第51話「何のために強くなったのか」
4日目の朝。
目が覚めた時、小屋の中はまだ薄暗かった。障子の向こうから差し込む光が白い。昨日までと違う光だ。雲が低いのか、空気が湿っている。
隣の部屋から物音はない。師匠はまだ寝ているのか。昨日の夜、一升瓶を3本空けた。二日酔いで動けないのかもしれない。
刃は布団の上に座ったまま、天井を見つめた。
昨夜のことを、考えている。
——「お前には才能がない」。嘘だった。全部。
師匠の声が、まだ耳に残っている。囲炉裏の火に照らされた師匠の顔。灰色の瞳の奥に見えた後悔と覚悟。震える手。一瞬だけ潤んだ目。
怒ってはいない。それは本当だ。師匠が嘘をついた理由も、その嘘が刃を守るためだったことも、理解している。
しかしこれまでの日々が、一夜で塗り替えられた。
「才能がない」と信じて振り続けた素振り。「最弱だ」と信じて隠れ続けた日々。「外にはヤバい奴がゴロゴロいる」と信じて謙虚に生きた2年間。全てが、嘘の上に建てられた人生だった。
嘘の上に建てられた人生——しかし、その人生は壊れていない。嘘が基礎になっていても、その上に積み上げたものは本物だった。毎日の素振りは本物だった。東京での日々も本物だった。
師匠の手紙の問い。
——『お前は何のために強くなったのか』
昨夜は答えられなかった。今夜はどうだろう。
刃は布団を畳み、ジャージに着替えた。
縁側に出ると、師匠がいた。
すでに起きている。着流しにサンダル。一升瓶はない。珍しく素面だ。庭の方を見ている。背中が、いつもより小さく見えた。
刃は師匠の隣に腰を下ろした。縁側の板が冷たい。山の朝は、3月でもまだ寒い。
「……師匠」
「起きたか」
師匠は振り向かなかった。庭の向こうの杉林を見つめている。
「……素振りは」
「今日はいい」
刃は少し驚いた。師匠が素振りを免除するのは初めてだ。13年間、一度もなかった。雪の日も。熱を出した日も。肋骨が折れた翌日も。師匠は必ず「起きろ。素振りだ」と言った。
今日はそれがない。
つまり——今日は、素振りよりも大事なことがある。
「手紙に書いた」
師匠が言った。低い声。感情がない。しかし、どこか——覚悟のある声だった。
「考えてきたか」
刃は黙った。
「『お前は何のために強くなったのか』」
師匠の問い。手紙に書かれていた一行。東京から長野まで、新幹線の中で考えていた。山道を歩きながら考えていた。素振りをしながら考えていた。師匠の嘘を聞いた後も——ずっと。
「……考えました」
「答えは出たか」
「出ました」
師匠が初めて、刃の方を見た。灰色の瞳。今朝の師匠の目には、昨夜のような後悔はなかった。代わりに——静かな期待があった。
「言え」
一言。短い。しかし、その一言に13年分の重さがあった。
刃は縁側から庭を見つめた。杉林の向こうに、空が広がっている。曇り空。しかし、雲の切れ間から光が差し込んでいる。
考える。
13年間、毎日1万回の素振りを振った。なぜか。
師匠に言われたからだ。「才能がないから基礎だけやれ」と言われたから。それだけだった。理由なんてなかった。振れと言われたから振った。走れと言われたから走った。強くなれとは一度も言われなかった。ただ、基礎をやれと。
東京に行った。探索者になった。Fランクのポーターとして、隠れて暮らした。それも師匠に言われたからだ。「目立つな。隠れろ。謙虚に生きろ」。その通りにした。
しかし——東京で、変わった。
レイラが追いかけてきた。「あなたの強さを教えてください」と、命懸けで深層まで降りてきた。面倒だった。迷惑だった。しかし、あの目は本物だった。
ガレスが「味方だ」と言った。バーで酒を飲みながら、斧のグリップを見抜いた刃に、初めて壁を下ろした。
ミラがキノコの裏で笑った。「追及はしない。ただ隣にいたいだけ」と。面倒な女だ。しかし、あのハーブティーは悪くなかった。
ルーカスが「近くにいたいんです」と泣きそうな顔で言った。
面倒な奴ら。面倒なことを言う奴ら。面倒に待っている奴ら。
しかし、東京を発つ前夜、レイラが言った。「早く帰ってきて」と。刃は「おう」と一言だけ返した。
その一言が——自分でも驚くほど、自然に出た。
帰る場所ができた。
待っている人ができた。
守りたいものが——できた。
「……師匠」
刃は口を開いた。
「答えが見つかりました。13年前には、なかった答えです」
師匠は黙っている。灰色の瞳が、刃を見つめている。
「——守りたいものがある」
刃の声は、静かだった。力みもなく、気負いもなく、ただそこにある言葉を口にしただけだった。
「守りたいものを守ること。それが、俺が強くなった理由です」
山の空気が、静まった。鳥の声が遠くなり、木の葉の揺れが止まった。刃の言葉が、山全体に染み込んでいくような沈黙。
「……後づけですけど」
刃が付け足した。少しだけ、照れくさそうに。
師匠は何も言わなかった。
長い沈黙。囲炉裏の中で薪が崩れる音が、かすかに聞こえた。
師匠の肩が——震えた。
低い笑い声。腹の底から絞り出すような、短い笑い。ガレスがバーで笑った時と同じ種類の笑い方だった。感情を押し殺そうとして、押し殺しきれなかった。そういう笑い。
「……後づけでいい」
師匠が言った。声が、かすれていた。
「理由なんて、後から見つけるものだ」
師匠が空を見上げた。曇り空。しかし、雲の切れ間から日差しが差し込み始めている。師匠の白髪が、朝の光に照らされて銀色に輝いた。
「お前は——正しく育った」
師匠の声が、震えていた。押し殺そうとしているが、隠しきれていない。
「嘘をついた俺が言うのもおかしいが」
師匠が刃を見た。灰色の瞳に、光が宿っている。後悔ではない。苦痛でもない。
——誇り。
13年間、嘘をつき続けた師匠の目に浮かんでいたのは、弟子への純粋な誇りだった。
「お前は、俺が思っていた以上に——まっすぐに育った」
刃は何も言えなかった。
師匠のこの言葉が何なのか——分かった。
卒業証書だ。
13年間の修行の、嘘の、苦労の、全ての——卒業証書。師匠から弟子への、たった一言の。
言葉は返せなかった。返す言葉が見つからなかった。代わりに——刃は頭を下げた。深く。額が膝につくほど深く。
「……ありがとうございます。師匠」
師匠は何も言わなかった。
しばらくして、頭の上に手が置かれた。ごつい手。大きな手。刃を5歳の時に沢から引き上げた手。13年間飯を作ってくれた手。素振りを見守り続けた手。
その手が、一度だけ——刃の頭を、軽く叩いた。
「……飯にするぞ。腹が減った」
師匠が立ち上がった。着流しの裾を払い、小屋の中に入っていく。
刃は頭を上げた。縁側に座ったまま、師匠の背中を見つめた。
師匠の背中が——昨日より、小さく見えた。いや。小さくなったのではない。
刃が——大きくなったのだ。
曇り空の隙間から、朝日が差し込んだ。山全体が、淡い金色の光に包まれた。
新しい朝だった。




