第48話「ただいま、師匠」
山道の最後の坂を登りきると、視界が開けた。
小さな平地。山の中腹に、自然が作ったように——しかし、明らかに人の手が入った空間があった。杉の大木に囲まれた、100坪ほどの敷地。中央に木造の小屋が建っている。築数十年。壁板は風雨に晒されて灰色に変色し、屋根は苔むしている。しかし、傾いてもいないし、崩れてもいない。手入れされている証拠だ。
小屋の横に畑。大根、白菜、ネギ。季節に合った野菜が整然と植えられている。その奥に薪小屋。薪が美しく積まれている。一本一本の太さが均等で、まるで定規で測ったようだった。師匠はこういう細かい作業が異常に上手い。
屋根の上にソーラーパネルが2枚。小屋の裏手から引かれた竹の樋が、沢の水を台所まで導いている。電気と水。文明との接点はそれだけだ。ガスはない。煮炊きは全て囲炉裏と薪ストーブ。テレビもない。ラジオが1台あったはずだが、師匠が「うるさい」と言って壊した記憶がある。
煙突から白い煙が上がっている。薪ストーブに火が入っている。3月の山の中はまだ寒い。
縁側に、人影があった。
着流し。サンダル。白髪の長い髪を無造作に束ねて、背にかけている。片手に一升瓶。縁側の板の上に横になり、一升瓶を腹の上に乗せたまま、目を閉じている。昼寝だ。
60代後半。顔には深い皺が刻まれているが、骨格は若い。体格は細身に見える。しかし、着流しの袖から覗く腕は——鋼だった。筋肉という言葉では足りない。長年の鍛錬が骨の髄まで染み込んだ体。動いていなくても、そこにあるだけで空気が——重い。
師匠。
刃の師匠。八雲 剛。13年間一緒に暮らしたが、刃は一度も名前で呼んだことがない。いつも「師匠」だった。
刃は縁側の前に立った。3メートルの距離。師匠の呼吸は穏やかで、規則正しい。深く眠っているように見える。
しかし——刃は知っている。この人は、寝ていても起きている。どんなに深い眠りの中でも、半径1キロの異変を感知する。刃が山道を歩き始めた時点で、とっくに気づいているはずだ。
師匠の目が開いた。
瞳は灰色。濁りのない、澄んだ灰色。しかし、その瞳が——刃を見た瞬間、空気が変わった。山全体が、一瞬だけ息を呑んだような感覚。鳥の声が途切れ、風が止まり、木の葉が揺れるのをやめた。
圧。
ただの視線なのに、視線そのものが重力のように刃の体を押している。これが師匠だ。目を開けただけで、世界の空気を変える存在。刃はこの「圧」を知っている。13年間、毎日浴びてきた。だから、耐えられる。しかし——久しぶりに浴びると、やはり重かった。
師匠が一升瓶を抱えたまま、起き上がった。
「……来たか。遅い」
刃は一瞬、何を言うべきか迷った。2年ぶりの再会。手紙の内容を問い詰めるべきか。嘘について聞くべきか。いや——それは後でいい。今は。
「……ただいま、師匠」
師匠の顔に、何の表情も浮かばなかった。頷きもしなかった。ただ、一升瓶のそばに置いてあったもう一つの杯を取り上げ、刃の前に置いた。酒が注がれた。透明な液体が、木の杯に揺れている。
もう一つの杯。最初から用意してあった。——刃が来ると分かっていたから。
それが、師匠なりの「おかえり」だった。
「飯はまだだ。自分で作れ」
「……はい」
刃はバックパックを縁側に下ろし、刀袋を立てかけた。小屋の中に入る。
匂いで分かった。変わっていない。木の匂い。囲炉裏の煤の匂い。乾いた藁の匂い。13年間嗅ぎ続けた匂いが、全部そのまま残っている。
土間の台所。竹の樋から沢の水が細く流れ落ちている。木の棚に調味料。味噌。塩。醤油。砂糖。酢。それだけだ。出汁は鰹節を自分で削る。師匠は市販の顆粒出汁を「あれは毒だ」と言って使わない。
裏の畑から、大根と白菜とネギを採ってきた。包丁は壁にかかっている。13年前に使っていたのと同じ包丁だ。刃に研ぎ痕がある。師匠が毎日研いでいるのだろう。
大根の味噌汁を作った。白菜の漬物を切った。飯を炊いた。薪ストーブの火加減を見ながら、鍋を置く。湯が沸くまでの時間、包丁をまな板に置いて、台所の窓から外を見た。夕暮れの山。杉の影が長く伸びている。
変わらない。何も変わっていない。東京での2年間が幻だったように、ここには時間が流れていなかった。
囲炉裏の前に膳を並べた。味噌汁。白飯。漬物。焼き魚は——冷蔵庫がないから出せない。川魚があれば焼いたが、今日は間に合わなかった。
師匠が縁側から入ってきて、あぐらをかいた。杯をもう一度満たし、飯を見た。
「……まずくなったな、お前の飯」
「前と同じ作り方ですけど」
「舌が都会に慣れたんだろう。堕落したな」
師匠は味噌汁をすすった。文句を言いながら、椀は空にした。白飯は3杯食べた。漬物も全部なくなった。
「……まずいって言ったのに全部食べるんですね」
「もったいないだろう。食い物を残す奴は、俺の弟子じゃない」
刃は小さく息を吐いた。変わっていない。この人は、13年前から——いや、たぶん生まれた時から、こうなのだろう。
食後。囲炉裏に薪を足した。3月の山の夜は冷える。師匠が一升瓶を傾け、刃の杯にも注いだ。日本酒。辛口。ガレスと飲んだ酒とは全く違う、荒々しくて力強い味だった。
二人は黙っていた。
師匠は酒を飲み、囲炉裏の火を見つめている。刃も酒を飲み、囲炉裏の火を見つめている。言葉はなかった。必要なかった。13年間、毎晩こうしていた。食後に囲炉裏の前に座り、師匠が酒を飲み、次に刃も飲み、火が消えるまで黙って過ごす。
囲炉裏の火が爆ぜた。赤い火の粉が舞い上がり、暗い天井に消えた。
師匠は何も聞かなかった。手紙のことも。東京のことも。レイラのことも。何も。
刃も何も言わなかった。聞きたいことは山ほどある。嘘のこと。才能のこと。師匠が本当は誰なのかということ。しかし——今夜ではない。今夜は、ただここにいる。それだけでいい。
一升瓶が空になった。師匠が立ち上がり、奥の部屋に消えた。
「布団はいつもの場所だ。寝ろ」
「……はい。おやすみなさい、師匠」
返事はなかった。奥の部屋から、布団を敷く音がした。
刃は囲炉裏の残り火を見つめながら、杯の最後の一口を飲み干した。辛い。苦い。しかし——温かかった。
13年ぶりの、師匠の隣で過ごす夜。
東京のアパートの布団より、この山小屋の煎餅布団の方が——よく眠れそうだった。




