第38話「師匠の手紙」
協会の面談から3日が経った。
SNSの炎上は徐々に日常化していた。#最強のポーター は世界トレンドからは落ちたが、考察コミュニティの中では定番の話題として定着してしまった。毎日のように新しい分析が投稿され、刃の名前はもはや「ネットミーム」から「公然の謎」に格上げされている。
レイラの情報統制が機能しているおかげで、直接取材は来ない。しかし、刃が外出するたびにサングラスとマスクが必要になる生活は、明らかに「平穏」とは呼べなかった。
その日の午後。
刃はいつものようにアパートのポストを開けた。チラシと電気料金の明細書。それから——一通の封筒。
差出人の名前を見た瞬間、刃の手が止まった。
八雲 剛。
師匠からの手紙だった。
封筒は茶色の事務用封筒で、表書きは墨で書かれていた。達筆な楷書体。封蝋もなければ装飾もない。ただし切手の貼り方が几帳面で、消印は長野県の山間部の郵便局だった。
師匠は携帯電話を持っていない。パソコンも使えない。連絡手段は手紙か、直接会うかの二択だった。10年以上前から変わっていない。
刃は部屋に戻り、封筒を開けた。
中身は便箋1枚。師匠の筆跡は太くて力強い。一文字一文字に、打ち込みの重さがある。
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刃へ。
お前がまた世界に顔を出したのは知っている。山の中でもニュースくらいは見る。あの映像を見た時、お前が何をしたかは大体分かった。ただ、1億人の前を横切るのは読んでいなかった。お前は本当に俺の教えを守らんな。
まあいい。それよりも、一つ謝らねばならないことがある。
お前に嘘をついていた。
何の嘘かは、会った時に話す。手紙で書くようなことじゃない。顔を見て言わなきゃならん。
近いうちに山に来い。お前の都合でいい。ただし来る前に、一つだけ考えてこい。「お前は何のために強くなったのか」。答えを持ってこなくていい。考えるだけでいい。
体は壊すな。缶コーヒーは飲みすぎるな。
剛
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刃は便箋をテーブルに置いた。
飲みすぎるなと言われた缶コーヒーを開けた。一口飲んだ。ブラック。苦い。
もう一度、便箋を読んだ。
もう一度。
3回目。
「……嘘を、ついていた」
声に出した。自分の声が、妙に遠く聞こえた。
師匠が嘘をついていた。
何の嘘だ。
(……「お前は才能がない。だから基礎だけやれ」。あれが嘘だったのか?)
刃が師匠のもとで過ごした年月は長い。物心ついた頃から、師匠の山小屋で育った。朝から晩まで素振り。走り込み。体幹の鍛錬。師匠は決して「強くなれ」とは言わなかった。いつも言っていたのは「基礎をやれ」「謙虚でいろ」「お前は才能がないから、他の奴の100倍やらなきゃ話にならん」。
刃はそれを信じた。自分は才能がない。だから基礎だけを磨く。派手な技は覚えなくていい。ただの素振りを、何十万回と繰り返す。それだけが自分にできることだと思っていた。
しかし——その「ただの素振り」で、Sランク超えの真淵を一閃で両断した。
(……あれが「才能がない」人間の素振りか? 違うだろう。俺は——本当は、どれくらい強いんだ?)
刃は天井を見上げた。安アパートの白い天井。蛍光灯の光。
(……「外にはこれよりヤバい奴がゴロゴロいるから、謙虚に生きろ」。これも嘘だったのか? 師匠レベルの人間が世界にゴロゴロいるとは思えない。いたら、もっと大きなニュースになっているはずだ)
缶コーヒーが冷めていた。
(……嘘をついていた理由。なぜ師匠は俺に「才能がない」と言い続けたのか。俺を弱いと思わせ続けた理由は何だ)
答えは出なかった。師匠に会うまで、出るはずがなかった。
「……『お前は何のために強くなったのか』」
師匠の問いを口にした。
(何のために。……分からない。師匠に言われたから素振りをした。謙虚に生きろと言われたから隠れて生きた。目立つなと言われたから、Fランクのポーターとして地面の底で暮らしてきた。全部、師匠に言われたからやっただけだ。俺自身の理由は——)
刃は目を閉じた。
(……なかった。今までは)
目を開けた。
(……でも、今は)
レイラの顔が浮かんだ。「何があっても、私がいるから。隣に」
ガレスの声。「俺はお前の味方だ」
ミラの琥珀色の瞳。「あなたのこと、もっと知りたい」
パーティーでの喧騒。誰かが笑っている。誰かが拍手をしている。生きて帰ってきたことを、全員が喜んでいる。
(……守りたいものが、できたのかもしれない。面倒だけど)
刃は便箋を丁寧に折り、封筒に戻した。封筒をバックパックの——日本刀の隣に入れた。
「……来月、会いに行く」
独り言を呟き、缶コーヒーの残りを飲み干した。冷めたブラックは、いつもより苦かった。
◇ ◇ ◇
その夜。
端末の画面が光った。レイラからのメッセージ。
『今日、顔が違ったよ。何かあった?』
刃は返信を打ちかけて、やめた。もう一度打ちかけて、またやめた。3回目に、短い返信を送った。
『何もない』
レイラからの返信。即座。
『嘘が下手』
刃は端末を見つめた。レイラは分かっている。分かった上で、深追いしない。氷眼のセンサーなのか、ただの勘なのか。どちらにしても、レイラには刃の表情の微細な変化が見えている。
もう一度、返信を打った。
『……少し考え事をしていた』
返信。5秒。
『話せる時に話して。聞くから』
刃は端末を握ったまま、しばらく動かなかった。
この人に話すべきだろうか。師匠の手紙のこと。「嘘をついていた」という言葉。自分の正体に関わる、最も深い部分の話。
——今は、まだ。
でも、いずれ話す日が来るかもしれない。レイラになら。
返信を打った。
『……ありがとう』
送信してから、少し驚いた。自分が「ありがとう」を返信したことに。いつもなら既読スルーか、せいぜい「ん」で済ませていたのに。
師匠の手紙が、何かを変え始めている。自分の中の何かが。
端末を枕元に置き、布団に入った。
眠れなかった。天井を見つめたまま、師匠の問いが頭の中を回り続けていた。
(「お前は何のために強くなったのか」)
答えは出ない。でも、考えることをやめる気にもならなかった。
——それだけで、今は十分だった。




