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底辺探索者の手加減極意 〜最強の師匠に育てられた俺はソロでダンジョンを攻略したいだけなのに、偶然トップ配信者を助けたら世界中から注目されてしまった〜  作者: らいお
伍ノ太刀 継承の山

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第49話「素振り」

 山小屋の朝は早い。

 東京のアパートでは目覚ましが鳴るまで布団にくるまっていた。しかしここでは、日の光よりも先に声が来る。


「起きろ。素振りだ」


 襖の向こうから、平坦な声。感情の欠片もない。しかし有無を言わせない響きがある。刃の体は声を聞いた瞬間、反射的に動いていた。13年間で刻まれた条件反射だ。布団を跳ね除け、ジャージの上下に袖を通す。

 窓の外はまだ暗い。東の空がわずかに白み始めているが、山の端に太陽は見えない。気温は氷点下に近い。吐く息が白い。防寒着は着ない。どうせすぐに暑くなる。

 古びた日本刀を手に取り、縁側に出た。


 師匠がすでに庭に立っていた。

 着流しにサンダル。昨日と同じ格好だ。手には何も持っていない。腕を組み、こちらを見ている。灰色の瞳が、刃の全身を値踏みするように走った。


「遅い」

「……おはようございます」


 返事はなかった。師匠は庭の中央を顎で示した。

 刃は定位置に立った。13年間、毎日同じ場所で素振りをしていた。地面には当時の足跡の名残がある。踏み固められた土が、他の場所より少しだけ低くなっている。

 日本刀を鞘から抜いた。刃渡り二尺三寸五分。古式の玉鋼。刀身には細かい傷が無数にある。2年間の東京での戦闘の痕だ。しかし、刃は研ぎ直していない。切れ味は変わらない。鈍らないのだ、この刀は。獲物に対して、刃筋が通っている証拠だろう。


 右足を半歩前に出す。左足は自然に開く。正眼の構え。

 呼吸を整える。山の空気が肺を満たす。冷たくて、澄んでいて、何も混じっていない。東京の空気とは密度が違った。


「始め」


 師匠の短い号令。

 刃は刀を振り下ろした。

 一振り。空気を裂く音が、静かな山に響く。

 二振り。三振り。同じ軌道。同じ速度。同じ角度。寸分の狂いなく、縦一文字に刀を落とし、元の位置に戻す。これが素振りだ。基礎中の基礎。師匠が教えた唯一の技術。刃の剣の全ては、この一振りの反復から成り立っている。

 100本。200本。300本。

 太陽が山の端から顔を出した。木漏れ日が庭に差し込み、刃の刀身が朝日を反射して光った。

 500本。額に汗が滲み始める。呼吸は乱れない。体が覚えている。2年間のブランクなど、この体にとっては誤差だ。

 700本。800本。900本。

 1000本——。


「止まれ」


 師匠の声が飛んだ。

 刃はぴたりと止まった。刀の切っ先が地面の3センチ上で静止している。振り下ろしの最下点。ここで止めるのが、師匠の教えだ。


 師匠が近づいてきた。腕を組んだまま、刃の前に立つ。灰色の目が、刀を見ている。刀ではなく——刃の体を。肩。腕。腰。足首。全てを一瞬で読み取っている。


「……下手になったな」


 短い言葉。しかし、重かった。


「力が入りすぎてる。肩が上がってる。足首が硬い」


 師匠が指を立てて数え始めた。


「腰の回転が早すぎる。手首で振ってる。それと——呼吸が浅い。東京で余計なこと考えすぎたんだろう。雑念が体に出てる」


 刃は黙って聞いた。反論はない。師匠が言うなら、その通りなのだ。

 東京で魔獣を斬りすぎた。深層で100体を相手にした時、速度と効率を優先した。「斬る」ことに意識を向けすぎた。その癖が、素振りに滲んでいる。

 実戦は基礎を濁らせる。師匠がずっと言っていたことだ。


「刀を貸せ」


 師匠が手を差し出した。刃は刀を鞘に収め、差し出した。

 師匠が受け取り、鞘から抜く。古びた刀身を一瞥する。


「……よく使い込んだな。こいつも」


 それが褒め言葉なのか嘆きなのか、刃には判断がつかなかった。

 師匠が構えた。

 正眼。刃がさっきまでやっていたのと同じ構えだ。同じ立ち位置。同じ角度。何もかも同じ——はずなのに。


 空気が変わった。


 師匠が構えただけだ。刀を持ち上げて、正眼に据えただけ。それだけなのに、師匠の体が——巨大に見えた。杉の木よりも大きく、山そのものと一体化したような錯覚。足元の地面が、師匠の存在を中心に沈み込んでいるような重力の歪み。

 刃は思わず半歩退がりそうになった。13年間近くにいた師匠だ。この圧は知っている。しかし2年ぶりに間近で浴びると、呼吸が詰まるほどだった。


 師匠が、振り下ろした。


 音がなかった。

 刃の素振りでは「シュッ」と空気を裂く音がする。師匠の一振りには、音がない。速すぎて空気が反応できていない。音が追いつかない。

 代わりに——。


 ドォン……ッ!!


 衝撃波。

 師匠の刀が振り下ろされた直線上の空気が、物理的に圧縮され、弾けた。10メートル先の地面が爆発するように抉れ、土と石と木の根が吹き飛んだ。風圧が遅れて襲いかかり、刃のジャージが激しくはためく。

 周囲の杉の木が大きく軋み、枝から葉が一斉に散った。遠くの沢で水が跳ねる音が聞こえた。鳥が数十羽、悲鳴のような声を上げて飛び立っていった。

 たった一振り。素振り一回。魔素は使っていない。純粋な「振り下ろし」の風圧だけで——山の空気が塗り替えられた。


 静寂が戻ってきた。

 師匠は元の姿勢で立っていた。何事もなかったような顔で、刀を鞘に収め、刃に返した。


「——これが素振りだ」


 刃は刀を受け取った。手が震えていた。恐怖ではない。

 畏怖だ。

 東京で「最強」だと言われ始めていた。レイラが目を丸くし、ミラが「化け物」と呟き、ルーカスが言葉を失った。深層でBランク以上の魔獣を一撃で斬り伏せ、Aランクパーティが半日かかるフロアを1時間で制圧した。

 しかし——師匠の前では、全てが霞む。

 師匠のたった一振りに比べたら、自分が東京でやってきたことなど、子供の真似事だ。


(……やっぱり、俺は最弱だ)


 そう思った。素直に、自然に。師匠が「才能がない」と言ったことが嘘だと分かっていても——この一振りの差は、本物だった。


「……分かりました。俺の素振りは、まだまだです」

「まだまだじゃない。ゴミだ」


 師匠が背を向けて縁側に歩いていく。一升瓶を手に取り、杯に注いだ。朝から酒を飲む。この人は昔からそうだった。


「……師匠」


 刃は刀を握ったまま、口を開いた。聞かなければならないことがある。手紙のこと。嘘のこと。これまで隠されてきた真実。そのために、東京から来た。


「まだだ」


 師匠は振り向かなかった。


「お前の体が、まだ東京に毒されている。なまった体で聞いたら、受け止めきれん」


 杯を傾けながら、低い声で言った。


「もう1日待て。体の毒を抜け。基礎を取り戻すんだ。話はそれからだ」

「……分かりました」


 刃は反論しなかった。師匠がそう言うなら、そうなのだ。13年間、ずっとそうやって従ってきた。今さら変える理由もない。



◇ ◇ ◇



 それからの1日は、地獄だった。

 午前中は素振り。ひたすら縦に振る。1000本ごとに師匠の声が飛ぶ。「肩が上がってる」「腰が回りすぎだ」「呼吸が浅い」。矯正され、修正され、叩き直される。合計1万本。

 午後は走り込み。山道を重い荷物を背負って10キロ走る。東京のアスファルトとは違う。不規則な傾斜、木の根、石。足首を捻りそうになること数十回。東京で戦闘ばかりしていた体に、山の道は容赦なかった。

 夕方は薪割り。ただし斧ではなく、日本刀で。太い丸太を一刀で断つ。刃筋が少しでもずれれば刀が木に食い込んで止まる。完璧な角度と速度で振り下ろさなければ、丸太は割れない。基礎の応用だ。素振りと同じ縦の軌道で、実際に対象を斬る。

 日が沈む頃には、刃の体は限界に達していた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、指の感覚が曖昧になっている。汗と泥にまみれたジャージは元の色が分からない。

 沢の水で体を洗った。冷たいなんてものではない。氷だ。3月の山の沢水は、骨まで凍る。しかし、この冷たさも知っている。13年間、毎日浴びていた。シャワーなどない。風呂もない。沢が全てだ。

 縁側に倒れ込んだ。指一本動かしたくない。空を見上げると、星が出始めていた。東京では見えない数の星が、山の空に散らばっている。


「飯だ」


 囲炉裏の方から師匠の声がした。

 刃は這うようにして小屋に入った。

 囲炉裏に鍋がかかっている。師匠が作った鍋。具材は畑の野菜と、どこから獲ってきたのか分からない山鳥の肉。汁は味噌ベース。湯気が囲炉裏の灯りに照らされて、白く立ち上っている。

 椀に山盛りによそわれた鍋を、無言でかき込んだ。

 熱い。しょっぱい。肉の脂が濃い。野菜は柔らかく煮込まれていて、箸を入れるだけで崩れる。

 ——うまい。

 昨日、自分が作った味噌汁とは比べ物にならない。素材は同じ山の恵みなのに、味の深さが違う。出汁の取り方なのか、火加減なのか、それとも単純にーー腕の差なのか。


「……師匠の方が、飯うまいですね」

「当たり前だ」


 師匠が鍋をつつきながら言った。


「俺は天才だからな。何をやらせても一番だ」


 冗談なのか本気なのか分からない口調だった。しかし——事実だった。剣も、飯も、薪割りも、畑も。この人は何をやっても完璧なのだ。

 刃は黙って2杯目をよそった。3杯目もいった。師匠も4杯食べた。鍋は空になった。

 食後、師匠が一升瓶を傾けた。刃の杯にも注がれる。昨日と同じ辛口の日本酒。

 囲炉裏の火を見つめながら、黙って飲んだ。

 体中が痛い。筋肉の全てが疲労を訴えている。しかし、不思議と——悪い気分ではなかった。この痛みを知っている。13年間、毎日感じていた痛みだ。東京では一度も感じなかった。

 明日。師匠が、話すと言った。

 手紙のこと。嘘のこと。「何のために強くなったのか」という問い。

 刃はまだ、答えを見つけていない。

 しかし——体は正直だった。1日の鍛練で、東京の「毒」が少しだけ抜けた気がする。肩の力が抜け、呼吸が深くなった。素振りの感覚が、ほんの少しだけ——山にいた頃に戻りつつある。


(明日、か)


 杯を空にして、刃は目を閉じた。

 囲炉裏の火が爆ぜる音が、遠くに聞こえた。

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