第54話「もう一つの嘘」
最後の夜。
囲炉裏の前に、二人が座っている。師匠が一升瓶を開けた。新しい瓶だ。この一週間で何本目になるか、もう数えていない。
師匠が杯を二つ並べ、刃にも注いだ。
「飲め」
「……はい」
刃は杯を受け取った。
口をつけると冷たい。辛口の日本酒。ガレスと飲んだ居酒屋の酒とは全く違う。あの店の酒は洒落ていて、気取っていて、値段の割に量が少なかった。師匠の酒は質素だ。銘柄も知らない地酒。しかし、のどを通った後に残る余韻が深い。
山の夜は静かだった。杉林が消えた分、風が直接小屋に当たるようになった。板壁が時折きしむ。囲炉裏の薪が爆ぜる音が、その隙間に入り込む。
「……うまいですね」
「当たり前だ。俺が選んだ酒だ」
師匠が杯を一気に干し、すぐにもう一杯注いだ。飲むペースが速い。いつものことだが、今夜は少し違う。酔おうとしている、のではない。酔いたくない何かを、酒で押さえ込もうとしている。そういう飲み方だった。
しばらく、二人は無言で飲んだ。囲炉裏の火が揺れている。師匠の横顔が、炎に照らされて明滅する。白髪が赤く染まり、灰色の瞳に火が映っている。
「……刃」
師匠が口を開いた。声が低い。酒のせいではない重さがある。
「嘘はもう一つあった」
刃の手が止まった。杯を持ったまま、師匠を見つめた。
「……まだあるんですか」
「最後だ」
師匠が一升瓶を傾けた。杯に酒を注ぐ。しかし、飲まなかった。杯を手に持ったまま、囲炉裏の火を見つめている。
「これは、今は言えない」
「……言えない」
「お前の準備ができた時に話す」
刃は黙った。師匠の横顔を見つめている。囲炉裏の光に照らされた師匠の表情は、読めなかった。後悔でも苦痛でもない。覚悟でもない。もっと深い場所にある何か。長い年月をかけて沈殿した、名前のない感情。
「準備?」
「お前がダンジョンの最深部に辿り着いた時だ」
刃は眉をひそめた。ダンジョンの最深部。その言葉が、頭の中で反響した。
「師匠。ダンジョンの最深部は、まだ人類の誰も到達していません」
「ああ。誰も到達していない」
「それなのに、そこに……俺の『何か』がある、と」
「答えがある」
師匠が杯を干した。
「お前が何者なのか。なぜお前を拾った当時、5歳で俺の全盛期を超える才能を持っていたのか。なぜ俺がお前を拾ったのか。その全ての答えが、最深部にある」
刃は杯を膝の上に置いた。囲炉裏の火が、ゆらゆらと揺れている。
自分が何者なのか。考えたことがなかった。師匠に拾われ、山で育ち、東京に行き、Fランクのポーターとして暮らしていた。それが全てだった。それ以上の問いを持つ必要がなかった。
しかし師匠は、その問いの答えを知っている。知っていて、「今は言えない」と言う。
「……急がなくていいんですね」
「急ぐ必要はない。お前のペースでいい」
師匠が一升瓶を傾けた。もう一杯。今度はゆっくり飲んだ。
「ただし」
師匠が刃を見た。灰色の瞳に、囲炉裏の火が揺れている。
「逃げるのも、隠れるのも、もうやめろ」
静かな声。しかし、一言一言に重みがある。
「お前には守りたいものがあるんだろう。なら、胸を張って立て。最強の刃が隠れていたら、守れるものも守れない」
刃は何も言えなかった。師匠の言葉が胸に落ちていく。20年間、師匠に言われた全ての言葉の中で、最も重い一言だった。
「隠れろ」と言ったのは師匠だ。「目立つな」「謙虚に生きろ」と教えたのも師匠だ。その師匠が、今度は「胸を張って立て」と言っている。
矛盾しているようで、矛盾していない。あの頃は隠れる理由があった。今は、隠れる理由がなくなった。それだけのことだ。
「……分かりました」
刃は杯を持ち上げ、残りの酒を飲み干した。辛い。しかし、温かい。
「……もう一杯いただけますか」
師匠が黙って注いだ。二人は朝まで飲んだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
刃は荷物をまとめた。リュックに着替えを詰め、二振りの刀を刀袋に収める。来た時よりも重い。黎明の重みが増えた分だ。それだけのものを、今ここから持ち帰る。
縁側に出ると、師匠がいた。着流しにサンダル。いつもの姿。いつもの場所。13年間、刃が出発する時はいつもここに立っていた。東京に行く時も、ここから見送ってくれた。
「……師匠。また来ます」
「来なくていい。お前には帰る場所がある」
「それでも来ます」
刃は少し間を置いた。
「今度は、連れてきたい人がいるから」
師匠の眉が動いた。わずかに。しかし、確かに。
「……女か」
「……まあ、そんなところです」
「……ほう」
師匠の口元が、微かに緩んだ。笑ったのかもしれない。師匠なりの笑い方で。
「面倒な女を連れてくるなよ。俺は静かに暮らしたい」
「残念ですが、多分、面倒です」
「……やっぱり来なくていい」
刃は小さく笑った。リュックを背負い直し、山道に一歩を踏み出した。
背中に、師匠の声が届いた。
「刃」
振り向いた。師匠が縁側に立っている。朝の光を背負って、逆光の中に師匠の姿がある。白髪が朝日に銀色に輝いている。
「強くなれ。もっと」
短い言葉。しかし、その一言に全てが込められていた。13年間「基礎をやれ」としか言わなかった師匠が、初めて「強くなれ」と言った。
刃は深く頭を下げた。
「……行ってきます」
師匠は何も言わなかった。
刃は山道を歩き始めた。振り返らなかった。振り返ったら、もう少しここにいたくなる。それでは駄目だ。帰る場所は、ここではない。ここはもう、「帰る場所」ではなく「いつでも戻れる場所」だ。
帰る場所は東京にある。面倒な奴らが待っている。面倒なことが山ほど溜まっている。面倒な日々が待っている。
しかし、手に提げた刀袋が、歩くたびに静かに揺れていた。来た時より重い。その重みが、背中を押してくれている。
山の朝は冷たかった。しかし、空は晴れていた。




