第39話「1%の差」
師匠の手紙から4日が経った。
刃の日常は、以前とは確実に変わっていた。外出時のサングラスとマスク。レイラが手配したジャケット。コンビニの店員には「人違いです」が定番の挨拶になり、アパートのポストにはメディアの名刺が毎朝3枚ずつ投げ込まれていた。
それでも、刃はゲームをして、缶コーヒーを飲んで、布団で寝る生活を続けていた。変わったのは外側だけだ。内側は——いや、内側も少しだけ変わっていた。師匠の問いが、頭の片隅に住み着いている。
(「お前は何のために強くなったのか」)
答えはまだ出ていない。
その日の夕方。レイラからメッセージが届いた。
『明日、時間ある? 頼みたいことがあるの』
『何』
刃は缶コーヒーを一口飲んでから返信した。
レイラからの返信。10秒後。いつもより間があった。
『……会って話したい。大事なこと』
◇ ◇ ◇
翌日。神盾機関本社ビルの地下3階。
外部探索者の立ち入りが制限された専用訓練フロアだった。天井高15メートル、広さは体育館3つ分。壁面は魔導鋼で補強されており、Sランクの全力攻撃でもビクともしない設計になっている。照明は白く、空気はひんやりとしている。
カメラは全てオフ。配信ドローンもない。この空間の映像は、世界のどこにも流れない。
レイラが訓練フロアの中央に立っていた。蒼色の訓練服に、髪を一本に纏めたポニーテール。パーティーの夜のドレス姿とは別人のように、戦士の顔だった。
「来てくれてありがとう」
「……で、大事な頼みって」
レイラが、一拍置いてから言った。
「——私と、模擬戦をしてほしい」
刃が止まった。
「……模擬戦」
「本気じゃなくていい。今の私との差を知りたいの」
レイラの蒼い瞳は真剣だった。蒼氷姫の仮面ではない。世界ランキング3位の計算でもない。ただの、レイラ・アシュフォードとしての目だった。
「世界3位になった。Sランク超えの深淵の主を倒した。……でも、あの氷壁の向こう側で何が起きたか、私は知ってる。あなたが3秒で終わらせたことも。私の全力よりもあなたの1%の方が上だってことも、たぶん分かってる」
レイラが一歩前に出た。
「でも、『たぶん』じゃ駄目なの。正確な距離が知りたい。今の私が、あなたからどれだけ遠いのか。目標のない努力はしたくないから」
刃はしばらく黙っていた。訓練フロアの白い照明が、二人の影を床に落としている。
「……何のために」
「いつかあなたの背中に追いつきたいから」
迷いのない声だった。
刃がため息をついた。長い、深い溜息。
「……本気は出せない。出したらこのフロアが吹き飛ぶ。あと怪我したら文句を言うな」
「分かった」
「あと1%が限界。……いや、1%でも多いかもしれないけど」
「いい。来て」
二人が向かい合った。
距離は10メートル。レイラが構え、魔素が全身に巡り始めた。蒼い光が体表を包み、氷の鎧が薄く形成されていく。氷の槍が右手に凝縮された。Sランク超えの深淵の主を内部凍結させた、あの全力の魔素。世界3位の、全開。
対する刃は——ジャケットを脱いで壁際に置き、Tシャツ姿で突っ立っていた。構えはない。武器もない。両手はポケットの横にだらりと下がっている。
(……1%。師匠に教わった素振りの、100分の1。……いけるか。いや、レイラ相手なら大丈夫だ。たぶん。たぶん大丈夫)
この「たぶん」が、刃の手加減の難しさを物語っていた。
「——行くよ」
レイラが動いた。
氷の槍が生成された。全魔素を注ぎ込んだ一撃。氷眼が刃の全身をスキャンし、最適な投擲角度を算出する。世界3位の全力に、氷眼のテクノロジーが乗った、最速・最精密の攻撃。
氷の槍が放たれた。空気を裂き、白い軌跡を描いて刃に向かう。
刃は右手を上げた。
素振りをした。名前のない、ただの横薙ぎ。師匠に「お前は才能がないからこれだけやれ」と言われて、何十万回と繰り返した動作の、100分の1の力。
風が吹いた。
素振りの風圧が氷の槍に触れた瞬間、槍は粉々に砕け散った。蒼い破片が訓練フロア全体に飛散し、宙を舞った。風圧はそのまま減衰せずにレイラに到達し——レイラの体を6メートル後方に吹き飛ばした。
氷の鎧が一瞬で崩壊した。レイラは床を滑り、壁に背中がぶつかる直前で自力で停止した。膝と片手を床についた姿勢。
訓練フロアに、氷の破片が雪のように降り注いでいた。
静寂が落ちた。
「……今の、1%」
レイラの声は震えていなかった。壁際で片膝をつき、乱れた銀色の髪を手で払いながら、刃を真っ直ぐに見ていた。
「……うん。ごめん、もう少し抑えればよかったかな」
「……いい。分かったから」
レイラは立ち上がろうとして、足がもつれた。氷の鎧が全壊した衝撃で、体中の魔素回路が揺れている。
刃が無言で歩み寄り、手を差し出した。レイラはその手を取って立ち上がった。
「……ありがとう」
「ん」
レイラは壁に背をもたれて座り込んだ。刃が隣に座った。訓練フロアの床は冷たいが、レイラの氷の破片が散らばっているせいで、もっと冷たかった。
しばらく、二人とも黙っていた。氷の欠片がゆっくりと溶けていく音だけが、広い空間に響いている。
「……刃、聞いていい?」
「何」
「私は、いつかあなたに追いつけると思う?」
刃が少し間を置いた。天井を見上げた。白い照明。ダンジョンの蛍苔よりも無機質で、正直で、嘘のつけない光。
「……分からない」
正直な答えだった。レイラの才能は本物だ。氷眼の解析能力、魔素制御の精密さ、戦術判断の速度。どれも世界最高水準に達している。しかし、刃と師匠の間にある「差」は——才能や努力では測れない、別の次元の話だった。
「……でも」
刃が付け加えた。
「今日より明日の方が近くなることは、間違いない」
レイラが顔を上げた。蒼い瞳が、少しだけ潤んでいた。泣いてはいない。泣く手前の、もっと深い場所にある感情が、瞳の奥で揺れていた。
「……うん。それで十分」
レイラは膝を抱えた。
「正直に言うとね。世界3位になった日、嬉しかった。でも、嬉しさの半分くらいは『刃に少し近づけたかな』って思ったからで。で、今日1%で吹き飛ばされて——ああ全然近づけてないって分かって。……でも、なぜか絶望しないんだよね」
「……なぜ?」
「分からない。たぶん——あなたが隣にいるからだと思う。追いつく相手が、こうやって隣に座ってくれるなら、道が見えなくても歩ける気がする」
刃は何も言わなかった。壁にもたれて天井を見つめていた。
(……師匠。「何のために強くなったのか」。まだ答えは出ないけど。こいつが追いつきたいと思ってくれるのは、悪い気がしない。面倒だけど。だいぶ面倒だけど)
氷の破片が全て溶けた。床に水たまりが広がっている。
「……そろそろ行くか。床が濡れてるし」
「うん」
刃が立ち上がり、手を差し出した。レイラはまたその手を取った。今度は、少しだけ長く握っていた。
「……刃」
「ん」
「今日の質問、まだ残ってる。あと6個」
「質問7つルール、まだ有効だったのか」
「当たり前でしょ。期限なしって言ったじゃない」
刃がため息をついた。レイラが笑った。訓練フロアに二人の声が反響し、冷たい空間が少しだけ暖かくなった。




