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底辺探索者の手加減極意 〜最強の師匠に育てられた俺はソロでダンジョンを攻略したいだけなのに、偶然トップ配信者を助けたら世界中から注目されてしまった〜  作者: らいお
肆ノ太刀 師へ至る道

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第43話「追跡者と散歩のついでに」

 ミラの調査報告から2日後の夜。


 刃はベランダに立っていた。安アパートの2階。眼下には住宅街の薄暗い路地が続き、遠くに幹線道路のヘッドライトが流れている。右手には缶コーヒー。ブラック。気温は12度。吐く息が若干白い。

 何の変哲もない、いつもの夜——のはずだった。


 刃の感覚が、異変を捉えていた。

 500メートル先。住宅街の裏通りにある空き家の屋上。3つの気配。うち2つは、刃にとって取るに足らない存在だった。気配の隠し方が中途半端で、呼吸のリズムから体格まで手に取るように分かる。Bランク相当の探索者が2人。おそらく偵察要員だ。

 問題は3つ目の気配だった。


 いない。


 正確に言えば、「いるはずなのに、いない」。2人の偵察要員の配置パターンから逆算すると、3人目がいなければ成立しない三角形の監視陣形が組まれている。しかし、3人目の気配だけが完全に消えている。

 これは尋常ではなかった。刃の感覚をもってしても気配を掴めないということは、完全気配遮断の特殊技能を持っている可能性がある。師匠の教えの中に、「気配を消すのではなく、気配そのものを存在させない」技術の話があった。理論上は知っていたが、実際に使える人間に会うのは——師匠を除けば——初めてだった。


(……今度は、俺がターゲットか)


 缶コーヒーを一口飲んだ。苦い。


(面倒だなあ)


 黒剣商会。ダンジョンの深層で暗躍していた闇組織。掃除屋を使ってレイラを暗殺しようとし、刃が介入して壊滅させた。幹部のヴィクターは逃亡中。組織は公式には解体されたが、末端の構成員や忠誠心の高い残党が地下に潜ったという情報は、レイラの神盾機関イージス・コーポレーションからも報告されていた。

 その残党が、刃を嗅ぎ回っている。「掃除屋3人を無力化した真犯人はあのFランクポーターだ」という仮説を検証するために。


(放っておくか? ……いや、放っておくとレイラに飛び火する。面倒だけど、潰すか。ただし——目立たずに)


 刃はベランダから部屋に戻り、布団に入った。端末を手に取り、レイラにメッセージを送った。


 『最近、外を歩く時に気をつけろ。車にも注意した方がいい』


 レイラからの返信。3秒。


 『何かあった?』

 『何もない。ただの散歩中の感想』


 レイラの返信。2秒。


 『……散歩中の感想にしては具体的すぎるけど。分かった、気をつける。あなたも気をつけて』


 刃は端末を置いた。明日から「散歩」を始めることにした。



◇ ◇ ◇



 カノンは、空き家の屋上に身を潜めていた。

 30代の女性。黒い髪を後ろで一つにまとめ、暗色の戦闘服を身につけている。顔立ちは整っているが、表情がない。感情を表す筋肉が動くことを拒否しているかのような、完全に平坦な顔だった。

 彼女の特殊技能は完全気配遮断(ゼロ・プレゼンス)——自分の気配を「消す」のではなく、「最初から存在しなかったことにする」技術だ。黒剣商会の中でも限られた者にしか伝えられない秘伝であり、カノンはこの技術を極限まで磨き上げた結果、Sランクの感知持ちですら彼女の存在を検知できなくなった。


 カノンの任務は情報収集だった。

 黒剣商会の壊滅後、残党は散り散りになった。ヴィクターは行方不明。組織の資金は凍結され、拠点は探索者協会に押収された。残ったのは、カノンを含む少数の忠誠心の高い構成員だけだ。

 彼らが追っているのは一つの仮説——「掃除屋3人を無力化した真犯人は、蒼氷姫の専属ポーター・八雲刃である」。


 掃除屋は、黒剣商会が外部から雇った暗殺のプロフェッショナルだった。3人とも Aランク相当の実力を持ち、連携すればSランクの探索者すら仕留められる。その3人が、ダンジョンの中で「原因不明の戦闘不能」に陥った。協会の調査では「ダンジョン内の環境要因」と結論づけられたが、カノンはその報告書を信じなかった。

 3人の掃除屋の傷痕を調べたのはカノン自身だった。傷は全て、人間の打撃によるものだった。しかも、3人が同時に無力化されている。一人の人間が、Aランク3人を同時に倒した。そんな人間がFランクのポーターであるはずがない——しかし、あの場にいたFランクは八雲刃だけだった。


 仮説が正しければ、八雲刃は「Fランクを偽装している何か」だ。その「何か」の正体を突き止めることが、カノンに課せられた任務だった。

 カノンは双眼鏡を下ろした。刃のアパートのベランダに、缶コーヒーを持った男の姿が映っていた。Tシャツにジャージのズボン。だらしない姿勢。緊張感の欠片もない。


(……あれが、掃除屋3人を倒した人間?)


 論理的に考えれば、矛盾している。あの男の体格、姿勢、動作。全てが「一般人」の範疇に収まっている。しかし——データは嘘をつかない。掃除屋の傷痕が語る真実と、目の前の「一般人」が同一人物だというなら、どちらかが偽りだ。


(3日間の観察で結論を出す。行動パターン、交友関係、身体能力の痕跡。何か一つでも決定的なものが出れば——)


 カノンは偵察要員2名に暗号で指示を送った。

 翌日から、3人による24時間体制の監視が始まった。



◇ ◇ ◇



 ——1日目の夜。


 深夜1時。刃は部屋を出た。

 サングラスとマスク。パーカーのフードを深く被り、スニーカーの紐をしっかり結んだ。手ぶら。散歩に行く、ただそれだけの格好だった。

 住宅街の路地を歩く。深夜の住宅街は静かで、街灯が等間隔にオレンジ色の光を落としている。猫が一匹、塀の上からこちらを見ていた。刃は猫に軽く頭を下げた。猫は興味なさそうに目を閉じた。

 500メートル先の偵察要員2名が、刃の移動を追尾し始めたのを感じた。3人目——カノンの気配は相変わらず検知できないが、2人の動きから推定すると、カノンは刃の移動ルートの先回りをしているはずだ。


(……偵察の拠点は——あの廃倉庫か)


 刃の感覚は、2人の偵察要員が過去3日間に頻繁に出入りしていた場所を特定していた。住宅街の外れにある、使われなくなった小さな廃倉庫。中には通信機器や記録装置が置かれているはずだ。


 刃は散歩のルートを少しだけ変えた。

 廃倉庫の前を通りかかった。古びたトタン屋根の建物。壁は錆びた鉄板で覆われ、窓は板で塞がれている。入り口のドアには鎖と南京錠がかかっていた。

 刃は——ちょっと疲れたな、という顔をして、廃倉庫の壁にもたれかかった。


 背中を壁に預けた。

 その瞬間——壁が折れた。


 いいや、「折れた」というのは正確ではない。刃が壁にもたれた衝撃が、建物の構造の最も脆い接合部に伝達され、連鎖的に崩壊が始まったのだ。トタン屋根が鉄骨ごと内側に倒れ込み、壁が音を立てて崩れ、床が砕けた。中に置かれていた通信機器、記録装置、ノートパソコン、バッテリー——全てが瓦礫の下に埋まった。

 埃が舞い上がった。深夜の住宅街に、轟音が響き渡った。


 刃は一歩横にずれて瓦礫を避け、ぱたぱたとパーカーの埃を払った。


(……古い建物は危ないな)


 何事もなかったかのように、散歩の続きを歩き始めた。

 500メートル先で、偵察要員2名が凍りついていた。



◇ ◇ ◇



 ——2日目の夜。


 刃はレイラにメッセージを送った。


 『お前の車、明日点検に出した方がいいかもしれない。最近エンジン音がおかしかった気がする』


 レイラの返信。即座。


 『……私の車のエンジン音なんていつ聞いたの?』

 『この前送り迎えしてもらった時に。ちょっと気になった』


 これは半分嘘だった。エンジン音が気になったのではなく、刃は昨夜の散歩中に、レイラの自宅マンションの駐車場を「たまたま」通りかかった際に、レイラの車の底部に取り付けられた盗聴器の存在を感知していた。盗聴器は3つ。いずれも小型の魔素(マナ)反応型で、音声だけでなく車内の魔素(マナ)変動も記録するタイプだった。黒剣商会が好んで使うモデルだ。


 深夜2時。刃は再び散歩に出た。

 レイラのマンションの駐車場に着いた。レイラの車——白い ハイグレードSUVが月明かりの下に停まっている。刃は車の横を通りがかり、靴紐がほどけた振りをして屈んだ。

 地面に落ちていた小さな金属片——正確には、昨日の廃倉庫の崩壊で飛び散った鉄骨の破片を、あらかじめポケットに入れておいたものを、車の底部に向けて指で弾いた。


 金属片が車の底部の盗聴器に当たった。正確には、3つの盗聴器の魔素(マナ)回路のコア部分に連続して当たった。1つ目の盗聴器が沈黙し、跳ね返った金属片が2つ目に当たり、さらに跳ね返って3つ目に当たった。3回のバウンドで3つの盗聴器が全滅した。

 金属片は最後のバウンドで排水溝に落ち、証拠ごと消えた。


 刃は靴紐を結び直し、立ち上がった。


(……偶然、金属片が引っかかったように見えるといいけど)


 散歩を続けた。



◇ ◇ ◇



 ——3日目の夜。


 深夜0時。

 刃は今夜も散歩に出た。3日連続の深夜の散歩。近所の人間が見たら不審者以外の何物でもないが、幸い深夜の住宅街に人通りはなかった。

 今夜は少しだけルートを変えた。駅の裏手にある商業ビルの裏路地を通る。飲食店の排気口から暖かい空気が漏れ、アスファルトが湿っている。街灯は1本だけで、路地の奥は暗い。


 路地の角を曲がった。

 目の前に、人がいた。

 黒い戦闘服。体格はやや小柄。偵察要員2名のどちらとも違う。つまり——3人目だ。


 男は20代後半。偵察要員の中で最も若く、最も経験が浅かった。今夜は刃の先回りをして路地裏で待機する任務を与えられていたが、刃がルートを変えたせいで、予定より早く鉢合わせしてしまった。


 男の目が見開かれた。ターゲットが——目の前にいる。距離、2メートル。任務は偵察であって接触ではない。しかし、2メートルの距離で鉢合わせした以上、対応しなければならない。


 男の手が腰の短剣に伸びた。

 刃は——欠伸をしていた。

 欠伸をしながら、右手を上げた。人差し指で、男のこめかみの横の空気を弾いた。触れてすらいない。指先が空気を押し、その空気の波が男のこめかみに到達した。


 男の意識が落ちた。

 糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。打撲も外傷もない。ただ、脳への血流が一瞬だけ遮断されたことで、深い眠りに入った。自然な失神と区別がつかない、完璧な気絶だった。


 刃は男の体勢を整えてやった。横向きに寝かせ、気道が確保されるようにした。財布とスマートフォンはポケットに入ったままだ。強盗ではない。

 端末を取り出し、匿名で探索者協会に通報した。「駅裏の路地で人が倒れている。意識がない。酔い潰れたのかもしれない」。

 通報を終え、散歩を続けた。



◇ ◇ ◇



 翌朝。


 カノンは、報告を聞いた。

 廃倉庫が「老朽化による自然崩壊」で全壊し、通信機器と記録装置が全滅した。レイラの車の盗聴器が「原因不明の故障」で全滅した。偵察要員の一人が「路上で意識を失い」協会に保護された——ただの酔い潰れと処理されたが、当人は酒を飲んでいない。


 3日連続の、偶発的事故。

 カノンはノートパソコンの前に座り、3つの事象を並べた。

 廃倉庫の崩壊——構造工学的に、あの建物が自然崩壊する確率は極めて低い。しかし、外部からの力が加わった痕跡は見つからなかった。

 盗聴器の故障——3つの盗聴器が同時に「偶然」故障することは物理的にありえない。しかし、破壊の痕跡がない。魔素(マナ)回路が内部から焼き切れたように見えるが、それは自然故障のパターンと一致する。

 偵察要員の気絶——外傷なし。薬物反応なし。アルコール反応なし。医療班の診断は「一過性の脳虚血発作」。しかし、当人は20代で健康体だ。


 全てに共通しているのは痕跡がない、ということだった。

 誰かが意図的にやったのだとしたら、その「誰か」は、物理的な痕跡を一切残さずに廃倉庫を倒壊させ、金属片のバウンドで3つの盗聴器を破壊し、触れずに人間を気絶させたことになる。


 それは——理論で解析できる行為ではなかった。

 カノンは画面を閉じた。


(……風みたいな人間だ)


 言葉が浮かんだ。自分の語彙には普段存在しない、感覚的な表現だった。カノンは論理で生きてきた。全ての事象には原因があり、全ての原因は追跡可能であり、追跡の先には必ず真犯人がいる。それが、カノンが30年間信じてきた世界の法則だった。

 しかし——八雲刃という人間の周囲で起きた3つの事象は、その法則が通用しない領域にあった。原因が見えない。追跡ができない。「偶然」としか説明のしようがない——しかし、3つの「偶然」が全て同じ人物の監視中に起きたことは、偶然ではない。


(……これは、方法が見つからないのではない。方法が存在しないのだ。あの人間は、論理の外側にいる)


 それは、カノンにとって初めての経験だった。「分からない」ということ。データを集めても、分析しても、答えが出ない。それが恐怖なのか畏怖なのか、カノン自身にも判別がつかなかった。

 ただ一つ、確かなことがあった。


(……撤退する。これ以上の偵察は、こちらが消耗するだけだ)


 カノンは偵察要員に撤退命令を出し、自らも姿を消した。



◇ ◇ ◇



 その朝。

 刃はベランダに立っていた。缶コーヒーを開けた。ブラック。苦い。空は晴れている。

 500メートル先の気配が、消えていた。3つとも。

 レイラからメッセージが届いた。


 『また何か動いてる気がする。ここ3日、夜のログ更新が止まってたけど』


 ログ更新。レイラの氷眼(ひょうがん)は、刃の端末のアクティビティを間接的に追跡している。深夜に端末を使わず外出していたことが、ログの空白として見えているのだろう。


 『眠れない夜もある』


 レイラの返信。即座。


 『嘘が下手』

 『下手なままでいい』


 しばらく間が空いた。10秒。レイラにしては長い。


 『……何かしたんでしょう。散歩とか言って』


 刃は缶コーヒーを一口飲んだ。


 『散歩は健康にいいぞ』


 レイラの返信。


 『健康な人間は深夜に3日連続で散歩しない :( 』


 刃はため息をつきながら、少しだけ笑った。口元が緩んだのは一瞬だけで、すぐにいつもの無表情に戻った。しかし、その一瞬を——レイラの氷眼(ひょうがん)は見逃さなかっただろう。見ていれば、だが。

 500メートル先の空き家の屋上は、もう空っぽだった。


(……散歩は、やっぱり健康にいい)


 缶コーヒーを飲み干した。空き缶をゴミ箱に正確に投げ入れ、部屋に戻った。

 今日は久しぶりに、ゲームをする日にしようと思った。

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