第41話「模擬戦、あるいは品定め」
翌朝。第一魔導学園・模擬戦場。
模擬戦場は屋外の円形アリーナだった。直径50メートル。地面は圧縮された赤土で、周囲を魔導鋼の防壁が囲んでいる。観客席は階段状に設けられており、普段は授業の一環として生徒たちが試合を見学する場所だ。
今日は授業日ではない。しかし——観客席は満席だった。
昨日の食堂での出来事は、一晩で学園中に広まっていた。「最強のポーターがルーカスの挑戦を受けた」。それだけで300人以上の生徒が早朝から押し寄せている。教官たちも何人か混じっていた。
アリーナの中央に、ルーカス・クレインが立っていた。練習用の木剣ではなく、魔導鍛造の実剣を腰に佩いている。本気だった。
その正面に——刃が立っていた。
昨日と同じジャケット。中のTシャツ。スニーカー。武器はない。構えもない。両手はポケットに入っている。
観客席がざわついた。
「あの人、武器持ってないじゃん」
「Fランクだから武器なしは普通じゃない?」
「でもルーカスが実剣なんだけど……大丈夫なの?」
セラが審判席に立っている。彼女は昨夜、学長に報告を入れた。学長の回答は「見届けなさい。止める必要があると判断したら止めていい」だった。
「ルール確認をします」
セラの声がアリーナに響いた。
「模擬戦です。致命傷を狙う攻撃は禁止。降参、または戦闘不能の判断は審判が行います。制限時間は5分。——両者、準備はいいですか」
「いつでも」ルーカスが剣を抜いた。魔導鍛造の刃が朝日を反射して白く光る。
刃はポケットから手を出した。
「……0.1%で行くから」
観客席が静まった。
「0.1%……?」
「何それ、手加減の宣言?」
「——100%の0.1%って、つまり本気の1000分の1ってこと?」
ルーカスの目が鋭くなった。
「0.1%。……本気の1000分の1と。舐めてるわけじゃないんですよね」
「舐めてない。怪我をさせたくないだけ」
「……」
ルーカスは剣を構えた。正眼。教科書のように美しい構えだった。
「手加減なしで来い。俺はAランク相当だ。Fランクの0.1%で倒されるつもりはない」
「……分かった。じゃあ始めてくれ」
セラが右手を上げた。
「——始め」
ルーカスが動いた。
速かった。Aランク相当の身体強化が脚部に集中し、一瞬で刃との距離を詰める。剣が弧を描いて横薙ぎに振られた。速度、角度、タイミング。全てが一流だった。この一撃だけで、Bランクまでの探索者なら反応すらできない。
刃は——半歩だけ横にずれた。
剣が空を切った。ルーカスの目が見開かれた。自分の剣は確実に当たるはずだった。完璧な間合いで、完璧なタイミングで振ったはずだ。しかし、目の前のTシャツ姿の男は、半歩——たった15センチだけ体をずらしただけで、Aランクの一撃を避けてみせた。
「もう一回ッ!」
ルーカスが即座に切り返した。今度は逆袈裟。速度を上げた二撃目。
刃は半歩、反対側にずれた。
三撃目。突き。最速の一撃。
刃は首を5センチだけ傾けた。剣先が耳の横を通過した。
「こんにゃろ——!」
ルーカスが叫びながら連続斬撃に入った。5連撃。6連撃。7連撃。全てが一流の速度と精度で繰り出された。
刃は——歩いていた。普通に。散歩をするような速度で、ルーカスの剣の軌道を全て最小限の動きで避け続けている。15センチのずれ。5センチの傾き。3センチの浮き。足元を見ると、刃の靴跡はほぼ一直線に進んでいる。避けているのではなく、「歩いている途中に剣が当たらなかった」ようにしか見えない。
観客席が凍りついていた。
「……何あれ。避けてる? 避けてるのか?」
「避けてるっていうか……歩いてるだけに見える」
「ルーカスの全力連撃を、歩きながら?」
12撃目。ルーカスが距離を取った。息が荒い。全力の連撃を12回振って、一度も当たらなかった。相手は汗一つかいていない。
「……八雲さん。あなたは——」
「ん?」
「攻撃は、しないんですか」
刃が首を傾げた。
「……そうか。攻撃もした方がいいか。じゃあ——」
刃が右手を上げた。
「——ちょっとだけ、触るよ」
ルーカスの目が追えたのは、そこまでだった。
次の瞬間——ルーカスの体が宙に浮いていた。
右肩に、指先が触れた感触がある。ただし、その指先が「押した」のか「弾いた」のか、体が理解できなかった。ルーカスの体は5メートル上方に打ち上げられ、天井の格子近くまで上昇した。
「あ」
刃の声が下から聞こえた。
「……慌てて動き過ぎた。ごめん」
ルーカスがアリーナの天井近くの格子に背中からめり込んだ。衝撃は——思ったほどなかった。致命傷を避けるために、打ち上げの力が分散されていたのだ。つまり、あの一瞬の指先の接触で、力の方向と分散まで完璧に制御されていた。
ルーカスの隣に——もう2人めり込んでいた。
「え」
「何が起きた」
ルーカスの左右にいた仲間である学園内のBランク候補2名が、いつの間にか同じように天井付近に打ち上げられていた。ルーカスが攻撃を仕掛けている間に、刃は2人にも「触れて」いたのだ。ルーカスは気づかなかった。観客席の誰も、気づかなかった。
3人が揃って天井の格子からぶら下がっている。
アリーナが、完全に沈黙した。
「……なんで謝ってるんだ、あの人」
天井からルーカスの声が落ちてきた。
「いや……もう少し優しくできたかと思って」
「優しくって……天井なんだけど」
「うん。もっと低い位置で止める予定だった」
「予定!?」
セラが審判席で目を閉じていた。
(……Sランクを超えてる。あの動き、あの力の制御。何者なんだ、この人は)
セラが声を上げた。
「——試合終了。勝者、八雲刃」
観客席は沈黙したままだった。300人が、全員、言葉を失っていた。
◇ ◇ ◇
試合後。医務室。
ルーカスたち3人は軽い打撲だけで済んでいた。打ち上げの力が完璧に制御されていたおかげで、骨折はゼロ。医療班は「これだけの高さから落ちて無傷なのは物理的に説明がつかない」と首を傾げていた。
刃が医務室を訪れた。
「大丈夫か」
「……大丈夫です。体は」
ルーカスはベッドの端に座り、刃を真っ直ぐに見た。
「八雲さん。一つだけ聞かせてください」
「何」
「あなたは何者ですか」
「Fランクのポーターです」
「……違う。そういうことじゃない」
ルーカスが立ち上がった。刃の前に立ち、目を合わせた。
「俺の12連撃を、歩きながら全て避けた。指先で3人を同時に天井まで打ち上げて、全員無傷で着地させた。力の制御、速度、判断——全てが人間の範囲を超えている」
刃は黙っていた。
「教えてもらえますか。あなたのその動きを。俺は——いつかあなたのそれを、理解したい」
刃がため息をついた。
「……できない約束はできない。俺のこの動きは、師匠に教わったものだ。俺自身がまだ理解しきれていない」
「……師匠がいるんですか」
「いる。山の奥に」
ルーカスは少し黙り、それから一歩引いた。
「……分かりました。では、一つだけ別のお願いを」
「何」
「八雲さん。正直に言います。俺は、ここで立ち止まりたくない。あなたがもし何か隠しているとしても、それを暴こうとは思わない。ただ——近くにいることを、許してほしい。あなたの動きを見て、考えて、少しでも近づきたい」
刃はルーカスの目を見た。嘘がなかった。ミラのような好奇心でもなく、レイラのような執着でもない。ただ純粋な、武人としての渇望がそこにあった。
「……勝手にしろ」
ルーカスの目が一瞬だけ光った。
「ありがとうございます」
「礼を言うほどのことじゃ——」
「いいえ。これは俺にとって、大きな一歩です」
刃は医務室を出た。廊下でセラが待っていた。
「……八雲さん。今日、見せていただいたものは——」
「忘れてくれると助かる」
「……無理です。Sランクの私が見ても、あなたの動きは解析できなかった。あの力の制御は——私の知る限り、人間には不可能です」
刃は何も言わず、廊下を歩いた。
「……でも」
セラが後ろから付け加えた。
「あなたがルーカスの挑戦を受けてくれたこと。そして3人を無傷で済ませたこと。それだけで、あなたが何者かは——少なくとも、悪い人間ではないことは分かります」
刃が立ち止まった。振り返らなかった。
「……ありがとう」
それだけ言って、正面玄関に向かった。
◇ ◇ ◇
帰りの車の中で、端末が鳴った。
レイラからのメッセージ。
『学園の見学どうだった? 何も問題なかった? :) 』
刃は返信を打ちかけて、やめた。もう一度打ちかけて、またやめた。
3回目に、短い返信を送った。
『見学は問題なかった』
嘘ではない。見学は問題なかった。見学は。
レイラからの返信。2秒。いつも通りの速さだ。
『……他に何かあった? 嘘が下手よ』
刃は端末をバッグにしまった。
(……帰ったら直接話す。怒られるなら、ちゃんと怒られよう)
車窓から東京の街並みが流れていく。ポケットの中の端末が3回震えた。レイラからの追加メッセージだった。
『模擬戦やったでしょ』
『セラさんから連絡来た』
『帰ったら覚えておいて :) 』
刃はため息をついた。
(……散歩の方がまだ安全だ)




