第47話「山道」
東京駅の新幹線ホーム。朝7時。
刃はバックパックを背負い、日本刀を生絹の刀袋に固定した状態で、あさま号の自由席に座った。隣の席は空いている。
平日の朝だが、この時間帯の長野行きは出張客が多く、スーツ姿の男女がノートパソコンを開いている。窓際の座席にジャージ姿で刀袋を抱えた男が座っているが、周囲の乗客は誰も顔を上げなかった。それぞれ資料を読んだりキーボードを叩いたりと、自分の仕事に集中している。刃の存在は、単純に——興味を持たれていなかった。
窓の外を東京の街が流れていく。ビル。高架。コンビニ。やがてビルが低くなり、住宅が減り、田畑が広がり始めた。空が広い。東京では見えなかった空の色が、ここでは端から端まで見える。
1時間20分で長野駅に着いた。駅前のコンビニで缶コーヒーを2本買った。ブラック。1本はここで飲む。もう1本は山に持っていく。
駅前のバス停から山麓の集落まで、ローカルバスで40分。乗客は3人。刃と、買い物帰りの老婆と、釣り竿を持った中年の男。バスは山道をうねりながら登っていく。窓の外に杉林が迫り、空気が変わった。湿度が上がり、土の匂いがする。東京の空気とは別の世界だった。
終点の集落でバスを降りた。
小さな集落。家が5軒。商店が1軒。自動販売機が1台。それ以外には何もない。舗装道路はここで終わり、その先は未舗装の山道が森の中に消えている。
刃は山道を歩き始めた。
ここから師匠の小屋まで、徒歩で4時間。標高差は800メートル。一般人には厳しい山道だが、刃にとっては散歩と変わらない。
山道は細い。一人がやっと通れる幅で、両側から下草が迫っている。頭上は杉と広葉樹の枝が覆い、木漏れ日が地面にまだら模様を描いていた。足元は落ち葉と泥。最後に人が通った跡は——師匠のものだろう。サンダルの足跡が、薄く残っている。
歩きながら、記憶が浮かんできた。
——5歳。不思議な門を出たらこの山で、右も左もわからず遭難した。ダンジョン外に出現した魔獣に追われ、森の中を走り続けた。足を滑らせ、崖から落ち、沢に流された。意識が朦朧とする中で——誰かの手が、自分を引き上げた。
「おい、ガキ。生きてるか」
「……だれ」
「通りすがりの暇人だ。腹は減ってるか」
「……へった」
「そうか。飯を作ってやる。ついてこい」
師匠との出会いは、それだけだった。名前も聞かなかった。ただ、飯を食わせてもらい、屋根の下で眠らせてもらった。翌朝、師匠が言った。
「帰る場所はあるか」
「ない」
「そうか。なら、ここにいろ。ただし——毎日素振り1万回だ。飯はそれが終わってから」
——8歳。素振り1万回が日課になっていた。腕が棒のように痺れ、指の感覚がなくなっても、師匠は「あと3000本」と言った。泣いても許されなかった。しかし、終わった後の師匠の飯は——世界で一番うまかった。山菜の天ぷら。味噌汁。白飯。それだけで、明日もまた振ろうと思えた。
——12歳。師匠が初めて自分の素振りを見せてくれた日。一振りで、目の前の岩が——消えた。斬ったのではない。風圧で、粉砕された。刃は震えた。恐怖ではなかった。あんな一振りができるようになりたいと、心の底から思った。
「師匠、俺もあんな風に振れるようになりますか」
「無理だな。お前には才能がない」
「……」
「だから、基礎だけやれ。才能がない奴にできるのは、基礎を磨くことだけだ。1万回を2万回にしろ」
——15歳。体術の訓練中に師匠の一撃を受けて、3日間寝込んだ。肋骨が2本折れた。師匠は「悪かった」とは言わなかった。代わりに、3日間ずっと枕元にいて、粥を食べさせてくれた。
「……師匠、手加減してください」
「してた。お前が受けきれなかっただけだ」
「……それ、手加減って言いませんよ」
「うるさい。寝ろ」
刃は黙って粥を食べた。師匠の粥は、いつも少しだけ塩が多かった。
——18歳。師匠が言った。
「お前は外の世界に出ろ。東京に行け。探索者として登録しろ。ただし——目立つな。隠れろ。お前は最弱だ。外にはお前よりヤバい奴がゴロゴロいる。謙虚に、静かに暮らせ」
刃はその言葉を信じた。疑うことすら思い浮かばなかった。師匠が言うなら、そうなのだろう。自分は才能がない。最弱だ。だから隠れて、Fランクのポーターとして、静かに生きる。
今にして思えば——あれが、嘘だった。
山道が急になった。傾斜がきつくなり、木の根が階段のように地面を覆っている。刃は歩調を変えなかった。呼吸も乱れない。バックパックの重さも、日本刀の重さも、感じない。
500メートル先に、気配を感じた。
大きい。Bランク相当の魔獣。ダンジョン外にも稀に出現する個体で、野生化して山に住み着いている。体長は3メートルほど。岩背獣と呼ばれる、背中に岩のような甲殻を持つ熊型の魔獣だ。
刃は歩き続けた。何もしなかった。
ただ——歩いた。
100メートル。50メートル。30メートル。岩背獣が刃の存在を感知し、こちらを向いた。赤い目が刃を捉えた。
魔獣の体が——硬直した。
刃は何もしていない。歩いているだけだ。
岩背獣の全身の毛が逆立った。本能が警告を発している。目の前の存在は、自分よりもはるかに上位の捕食者だと。4本の足が震え始め、低い唸り声が喉の奥で途切れた。
岩背獣は、背を向けて走り去った。Bランクの魔獣が、全速力で逃げていく。木をなぎ倒しながら森の奥に消えていった。
刃は何事もなかったかのように歩き続けた。
(……師匠のところの近くにまで来てるのか、あいつら。師匠が放置してるってことは、害がないんだろうけど)
山道がさらに続く。沢を渡り、尾根を越え、杉林を抜けた。空気が澄んでいく。東京の空気には微かに含まれている魔素の残滓も、ここには存在しない。純粋な山の空気。肺が軽くなるような感覚だった。
携帯を確認した。電波が1本。揺れている。もうすぐ圏外に入る。
レイラにメッセージを送った。
『ここから先は圏外だ。帰ったら連絡する』
返信が届くまで、8秒。電波の弱さのせいか、レイラの反応速度のせいか。
『分かった。星を見て :) 』
星を見て。刃は空を見上げた。昼間だから星は見えない。しかし、隠されていても星はそこにある。レイラと東京のベランダで見上げた夜空を思い出した。
電波が消えた。画面の右上から、アンテナのアイコンが消える。東京との繋がりが、切れた。
不思議と——安心していた。
この山の空気を知っている。この静寂を知っている。師匠の小屋までの道のりを、体が覚えている。13年間暮らした場所に帰るのだから、安心するのは当然だ。
しかし——同時に、初めての感覚があった。
東京に、帰りを待っている人がいる。レイラが「早く帰ってきて」と言った。ガレスが「動く準備はある」と言った。ミラが「ごめん」と言った。ルーカスが「知ってほしい」と言った。面倒な奴らが、面倒なことを言って、面倒に待っている。
帰る場所がある。
師匠のもとにいた13年間には、なかった感覚だった。
(……面倒だな)
缶コーヒーの2本目を開けた。ブラック。山の空気の中で飲むと、東京で飲むのとは味が違った。苦みが澄んでいる。余計なものがない、純粋な苦さ。
悪くない。
山道の先に、煙が見えた。薪ストーブの煙。まっすぐに空に昇っている。風がない証拠だ。
師匠の小屋が——近い。




