第50話「師匠の嘘」
3日目の夜。
囲炉裏の火が揺れている。外は暗い。風がない。山全体が静まり返っていて、囲炉裏の薪が爆ぜる音だけが、小屋の中に響いている。
師匠が一升瓶を開けた。新しい一升瓶だ。3日間で3本目になる。この人の酒量は昔から尋常ではなかった。
刃の杯にも注がれた。透明な液体が木の杯に揺れる。辛口の日本酒。ここ3日間、毎晩飲んでいる味だ。
師匠が杯を傾けた。一口。二口。三口で空にし、すぐに次を注ぐ。
沈黙。
囲炉裏の火が赤く燃えている。炭になりかけた薪の表面が、ゆっくりと崩れていく。灰が舞い上がり、煙と一緒に天井の隙間から外へ出ていく。
2日間の鍛錬で、刃の体は山の空気に馴染みつつあった。肩の力が抜け、呼吸が深くなった。素振りの精度も、東京に旅立つ前の水準に近づいている。師匠が言った「体の毒を抜け」という言葉の意味が、ようやく分かった。
師匠が3杯目を空にした。一升瓶を膝の横に置き、囲炉裏の火を見つめた。
長い沈黙の後——師匠が、口を開いた。
「……刃」
名前を呼ばれた。
師匠が刃の名前を呼ぶのは珍しい。普段は「おい」か「お前」だ。名前を呼ぶのは、よほど真剣な時だけ。刃は杯を膝の上に置き、師匠を見た。
「お前に、嘘をついていた」
火が爆ぜた。赤い火の粉が舞い上がり、二人の影を壁に揺らした。
「ずっと——お前が、ここに来た時から、ずっとだ」
刃は黙っていた。
分かっている。手紙で知った。「お前は才能がない」——それが嘘だったと。しかし、師匠の口からそれを聞くのは初めてだ。
「『お前には才能がない』」
師匠が、刃に言い続けた言葉を繰り返した。
「——嘘だ。全部」
囲炉裏の火が揺れた。薪が崩れ、新しい炎が立ち上がった。
師匠の灰色の瞳が、火に照らされて琥珀色に見えた。その瞳の奥に、刃が見たことのない感情がある。後悔。苦痛。そして——覚悟。
「お前の才能は——俺が見てきた全ての人間の中で、最も高かった」
声が低い。師匠は普段、感情を声に乗せない。しかし今夜の声には——震えがあった。微かな、しかし確かな震え。
「お前が初めて剣を持った日のことを覚えているか」
「……5歳の時。師匠が木刀を握らせてくれた日ですか」
「そうだ。あの日、お前に振り方を一度だけ見せた。一度だけだ。それで——お前は振った」
師匠が一升瓶を傾けた。杯からこぼれそうなほど注ぎ、一気に飲み干した。
「風が起きた。木刀の素振りで——風が。庭の落ち葉が全部吹き飛んだ。裏の畑の作物が倒れた。沢の水面が波立った」
刃は覚えていない。5歳の記憶は曖昧だ。木刀を持ったことは覚えている。しかし、風が起きたことは——記憶にない。
「5歳のガキの木刀の素振りで、あの風圧だ。俺は——震えたよ」
師匠が低く笑った。笑いの中に、温度がなかった。
「俺の全盛期と同じだった。いや——超えていたかもしれない。5歳の子供が、たった一度手本を見ただけで、第一世代の最強と並んだ」
火が爆ぜた。大きな音だった。しかし、師匠は視線を火に戻さなかった。灰色の瞳が、まっすぐ刃を見ている。
「——怖かった」
その一言が、小屋の空気を変えた。
師匠が「怖い」と言った。この人が。山を一振りで揺るがし、目を開けただけで世界の空気を変える人が。
「俺は長く生きすぎた。ダンジョンが現れた黎明期から、第一世代として戦い続けた。多くの天才を見た。多くの天才が壊れるのを見た」
師匠の声が、囲炉裏の火の音に溶けていく。
「才能に溺れた奴。力に酔った奴。自分が最強だと信じて、人を壊した奴。壊した挙句に——自分も壊れた奴。全員、才能があった。全員、俺より弱かった。それでも壊れた。才能がそいつらを壊したんだ」
師匠が一升瓶を手に取った。しかし、注がなかった。瓶を握ったまま、膝の上に置いた。
「お前は——そいつらの誰よりも才能があった。桁が違った。5歳の時点で、歴代の天才の到達点を超えていた。そんなガキが、自分の力を自覚したら——どうなる」
「……」
「答えは決まっている。壊れる。力に溺れ、人を壊し、自分も壊れる。俺が見てきた天才の末路を、お前も辿ることになる」
師匠の手が、一升瓶の首を強く握りしめた。
「だから嘘をついた」
声が、硬かった。
「『お前には才能がない。外にはヤバい奴がゴロゴロいる。だから隠れろ。謙虚に生きろ』。全部、嘘だ」
刃は黙って聞いていた。囲炉裏の火を見つめている。師匠の声を、一言も逃さないように。
「才能を自覚させないまま、基礎だけを叩き込んだ。技は教えなかった。応用も教えなかった。ただ、毎日1万回の素振りだけをやらせた。才能に頼らせない。力に溺れさせない。基礎だけを、愚直に、13年間」
師匠が顔を上げた。
「結果は——半分成功し、半分失敗した」
火が揺れている。二人の影が壁の上で踊っている。
「お前は謙虚に育った。力に溺れなかった。人を壊すこともなかった。Fランクのポーターとして、隠れて、静かに生きた。そこまでは、俺の狙い通りだ」
師匠が、初めて目を伏せた。
「しかし……隠れすぎた」
その声に、苦みがあった。
「平穏を求めすぎて、自分の強さの意味を考えることを放棄した。何のために強くなったのか。何を守るために、その力があるのか。お前はそれを、考えることすらしなかった。そうさせたのは、俺だ」
長い沈黙が落ちた。
囲炉裏の火が燃えている。薪が崩れ、灰が舞い上がる。天井の隙間から、星が見えた。
刃は杯の中の酒を見つめていた。透明な液体に、囲炉裏の火が映っている。赤い。揺れている。
師匠の言葉が、一つ一つ、腹の底に沈んでいく。怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ——重かった。13年分の重さが、そこにあった。
才能がない、は嘘だった。最弱だ、は嘘だった。外にヤバい奴がいる、は嘘だった。全て、師匠が刃を守るためについた嘘だった。
刃は杯を持ち上げた。酒を一口飲んだ。辛い。喉が焼ける。しかし——今夜の酒は、いつもより少しだけ甘く感じた。
「……怒ってないです」
刃が言った。静かな声だった。
「怒っていい」
師匠が即座に返した。
「怒るような嘘じゃないです」
「怒れ。殴ってもいい。お前の人生を歪めた。俺はそれだけのことをした」
「……師匠なりに、俺を守ろうとしてくれた。それは分かります」
刃は囲炉裏の火を見つめた。
「師匠が嘘をつかなかったら、俺はどうなっていたか分からない。才能があると知って、力に溺れて、壊れていたかもしれない。師匠が見てきた天才の末路を、俺も辿っていたかもしれない」
師匠は何も言わなかった。
「俺は今、壊れていない。隠れすぎたかもしれないけど——壊れてはいない。それは、師匠が嘘をついてくれたからです」
沈黙。
囲炉裏の火が爆ぜた。小さな音。しかし、静寂の中ではやけに大きく聞こえた。
師匠が一升瓶を持ち上げた。杯に注ごうとした。しかし——手が、止まった。
瓶の口が、かすかに震えている。
師匠の手が——震えていた。
刃は見た。師匠の灰色の瞳が、火の光を反射して——潤んでいた。ほんの一瞬。瞬きひとつ分の時間。しかし、確かに。
師匠はすぐに一升瓶を傾け、杯を溢れるほど満たした。一気に飲み干す。
「……飲みすぎですよ、師匠」
「うるさい。黙って飲め」
師匠が刃の杯にも注いだ。荒っぽい手つきで。こぼれた酒が、囲炉裏の灰に落ちて、小さく音を立てた。
二人で飲んだ。黙って。何も言わずに。
火が燃えている。薪が崩れていく。夜が深くなっていく。
嘘の正体は知った。しかし——師匠の問いには、まだ答えていない。
『お前は何のために強くなったのか』
その答えは、まだ見つかっていない。
明日、考える。今夜は——ただ、師匠と飲む。それだけでいい。
一升瓶が空になった。3本目。師匠が縁側の方を見た。
「……もう1本あったはずだ」
「4本目はさすがにやめてください」
「うるさい」
師匠は立ち上がらなかった。酔ったのか、立つのが面倒になったのか。そのまま囲炉裏の前に横になった。腕を枕にして、目を閉じる。
刃は師匠の上に毛布をかけた。師匠は何も言わなかった。すでに寝息が聞こえている。
嘘つきの師匠。不器用な師匠。13年間、弟子を守るためだけに嘘をつき続けた人。
刃は囲炉裏の残り火を見つめながら、杯の最後の一口を飲み干した。
(……怒ってないのは、本当だ。でも——)
少しだけ、泣きそうだった。
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