしたら信用が終わると分かっていながら、隠すことは嘘と同じだと言う。面倒で、正直で、少しだけ刃に似ている。


 携帯が震えた。ミラからだった。


 『今日のデータ、整理しました。面白い発見がありました。詳しくはまた今度 :)』


 即レス。やはりこの人は携帯を手に持ったまま生きている。

 刃は缶コーヒーを買った。ブラック。無糖。苦い。うまい。


 面倒な奴らが、また一人増えた。


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