第42話「ミラの調査報告」
学園での模擬戦から5日が経った。
刃の日常は、表面上は元に戻っていた。安アパートでゲームをして、缶コーヒーを飲んで、布団で寝る。外出時にはレイラが手配したサングラスとマスクをつけ、コンビニの店員には「人違いです」と繰り返す。それだけの生活だ。
しかし内側では、いくつかの変化が静かに進行していた。
師匠の手紙が頭の中に住み着いている。「お前に嘘をついていた」という一文が、ふとした瞬間に浮かんでは消える。レイラとの模擬戦で感じた「1%の力」の感触が、手のひらにまだ残っている。学園でルーカスに指先で触れた瞬間の、力の分散を制御する感覚。あれを「0.1%」と呼んでしまう自分は、本当にFランクなのか。
考えるたびに、師匠の問いが返ってくる。
(「お前は何のために強くなったのか」)
答えはまだ出ない。しかし、考えること自体を止める気にはならなくなっていた。それが、以前の自分との最大の違いだった。
その日の昼過ぎ。端末にメッセージが届いた。ミラ・ヴァレンティからのものだった。
メッセージの内容はこうだった。
『八雲くん、資料を渡したいの。レイラさんにも事前に了解を取ってあるから、三人で集まらない? :) 』
刃はメッセージを見つめた。ミラが「資料」と言っている。ダンジョン攻略のノウハウ集ではないだろう。ミラが刃に対して渡したい資料と言えば、一つしか考えられない。刃自身に関するデータだ。
レイラに確認のメッセージを送った。
『ミラから連絡が来た。資料を渡したいらしい。了解を取ったと言ってるけど、本当か?』
返信。3秒。
『取ってない』
やはりそうだった。刃はため息をつき、ミラに返信した。
『レイラに確認したら「取ってない」と言ってる』
ミラからの返信。即座。
『ちょっとした嘘 :) でも内容は見てほしい。本当に大事なことだから。レイラさんにも見せたい。お願い、三人で集まって?』
レイラから追加のメッセージが来た。
『……ミラさんの資料、私が先に中身を確認したい。それで問題なければ三人で集まる。いい?』
刃は二人のやり取りを眺めながら、缶コーヒーを一口飲んだ。こういう時のレイラは本気だ。ミラの資料の中身が「刃に見せるべきものか」を、蒼氷姫として判断しようとしている。守るために。
翌日。レイラからメッセージが来た。
『ミラさんの資料、確認した。……刃に渡して。ミラさんも同席していい。私も聞きたいことがある』
レイラの文面から、いつもの絵文字が消えていた。それだけで、資料の中身が軽くないことが分かった。
◇ ◇ ◇
集合場所は神盾機関本社の会議室だった。
窓のない、防音仕様の小部屋。テーブルの上にはペットボトルの水と紙コップ。協会の面談室に少し似ているが、こちらの方が質素で実務的だった。盗聴器のスキャンも済ませてある、とレイラが事前に伝えてきた。
テーブルの一方にレイラ、その向かいにミラ、そして刃は短辺の椅子に座っている——二人の間に挟まれる配置だ。
ミラが鞄から、分厚いファイルを取り出した。
表紙には何も書かれていない。しかしファイルの厚さは3センチ近くあり、中にはA4のプリントアウトがぎっしり詰まっていた。インデックスタブが色分けされて貼られており、赤・青・黄・緑の4色に分かれている。
「これが、私が個人的に集めた『八雲刃の異常データ』」
ミラがファイルを開いた。琥珀色の瞳が、いつもの人懐っこい輝きとは違う、鋭い光を帯びている。Aランク探索者として、データと論理で真実に迫る時の目だった。
「まず前提を説明するね。私はこの資料を、開拓イベントの期間中から帰還後にかけて、約2週間かけて作った。使った情報ソースは、配信のアーカイブ映像、探索者協会の公開データベース、現場での自分自身の観察記録、それから——」
ミラがレイラをちらりと見た。
「——レイラさんの配信が映した『映り込み映像』の全フレーム解析。これは公開されているアーカイブからだけ取ったもので、非公開データには触れてない」
レイラは黙って頷いた。
「では、項目ごとに説明するね」
ミラが赤いタブのセクションを開いた。
◇ ◇ ◇
【資料①:5秒間映像の音声スペクトル解析】
赤いタブの最初のページには、音声の波形グラフが印刷されていた。横軸が時間、縦軸が周波数。5秒間の「白い映像」——レイラの氷壁で覆われた5秒間の音声データだけを抽出し、スペクトル分析にかけたものだ。
「氷壁で映像は遮断されたけど、音声データは配信機器に残っていた。その音声を高精度のスペクトル分析にかけた結果がこれ」
ミラが波形グラフの一点を指さした。
「ここ。氷壁が張られてから2.7秒後。高周波の鋭いピークがある。この波形パターンは、魔導鍛造以上の金属が高速で空気を切った時に発生する音と一致する。つまり——」
「斬撃音」
レイラが静かに言った。
「そう。Sランク以上のパワーで何かを斬った音。蒼氷姫の戦闘スタイルは氷魔法であって、斬撃系じゃないよね? あの5秒間に、氷壁の向こう側で、誰かが何かを斬った」
刃は黙って波形グラフを見つめていた。顔色は変わらない。
ミラが青いタブに移った。
【資料②:崩落区域の3トン柱石の接触痕分析】
青いタブには、写真が貼られていた。崩落区域で倒れていた3トンの柱石——探索者たちが動かせず、医療班のアクセスを妨げていた巨大な石だ。あの日、刃が「偶然通りかかって」退かした柱石である。
「この柱石は、もともと通路を完全に塞いでいた。3トンの柱石を人力で動かすには、通常Bランク以上の身体強化が必要。しかし現場の記録では、柱石は『気づいたら移動していた』とだけ報告されている。誰が動かしたかは特定されていない」
ミラが写真を拡大したプリントを広げた。柱石の表面に、5つの窪みがある。
「これ。柱石の側面に残っていた接触痕。窪みの深さは約2ミリ、間隔は人間の指の幅と完全に一致する。つまり、誰かが素手でこの3トンの柱石を掴んで、持ち上げて、移動させた」
ミラが刃を見た。
「窪みの位置から推定される身長は172〜175センチ。八雲くんの協会登録の身長は173センチ」
刃は缶コーヒーを飲んだ。表情は変わらない。
ミラが黄色いタブに移った。
【資料③:スタンピードの夜の魔獣消滅分布マップ】
黄色いタブには、3階層のフロアマップが広げられていた。マップ上に、赤い点が無数に打たれている。それぞれの点の横に、時刻が秒単位で記されていた。
「3階層でスタンピードが発生した夜。数百体の魔獣が群れで襲来した。最終的に全て討伐されたけど、その『消滅した順番と方向』に注目した」
ミラがマップ上の赤い点を指でたどった。中心から外側に向かって、放射状に点が並んでいる。
「魔獣の消滅時刻を秒単位でプロットすると、全ての消滅が一つの点を中心に外側へ向かって広がっている。まるで——中心点から衝撃波が放射状に広がったように。この中心点の座標は——」
ミラが地図上の一点を指さした。
「八雲くんが寝袋を敷いていたテントの位置と、誤差50センチで一致している」
会議室が静かだった。空調の音だけが低く唸っている。
「つまり、あの夜のスタンピードは、八雲くんの寝床を中心に放射状に殲滅された。普通のスタンピードなら、複数の探索者が各方向から迎撃するから消滅パターンはランダムになる。放射状に揃うのは、一人の人間が中心にいて、全方向に同時に力を行使した場合にしか起きない」
ミラが最後のタブ——緑のタブを開いた。
【資料④:統計的発生確率の算出】
緑のタブには、数式と表が並んでいた。
「以上の4つの事象に加えて、開拓イベント中に記録された『偶然としては説明が困難な事象』を全て洗い出した。合計5件。それぞれの事象が『偶然に起きた確率』を独立に算出し、全てが同時に偶然に起きた場合の複合確率を計算した」
ミラがページを開いた。数式の最終行に、一つの数字がアンダーラインで囲まれている。
「2の-31乗。パーセントに直すと、0.000000047%。事実上のゼロ」
ミラがファイルを閉じた。
テーブルの上にファイルが置かれた。3センチの厚さ。2週間の調査。5件の「偶然」。そして——事実上ゼロの確率。
ミラが刃を真っ直ぐに見た。琥珀色の瞳。好奇心でも敵意でもない。ただ純粋に「知りたい」という感情が、目の奥で静かに燃えている。
「これを見て、何か言うことある?」
刃はしばらく黙っていた。テーブルの上のファイルを見つめ、それからミラを見た。ミラの目は穏やかだった。追い詰める目ではない。責める目でもない。ただ、「あなたは本当は何者なのか。教えてほしい」という純粋な問いが、そこにあった。
「……運が良い人間もいるよ」
ミラの唇が微かに動いた。微笑み——ではなかった。微笑みの手前にある、感情を飲み込む表情だった。
「0.00――事実上のゼロ%が運?」
「……稀なケースは存在する」
「…………」
長い沈黙。
レイラは一言も口を挟まなかった。蒼い瞳でテーブルの上のファイルを見つめたまま、微動だにしなかった。
ミラが、ゆっくりと息を吐いた。
「……うん、分かった」
ミラの声は穏やかだった。怒りもなければ、失望もなかった。ただ——小さな寂しさのようなものが、声の端に乗っていた。
「引き続き観察させてもらうね。……嫌われるかもしれないけど」
「嫌ってない」
刃が即座に答えた。自分でも驚くほど速い反応だった。
ミラの琥珀色の瞳が、一瞬だけ大きくなった。
「……ありがとう。それだけで、十分」
ミラがファイルをテーブルに残し、鞄を持って立ち上がった。
「ファイルはそのまま置いていくね。レイラさんにも見てほしいから。……じゃあ、また。八雲くん。レイラさん」
ミラが会議室を出ていった。ドアが閉まる音が、静かな部屋に小さく響いた。
◇ ◇ ◇
二人きりになった。
レイラがファイルを手に取り、最初のページから丁寧にめくり始めた。音声スペクトル解析のグラフ。柱石の接触痕の写真。スタンピードの消滅分布マップ。統計的発生確率の算出。全てを、一つ一つ確認している。
その目は氷眼の分析モードに入っていた。蒼い瞳の中に、微細な光のラインが走っている。データを読み取り、自分自身のログと照合している。
5分後。
レイラがファイルを閉じた。テーブルに置いた。
「……刃」
「ん」
「ミラさんのデータ、私の氷眼のログと突き合わせた」
「どうだった」
「……ミラさんのデータの方が、精度が高い箇所がある」
レイラの声は平坦だった。しかし、その平坦さの裏側に、複雑な感情が折り重なっていた。
氷眼は、レイラの最大の武器だ。生まれつき持つ特異眼であり、世界最高水準の魔素感知と分析能力をその瞳に宿している。その目が記録したログよりも、ミラが人間の目と頭脳だけで集めたデータの方が、一部の観測において精度が上回っている。
レイラは刃の秘密を守るために、氷眼のログの一部を改竄していた。刃の異常値を記録から消し、「普通のFランク」として見えるようにデータを書き換えていた。その改竄が施されたログよりも——ミラの生データの方が、真実に近い。
「……氷眼のデータより、人の目の方が正確だったの」
レイラが独り言のように呟いた。
刃は何も言わなかった。言えることがなかった。
「私が改竄したログは、いつか矛盾が出る。ミラさんみたいな人がデータを集めれば、氷眼のログとの食い違いが表面化する。……時間の問題だった」
レイラがため息をついた。長い、深い溜息。しかし、その溜息の後の顔は——意外にも、穏やかだった。
「でも、ミラさんに嫌われてないって即答したの。……ちょっとだけ驚いた」
「……何が」
「前の刃なら、ミラさんに近づかれることを警戒してた。今は——」
レイラが小さく笑った。
「——嫌ってない、って言えるようになった。変わったね、刃」
刃は窓のない壁を見つめた。変わった——のだろうか。師匠の手紙が来てから、何かが少しずつ動いている。自分の中の、凍りついていた何かが、溶け始めている。
「……変わったのかもしれない。面倒だけど」
「面倒じゃないよ。少なくとも、私は嬉しい」
レイラがファイルを手に取り、立ち上がった。
「このファイル、私が預かる。安全な場所に保管する。ミラさんのデータは——正直、怖い。でも、あの人は悪意で動いてない。それだけは信じていい」
「……ああ。俺もそう思う」
二人が会議室を出た。廊下を歩きながら、レイラがぽつりと言った。
「……ミラさんの観察力、本当にすごいね。あの人が本気で調査をしたら、いつかきっと真実に辿り着く」
「……たぶんな」
「その時に——あなたがどうするか。それは、あなたが決めること」
レイラが立ち止まり、刃を見た。
「でも、一つだけ言わせて。どう決めても、私は隣にいるから」
刃は小さく頷いた。
廊下の窓から、午後の日差しが射し込んでいた。




