第44話「ガレスの酒」
ガレスからメッセージが届いたのは、散歩の翌日の夕方だった。
『二人で飲まないか。レイラさんには内緒で』
刃は端末を見つめた。ガレス・ブレイド。神盾機関のAランク探索者。開拓イベントでレイラのチームに同行し、スタンピードで右肩を食い破られながらも片腕で前線に立ち続けた男だ。帰還後のパーティーで「うちのチームに入る気があったら言え」と刃に声をかけてきた。刃は「考えとく」と答えた。断るつもりだったのに、考えると言ってしまった相手。
ガレスの誘いを断る理由を探した。見つからなかった。いつもなら「面倒だ」の一言で済ませるところだが、今回はその言葉が出てこなかった。代わりに浮かんだのは——ガレスに会う方が、会わないよりも良い——という、これまでの自分にはなかった種類の判断だった。
『いい。どこで飲む?』
ガレスの返信。即座。
『渋谷の外れに知り合いの居酒屋がある。個室だ。22時でいいか?』
『分かった』
◇ ◇ ◇
22時。渋谷から徒歩15分の裏通り。
居酒屋「清風」は、看板すらまともに出ていない小さな店だった。表にあった小さな暖簾をくぐると細い階段があり、2階に上がると6畳ほどの個室が並んでいる。壁は古い木材、照明は暖色の間接照明。畳の匂いと、どこかから漂う出汁の香り。テレビもBGMもない、静かな空間だった。
個室の引き戸を開けると、ガレスが既に座っていた。
40代半ば。大柄で、肩幅が広い。短く刈り込んだ灰色の髪と、日焼けした顔。右腕をジャケットの下に隠しているが、肩のラインが左右で微妙に違う。スタンピードで食い破られた右肩は、応急処置で接合されたものの、完治には至っていないみたいだ。
テーブルの上には日本酒の瓶と、小鉢が2つ。枝豆と冷奴。
「来たか。座れ」
刃が向かいに座った。ガレスが日本酒を注いだ。小さな猪口に、透明な液体が揺れる。
「……ビールの方がいいか?」
「いえ。これでいいです」
刃は猪口を持ち上げた。二人で軽く猪口を合わせた。音は立てなかった。
最初の一杯を飲んだ。辛口。すっきりとした味わいの中に、微かな甘みがある。悪くない酒だった。
「店主が昔の戦友でな。ここは俺の隠れ家みたいなもんだ。カメラもないし、常連以外は来ない」
「……いい店ですね」
「だろう」
ガレスが枝豆を一つ摘んだ。噛んだ。ゆっくりと咀嚼し、酒を一口飲んだ。
しばらくの間、二人は黙って飲んでいた。会話がなくても気まずくない沈黙だった。ガレスは無理に話題を振らなかったし、刃も無理に応じなかった。二人とも、言葉が少ない人間同士の距離感を自然に理解していた。
2杯目を注いだ頃、ガレスが口を開いた。
「刃。——いいか、そう呼んで」
「……どうぞ」
「お前に聞きたいことがある。答えなくていい。ただ、聞く」
刃は黙って猪口を置いた。
「俺は元軍人だ」
ガレスの声が、少しだけ変わった。居酒屋の個室で酒を飲んでいる男の声ではなく、何かを報告する時の——あるいは、何かを告白する時の、静かで重い声だった。
「10年間、戦場にいた。中東、アフリカ、東南アジア。ダンジョンが出現した直後の世界的な混乱期——各国政府がダンジョンをどう扱うか分からず、社会のあちこちで争いが起きていた時代から、人間同士が殺し合う場所に立っていた。その10年で、俺が学んだことは一つだけだ。——人を見る目。目を見れば、そいつが何者か大体分かる」
ガレスが酒を飲んだ。一拍置いて、刃を真っ直ぐに見た。
「お前の目は、老兵の目だ」
刃は動かなかった。
「何十年も戦場にいて——しかし、荒んでいない老兵の目だ。殺すことに慣れているが、殺すことを楽しんでいない。強さを持っているが、強さに溺れていない。……Fランクの探索者の目じゃない。あれは、何かを守り続けてきた人間の目だ」
個室の照明が、二人の顔に暖かい影を落としている。階下から、かすかに皿が重なる音が聞こえた。
「……普通の目です」
「普通の人間は、掃除屋3人に囲まれた蒼氷姫の横で、壁にもたれて欠伸ができない」
刃の指が、猪口の縁を微かになぞった。
「……カメラの死角だったし」
「カメラが関係あるか」
ガレスの声が、低く、しかしはっきりと響いた。
「本物が怖い奴は、カメラがあろうがなかろうが怖がる。震えが止まらない。息が乱れる。目が泳ぐ。あの時のお前は——掃除屋の殺気を全身に浴びながら、心拍数すら上がっていなかった。少なくとも俺の目には、そう見えた」
沈黙が落ちた。
日本酒の瓶から、雫が一滴、テーブルに落ちた。
刃は何も言わなかった。否定も肯定もしなかった。猪口を傾け、辛口の酒を静かに飲んだ。その沈黙が、ガレスにとっては十分な回答だった。
「……話す気がないなら、それでいい」
ガレスは穏やかに言った。追い詰める声ではなかった。ミリアの「そうですか」とも、ミラの「何か言うことある?」とも違う。ガレスの言葉には——同じ側に立つ人間の、信頼があった。
「ただ一つだけ」
ガレスが3杯目の酒を注いだ。自分の分と、刃の分。
「レイラさんを守ってくれてることは分かってる。ダンジョンの中で、ずっと。あの子が無事に帰ってこれたのは、探索者協会の報告書が言う通りの『運とチームワーク』じゃない。お前がいたからだ」
ガレスが猪口を持ち上げた。
「それだけで、俺はお前の味方だ。困ったことがあれば何でも言え。24時間対応する。——これは、元軍人のオファーだ」
刃は猪口を見つめた。透明な酒の表面に、間接照明の光が揺れている。ガレスの言葉が、静かに胸に落ちてきた。味方。24時間対応。元軍人のオファー。大げさな言葉だったが、ガレスが言うと——嘘に聞こえなかった。
「……ありがとう」
刃が答えた。声は小さかったが、猪口を置いてから顔を上げた。ガレスの目を見て——少しだけ間を置いて、言った。
「一つだけ。その肩を、いつかちゃんと治してもらえ。修理できないものは何もないから」
ガレスの手が止まった。
猪口を持ったまま、動かなくなった。
右肩。スタンピードで魔獣に食い破られた右肩は、神盾機関の医療チームが応急接合を行った。骨は繋がった。筋肉も縫合された。しかし、神経束の断裂が修復不能と診断されていた。「元の8割までは回復する。しかし、10割には戻らない」——それが医療班の最終所見だった。
ガレスはその診断を、チームの誰にも話していない。神盾機関のAランク探索者として前線に立ち続ける男が「右腕が完全には治らない」と言えば、チームの士気に関わる。だから、いつも通りに振る舞い、左腕だけで全てをこなし、右肩の痛みは酒で流していた。
それを——目の前のFランクのポーターが、見抜いた。
「……どうして知ってる」
ガレスの声は、掠れていた。
「元軍人の庇い方を見てれば分かる」
刃が静かに言った。
「右肩を庇う動作が今まで3パターンある。荷物を持つ時、椅子に座る時、酒を注ぐ時。全部、右肩に負荷がかからないように左半身で受けてる。あの日のダンジョンでもそうだった。片腕で前線に立ち続けたのは、勇敢だったんじゃない。右腕が使えなかったからだ」
ガレスは黙っていた。
「それを隠しながら、チームを守り続けてる。……尊敬する。だから——治してほしい」
長い沈黙。
ガレスが低く笑った。肩が震えた。笑い声は小さかったが、深かった。皺だらけの目元に、光が滲んでいた。
「……気に入った。お前のことが」
ガレスが猪口を掲げた。刃が応じた。二つの猪口が、小さな音を立ててぶつかった。
「……修理できないものは何もない、か。軍隊では、壊れたら捨てるのが常識だったんだがな」
「師匠がよく言ってました。壊れたものは直せばいい。捨てるのは最後の手段だ、と」
「いい師匠だな」
「……ええ。面倒な人ですけど」
二人は酒を飲んだ。枝豆をつまみ、冷奴を箸で崩した。会話は少なくなった。しかし、その沈黙の質が変わっていた。最初の沈黙は「気まずくない距離感」だったが、今の沈黙は「信頼の上に成り立つ安心」だった。
日本酒の瓶が空になった。ガレスが店主を呼んで、もう1本頼んだ。
◇ ◇ ◇
深夜1時。
居酒屋を出た二人は、裏通りを並んで歩いていた。ガレスは酔いが入って少しだけ足元がふらついているが、歩幅は正確だった。元軍人の体は、酒を飲んでも行軍の姿勢を忘れない。
刃は素面だった。酒は飲んだが、酔う体質ではない。師匠との暮らしの中で、酒に対する耐性が異常に高くなっている。師匠が毎晩一升瓶を空けながら、刃にも「飲め」と注いでいたせいだ。
「刃」
「はい」
「一つ聞いていいか」
「何ですか」
「お前は——幸せか?」
刃の足が、一瞬だけ止まった。
幸せ。その言葉を、これまで考えたことがなかった。師匠のもとで素振りをしていた日々が幸せだったかと聞かれれば、分からない。Fランクのポーターとして隠れて暮らしていた日々が幸せだったかと聞かれれば、分からない。ゲームをして缶コーヒーを飲む生活は——平穏ではあったが、幸せとは違う気がする。
では、今は?
レイラが隣にいて、ガレスが味方だと言い、ミラが好奇心の瞳で追いかけてきて、ルーカスが近くにいることを許してほしいと頼んでくる。面倒な日々。面倒で、面倒で——しかし。
「……分からないです。でも、悪くはない。たぶん」
ガレスが笑った。
「お前のその『たぶん』は、誰かの確信よりも重いな」
「……そうですか」
「ああ。そうだ」
裏通りの街灯がオレンジ色の光を落としている。深夜の渋谷は、喧騒が遠くに聞こえるだけで、この裏道は静かだった。
「じゃあな、刃。また飲もう」
「……ええ。いい店でした」
「次は俺が奢る。今日はお前が引かなくて割り勘だったからな」
「次も割り勘でいいです」
「遠慮するな。——味方なんだから」
ガレスが手を上げて背を向けた。片腕でタクシーを拾い、乗り込んだ。右腕は——やはり動かなかった。タクシーのドアを左手で閉め、走り去っていく。
刃はその背中を見送った。
深夜の裏通りに一人残り、空を見上げた。星は見えない。東京の空は明るすぎて、星を隠してしまう。しかし——隠されていても、星はそこにある。見えないだけだ。
(……修理できないものは何もない。師匠の言葉だ。自分で言っておいて、いちばん修理を後回しにしているのは——俺の方かもしれない)
帰り道、コンビニで缶コーヒーを買った。ブラック。深夜の空気の中で飲むと、苦みの中に甘さが感じられた。いつもと同じ味のはずなのに、今夜は少しだけ違った。
アパートに帰り、布団に入った。端末を見たら、レイラからメッセージが来ていた。
『今日、ガレスさんと飲んだでしょう :) 』
刃は端末を見つめた。なぜ知っている。
『……なんで知ってる』
レイラの返信。即座。
『ガレスさんが酔って「刃と飲んだ、いい奴だ」って私にメッセージ送ってきた。内緒じゃなかったの? :) 』
刃はため息をついた。深い、長い溜息。画面の向こうでレイラが笑っている顔が見えるようだった。
『……あの人に秘密は不向きだ』
レイラの返信。
『知ってる :) おやすみ、刃。いい夜だったみたいでよかった』
『……おやすみ』
端末を枕元に置いた。目を閉じた。
今夜は——眠れる気がした。




