第58話「刀鍛冶を探せ」
新宿の裏路地。看板のない居酒屋。カウンター八席だけの狭い店だ。探索者が好んで使う類の店で、壁には古い地図と、退治した魔獣の牙が飾られている。
刃はカウンターの端に座っていた。目の前にはビールジョッキ。隣には、体格のいい男が座っている。
ガレス。神盾機関所属、Aランク探索者。元軍人の四十代前半。幅広い肩に短い髯。右肩には合同開拓イベントの後遺症が残っている。
二人の間に、枝豆と焼き鳥が並んでいた。
「右肩の再検査、受けてきた」
ガレスが焼き鳥を齧りながら言った。
「どうだった」
「可動域が七割に戻ってた。医者が驚いてたよ。少し前は五割だったからな」
「いい医者だったか」
「いい医者だった。……お前が紹介した訳じゃないがな」
ガレスが笑った。太い声だ。刃はビールを一口飲んだ。刃にとってアルコールは水と大して変わらない。酔わない。しかし、この場の空気にはやはり酒が合っている。
「で、お前の方はどうなんだ。『いい刀鍛冶なら探している』とか意味不明なメッセージを送ってきたが」
刃は少し迷った。しかし、迷う時間は短かった。もう隠す理由はない。
カウンターの下から、刀袋を持ち上げた。布を解く。二振りの刀が現れる。
一振りは、藍色の鞘。黒絹の柄。刃紋が店の灯りを受けて淡く光っている。
もう一振りは、使い古された地味な鞘。柄の巻きが擦れ、鞘にも細かな傷がいくつもある。
ガレスの目が止まった。
「……刀? お前、安物の鉄剣を使ってなかったか?」
「あれはポーター用だ。本来は刀を使ってる。藍色の方は、師匠に貰った。もう一振りが——」
刃が古びた方の鞘を中程まで抜いた。刀身が露わになる。ガレスは斧使いだが、元軍人だ。刃物の状態を見る目は持っている。
ガレスの眉が寄った。
「……亀裂が入ってる」
「ああ。刀身の中程に。このまま無鉄砲に使えば折れる」
ガレスは無言で刀身を見つめていた。古い。しかし、ただ古いだけではない。鍛えられた痕跡がある。素材もいい。少なくとも、安物ではない。ただ——
「こんなボロで戦ってたのか」
ガレスの声は、呆れではなかった。どちらかといえば、畏怖に近い。この亀裂は生半可に負うようなものじゃない。使用者の『技』によるものだ。すなわち、その技を使う刃の実力が底知れない、と悟ったようだった。
「修理に出したい。だが、普通の刀鍛冶では無理だ。この刀の素材が特殊でな」
「……特殊、というのは」
「等身は玉鋼だ。だけど、俺の技に耐えられない。だから深淵鉄に匹敵する古代鍛造の鋼が必要だ。腕のいい刀鍛冶でないと扱えない」
ガレスは焼き鳥の串を皿に置いた。腕を組む。考え込むような仕草。
「……心当たりが、一つある」
「あるのか」
「職人街に、変わり者の爺がいる。ダンジョン素材の加工を専門にしている鍛冶師だ。協会の正規ルートには乗っていない。個人で、一人で、気に入った仕事しか受けない偏屈な爺だ」
「名前は」
「本名は知らん。みんな『鉄爺』と呼んでる。俺の斧の調整とグリップを巻き直してもらったことがある。腕は確かだ。ただ——」
ガレスが刃を見た。
「気に入らない客は門前払いする。俺も最初は三回追い返された」
「面倒だな」
「お前の口癖だな、それ」
ガレスがビールを飲み干した。ジョッキを置く音が、静かな店内に響いた。
「紹介状は書いてやる。ただし、受けるかどうかは鉄爺次第だ」
「ああ。ありがとう」
ガレスが少し驚いた顔をした。
「珍しいな。お前が礼を言うのは」
「言わないわけじゃない。普段は面倒だから省略してるだけだ」
「……それ、礼を言ってないのと同じだろう」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。焼き鳥の煙が天井に細く昇っていく。
ガレスがジョッキにビールを注ぎ足した。泡が溢れそうになり、慌てて口をつける。左手だけで器用にやっていた。右手は膝の上。右肩の可動域が戻りつつあるとはいえ、まだ完全ではないのだろう。
「……あの夜のこと」
ガレスが言った。声のトーンが変わっていた。
「スタンピードの夜。お前は『魔獣が勝手に散開した』と言った」
刃は黙っていた。
「俺はあの時、右肩を食い破られて意識が飛びかけてた。正直、何が起きたかよく分かっていない。分かっていないが——」
ガレスがビールのジョッキを見つめた。泡が静かに消えていく。
「風が変わった。一瞬だけ。空気そのものが切られたような——そんな感覚があった」
刃は何も言わなかった。ガレスも、答えを求めてはいなかった。
「いつか、話す気になったら聞かせてくれ。急がない。お前のペースでいい」
ガレスがビールを飲んだ。焼き鳥を一本取り、齧った。何事もなかったかのように、日常の顔に戻っていた。
「……ああ」
刃はそれだけ答えた。
短い返事だった。しかし、以前なら「何の話だ」とはぐらかしていた。覚えていないふりをしていた。
今は、否定しなかった。
ガレスは気づいていた。その微かな変化に。元軍人の目は、言葉にならない変化を見逃さない。
しかし、追及はしなかった。この男は、そういう男だ。待てる男だ。
二人は無言で焼き鳥を食べた。ビールを飲んだ。店のテレビでは野球中継が流れていた。三番バッターがホームランを打ち、店主が小さくガッツポーズをした。
「もう一杯、いくか」
「ああ」
ガレスが店主に手を挙げた。ビールが二つ、カウンターに並ぶ。
「……お前」
ガレスが唐突に言った。
「全然酔ってないだろう」
「体質だ」
「嘘つけ。さっきから五杯目だぞ」
「体質なんだ」
ガレスが大きな声で笑った。店主が振り返るほどの声量だった。
刃は六杯目のビールを静かに飲んだ。水と変わらない。しかし、この場の空気は、確かに少しだけ温かかった。
帰り道。夜風が心地よかった。ガレスが左手を上げて去っていく。大きな背中だ。右肩が少しだけ下がっている。しかし、その歩き方には軍人の名残があった。まっすぐで、力強い。
刃はポケットの中の名刺を確認した。ガレスが店を出る時に渡してきた、職人街の地図が裏に書かれたメモ。
鉄爺。偏屈な刀鍛冶。三回追い返す男。
面倒だ。しかし、古びた刀を見ると、亀裂が光を受けて細く走っているのが分かる。このままでは、いつか折れる。師匠が「腕の立つ刀鍛冶に修理させろ」と言った。ならば、行くしかない。
缶コーヒーを買った。ブラック。無糖。夜の東京は相変わらず煩い。しかし、嫌ではなかった。
左手に持つ刀袋の中で、二振りの刀が静かに揺れていた。一振りは藍色の鞘。もう一振りは、亀裂の入った古い刀。
どちらも、師匠が持たせてくれたものだ。




