第55話「帰路」
山道を一人で下りている。
朝日は杉林の隙間から斜めに差し込み、地面に細い光の筋を落としている。空気が冷たい。吐く息が白い。足元の落ち葉を踏むたびに、乾いた音が響いた。
右手に刀袋。左手にリュックのストラップ。来た時と同じ山道。同じ落ち葉。同じ杉の匂い。何も変わっていない。
変わったのは、自分だ。
師匠の嘘。自分の才能。最強だという事実。
全て受け入れた。受け入れたが、不思議と何も変わらない。缶コーヒーは美味い。山から降りたら真っ先に買おう。ゲームの新作が溜まっている。面倒なことは相変わらず面倒だ。
変わらないものは、変わらない。そういうものだ。
しかし、一つだけ変わった。
隠れる理由がなくなった。
隠れなければならないと思っていたのは、「外にはお前より強い奴がゴロゴロいる」という師匠の言葉が根拠だった。その根拠がなくなった今、隠れ続けることに意味はない。
隠れることが目的になっていた。いつからか、それが習慣になり、習慣が性格になり、性格が人生になっていた。Fランクを装い、ポーターとして目立たず暮らし、面倒事を避け、平穏に生きる。それが自分だと思っていた。
違った。それは師匠の嘘の上に建てた砂の城だった。根拠が崩れたら、城も崩れる。当然のことだ。
では、これからどうする。
答えは出ている。師匠が言った。「胸を張って立て」と。守りたいものがあるなら、隠れていては守れない。
面倒だ。とてつもなく面倒だ。しかし、面倒だからやらない、という選択肢は、もうなくなった。
山道の傾斜が緩くなった。麓が近い。杉林が途切れ始め、代わりに雑木林が増えてきた。空が広くなる。
ポケットの中で、携帯が震えた。
一度、二度。三度。途切れなくなった。
電波が戻ったのだ。山を下りて麓の圏内に入った。一週間分の通知が、一気に押し寄せてきた。
刃は立ち止まり、携帯を取り出した。画面が通知で埋め尽くされている。
レイラから15件。
ガレスから3件。
ミラから7件。
ルーカスから2件。
セラ先生から1件。
レイラは15件。開いてみると、1日ごとに一通ずつ届いていた。
「気をつけて」
「師匠さんによろしくお伝えください」
「今日は何してますか」
「返信なくても大丈夫です」
「本当に大丈夫です」
「大丈夫ですが少し心配です」
「帰ったら連絡ください」
大丈夫じゃない。全く大丈夫じゃないことは、行間から滲み出ていた。残りの8件は確認する気になれなかった。
ガレスは3件。
「酒飲むぞ」
「いい店見つけた」
「帰ったら連絡しろ」。
簡潔で助かる。
ミラは7件中5件が論文のリンクと「読んでおいてください」のセットだった。どうやら残りの2件も解析データらしい。
研究者は休みを知らないらしい。Aランク探索者としての、あの不真面目さが少し懐かしい。
ルーカスは2件。「セキュリティ関連で確認事項があります」と「至急ではありません」。
至急じゃないなら、まとめて一件にしろ。
セラ先生は1件だけ。「学園の件、進展あり。帰京次第ご連絡を」。
短い。しかし「進展あり」の三文字が引っかかった。
一通り確認して、返信は後回しにしようとした。
その時、通知バーの一番上にニュース速報が表示された。
——『速報:黒剣商会元幹部ヴィクター、逃亡先で確保。協会との取引で「八雲刃に関する情報」を提供か』
刃の目が細くなった。
ヴィクター。黒剣商会の元幹部。合同開拓イベントで疑似スタンピードを仕掛けた男。あの一件の後、協会の捜査から姿を消していたはずだ。
それが確保された。しかも、取引材料として「八雲刃に関する情報」を提供しているという。
何の情報だ。合同開拓イベントの裏側か。裏処理の痕跡か。それとも、もっと別の何かか。
面倒なニュースが帰りを待っていた。
刃は携帯をポケットに戻した。山道を再び歩き始める。
麓の自動販売機が見えた。赤い筐体がありがたい。小銭を入れ、缶コーヒーのボタンを押す。無糖。いつもの銘柄。
プルタブを開け、口をつける。
うまい。
世界の何が変わろうと、缶コーヒーは変わらない。それだけで十分だ。
刃は缶コーヒーを片手に、バス停に向かって歩き始めた。帰ろう。
面倒な日常が待っている。




