第57話「最強のポーター、再び」
一週間ぶりのダンジョンだった。
国定ダンジョン三十階層。刃はいつもの軽装に刀袋を提げ、ポーター用のバックパックを背負っている。何か入っているのか、という程度の感覚しかない。これで「重い」と言う探索者は多いが、刃にとっては目を閉じていても分からない重さだった。
隣を歩くのは、銀髪の女。レイラ・フロストヴェール。世界ランキング三位。今日は変装なしだ。本来の軽装アーマーに、腰には白銀の剣。氷のように澄んだ瞳が、薄暗い通路の先を睨んでいる。
「久しぶりだね」
レイラが言った。声が少し弾んでいる。隠そうともしていない。
「ああ」
短い返事。しかし、それだけで十分だった。二人の間には、もう余計な言葉は必要ない。
通路を進む。刃の足音は相変わらず聞こえない。ポーターの大荷物を背負っていても、気配が消えている。レイラはそれを知っている。知っているから、もう驚かない。
ただ、今日は少し違った。
以前の刃は、レイラの死角で動いていた。カメラの映らない位置、氷眼の捕捉範囲の外。常に視線の端から外れるように、影に溶けるように。気配を殺すだけではなく、存在そのものを消していた。
今日は、違う。
刃はレイラの横を歩いていた。半歩後ろでも、三歩先でもなく、横。ポーターとしては不自然な位置だ。しかし刃は気にしていない。
レイラの氷眼が、無意識に刃の動きを追っていた。魔素の流れ。足運び。呼吸。全てが以前と同じだ。変わっていない。何も変わっていない。
なのに、どうしてこんなに違って見えるのだろう。
「……何見てる」
「見てない」
「見てた」
「……少しだけ」
レイラが目を逸らした。耳が赤い。
◇ ◇ ◇
三十階層の探索は順調だった。レイラの氷術が冴えている。山に行く前と比べて、明らかに精度が上がっている。刃の不在中も鍛錬を怠っていなかったのだろう。
刃は荷物を運びながら、時折素材を拾い、通路の安全を確認する。ポーターの仕事だ。地味で、退屈で、面倒くさい。しかし、嫌ではなかった。
三十一階層に降りた時、空気が変わった。
刃の足が止まった。レイラも同時に止まる。二人の感覚は、この点においては一致している。
通路の奥から、重い足音が響いてきた。規則的ではない。複数ではない。一体。しかし、その一体が放つ圧が、この階層に不釣り合いだった。
「……イレギュラーか」
刃がつぶやいた。中層に深層の個体が迷い込むことは稀にある。ダンジョンの構造が不安定な区域で発生する階層間遭遇。協会の分類では「C級異常事態」に該当する。
奥から現れたのは、四足の魔獣だった。全身を黒い鱗に覆われ、体高は三メートルを超えている。深層五十階層以深に生息する個体だ。この階層にいるべきものではない。
レイラの瞳が蒼く光った。氷眼が起動している。
「下がって」
レイラが白銀の剣を抜いた。右手から冷気が溢れ、通路の壁面に霜が走る。刃は黙って一歩下がった。ポーターの仕事は、前線に出ることではない。
レイラが踏み込んだ。氷華展開。空中に無数の氷の結晶が生成され、魔獣に向かって射出される。美しい。以前より遥かに精密で、遥かに速い。氷の一つ一つが急所を狙い、鱗の隙間を突く。
しかし、黒鱗の魔獣は深層の個体だった。
氷が砕けた。
魔獣の体表から黒い魔素が噴出し、レイラの氷を弾き飛ばした。その衝撃波がレイラを直撃する。レイラの体が後方に押し戻される。足が滑った。体勢が崩れる。
魔獣が咆哮した。通路が震えた。
そして、風が変わった。
レイラの横を、影が通り過ぎた。
音はなかった。足音も、呼吸音も、バックパックが揺れる音すらも。ただ、空気だけが動いた。
藍色の鞘から、一振りの刀が抜かれた。
深い藍色。黒絹の柄。刃紋が薄暗い通路の中でかすかに光っている。
それは、レイラが初めて見る刀だった。
刃が一歩踏み出した。それだけだった。
横薙ぎ。一振り。名前のない一撃。
黒鱗の魔獣の体が、中央から二つに分かれた。断面からは血も出なかった。切り口があまりにも鋭利で、魔獣自身がまだ切られたことに気づいていないかのように、一瞬だけ立っていた。
そして、崩れた。
通路が静まり返った。
刃が刀を鞘に収めた。藍色の鞘に、黒絹の柄が吸い込まれるように戻る。一連の動作に、無駄はなかった。
レイラは地面に手をついたまま、その背中を見ていた。
氷眼が、全てを記録していた。魔素の流れ。斬撃の軌道。刃の体から放出された魔素の量。
数値は、前回——あのスタンピードの夜と、全く同じだった。
変わったのは、刃の態度だけだ。以前は隠していた。死角で動き、痕跡を消し、「偶然だ」と嘘をついた。
今は、レイラの目の前で抜いた。隠さなかった。
刃が振り返った。
「大丈夫か」
声は平坦だった。いつもの、面倒くさそうな声。しかし、その目はレイラをまっすぐ見ていた。以前のような、視線を逸らす曇りはなかった。
「……うん」
レイラは立ち上がった。膝が少し震えていた。恐怖ではない。
「……その刀」
レイラの視線が、藍色の鞘に留まった。
「師匠に貰った」
それだけ言って、刃は歩き出した。レイラが刃の背中を追う。藍色の鞘が、腰の左側で静かに揺れている。その隣に、もう一つの鞘がある。使い古された、地味な鞘。
「……なんで、古い方じゃなかったの」
刃が少し間を置いた。
「亀裂が入ってる。大技には使えない」
「……じゃあ、修理しないと」
「ああ。腕のいい刀鍛冶を探してる」
レイラは黙った。刃が、刀について自分から話すのは初めてだった。山に行く前の刃なら、はぐらかしていただろう。「別に」とか「大したことない」とか言って、話を切り上げていたはずだ。
今の刃は、答えた。短いけれど。面倒くさそうだけれど。嘘ではない言葉で。
「……ここは危ない。撤退しよう」
刃が言った。レイラは頷いた。
「……うん」
声が震えていた。泣きそうだった。嬉しくて。
あの人が、隠すのをやめた。目の前で、初めて刀を抜いた。その一振りは、スタンピードの夜と同じだった。何も変わっていない。あの時と同じ、圧倒的な一撃。
変わったのは、それを隠さなくなったこと。
レイラは刃の半歩後ろを歩きながら、藍色の鞘を見つめていた。
黎明。師匠から貰った刀。刃が、自分に教えてくれた名前。
氷眼のログに、今日の記録が刻まれていく。前回のデータと重なる数値。変わらない魔素量。変わらない斬撃速度。
変わったのは、態度だけ。
たった、それだけ。
それだけのことが、こんなにも嬉しいなんて、知らなかった。
三十階層に戻り、転移門から地上に出た。夕方の東京。ダンジョンの入口に設置された自動販売機で、刃が缶コーヒーを買った。ブラック。無糖。
レイラの分も買った。カフェラテ。甘いやつ。
「……覚えてたんだ」
「何が」
「私の好きなやつ」
「たまたまだ」
レイラが笑った。嬉しそうに。刃は缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。苦い。うまい。
「また行こう」
「ああ」
「今度は、もう少し深いところ」
「……面倒だな」
「知ってる」
レイラがスマートフォンを取り出して、メッセージを打った。画面は見えなかったが、絵文字が大量に並んでいるのは想像できた。
刃は缶コーヒーを飲み干した。空き缶をゴミ箱に投げた。入った。
面倒な日常が、また始まる。
しかし、もう隠さない。隠す理由がない。
左腰の藍色の鞘が、夕日を受けて静かに光っていた。
●作者の独り言
つい癖で数字表記にアラビア数字を使用し続けていたので、今回からはしっかり小説らしく、漢数字にしてみました。
ただ、横書きだと漢数字って意外と読みにくいんですよね……その内しれっとアラビア数字に戻るかもしれません。




