第34話「5秒間の約束」
歓声が、まだ鳴り止まなかった。
深淵の主がホールの床に崩れ落ちてから、もう5分以上が経っている。全チームの探索者たちが拳を突き上げ、抱き合い、涙を流していた。Sランク相当の階層ボスを撃破した——その事実が、極限の緊張を一気に解放していた。
ミラが「お祝いのスープ作る!」と鍋を取り出し、紅炎団のカイルが「俺の秘蔵の酒もあるぞ!」と叫んでいる。ガレスは斧を壁に立てかけ、珍しく目を細めて口元を緩めていた。
レイラは仲間たちの祝福を受けながら、疲労で霞む視界の端に刃を捉えた。壁際でバックパックにもたれて欠伸をしている。いつも通りの、冴えない顔。いつも通りの、ポーター。
——しかし、その存在だけで安心できた。
(……終わった。終わったんだ。みんな無事で、誰も死ななくて——)
レイラが微笑みかけた、その時だった。
刃の表情が変わった。
欠伸をしていた顔が、一瞬で凍りついた。壁際にもたれていた背筋が伸び、目が深淵の主の亡骸に向けられた。レイラがこれまでに見たことのない——緊張の目だった。
(——刃が、あんな顔をしている。あの人が緊張するなんて、初めて見た。……ということは)
レイラの背筋に、氷が走った。
深淵の主が倒れた——はずだった。
しかし——刃だけが、気づいていた。
(……まだだ)
倒れた深淵の主の体から、魔素が消えていない。それどころか——増えている。凍結された体の内部で、何かが脈動を再開していた。心臓ではない。もっと深い場所。鱗の下、筋肉の奥、骨の芯に埋め込まれた「核」のような存在が、蒼い光を膨張させている。
(……脱皮する。こいつは倒れたんじゃない。外殻を捨てて、中身だけが——)
その瞬間。
深淵の主の漆黒の鱗が、一斉に砕け散った。
凍結された15メートルの巨体が空蝉のように割れ、中から「それ」が這い出した。歓声が悲鳴に変わった。
——真淵。
深淵の主の真の姿。
外殻を捨てた本体は、元の姿より二回りも小さかった。全長5メートルほどの蛇竜。しかし、その体から放たれる魔素の圧は、外殻状態の10倍以上。漆黒だった鱗は半透明の蒼に変わり、体内を流れる魔素の奔流が透けて見えている。6つだった目は2つに減ったが、その2つの瞳には底知れない知性と殺意が宿っていた。
Sランクを超えた存在。記録上、このレベルの魔獣が確認されたのは、世界でも片手で数えるほどしかない。
「——全チーム、退避!」
レイラが叫んだ。しかし遅かった。
真淵が咆哮した。音ではなく、純粋な魔素の衝撃波。ホール全体が揺れ、壁面の蛍苔が一瞬で消滅した。暗闇の中に、真淵の体から放たれる蒼い光だけが残った。
衝撃波でBランク探索者の大半が吹き飛ばされ、Aランクの探索者でさえ膝をついた。ミラが弓を構えたまま壁に叩きつけられ、地面に崩れた。ガレスが片腕で斧を壁に突き刺し、辛うじて体勢を保った。
「っ……! なんだこの魔素圧……!」
レイラは氷の鎧を即座に再展開し、衝撃波に耐えた。しかし、先ほどの全力戦闘で魔素の大半を消費している。氷の鎧は薄く、罅が入っている。
(——外殻は囮だった。私が全力を使い果たした後で、本体が出てくる。最初から、この形が本来の姿——)
真淵がレイラに向かって突進した。外殻状態とは比較にならない速度。レイラは氷の壁を展開したが、真淵の頭部が壁を粉砕し、レイラの体を弾き飛ばした。
レイラは地面を転がり、壁に叩きつけられて止まった。氷の鎧が完全に砕け、口元から血が流れた。
「レイラさん!」
ガレスが駆け寄ろうとしたが、真淵の尾の一振りで壁際に叩き返された。
配信ドローンが真淵の姿を捉え続けている。視聴者数は8,000万を突破し、なお増加中。世界中が、この絶望的な光景を見ている。コメント欄は恐怖と絶望で埋め尽くされていた。
『蒼氷姫やられた』
『なにこれ第2形態?』
『無理だろこれ』
『撤退しろ!』
『死ぬぞ!』
真淵がレイラに向かって口を開いた。蒼い魔素が口腔内に集束していく。さっきの外殻のブレスとは桁違いの密度。これを食らえば、レイラは——。
「——レイラ」
声が聞こえた。静かで、穏やかで、温かい声。
レイラが顔を上げると、刃がそこに立っていた。いつの間にか、レイラと真淵の間に。バックパックを背負ったまま。
「5秒でいい。あいつとカメラの間に壁を作ってくれ」
レイラは血を拭い、目を見開いた。
「……カメラを遮るため?」
「まあ、そんなとこ」
「……あなた、出るの?」
「仕方ないだろ。残業だ」
刃の声は、いつも通り面倒くさそうだった。しかし、その目は——レイラがこれまでに見た、あのスタンピードの夜と同じ目だった。静かで、揺るぎなく、絶対的な確信に満ちた目。
「5秒だけ、誰にも見えない空間を作ってくれ。それだけでいい」
レイラは立ち上がった。体中が軋む。魔素はほとんど残っていない。しかし——5秒分の氷壁くらいなら。
「……任せて」
レイラが両手を掲げた。残りの全魔素を、最後の一滴まで絞り出す。
「氷華展開——」
氷壁が生成された。真淵とカメラの間に。厚さ3メートル、高さ10メートルの巨大な氷の壁。さらに壁の表面から氷の霧が噴出し、ホール全体の視界を白く塗りつぶした。
配信ドローンの映像が、真っ白になった。
世界中の画面が、白い静寂に包まれた。
視聴者数は1億人を突破していた。その1億人の全員が、何も見えなくなった。
◇ ◇ ◇
氷壁の裏側。
白い霧の中で、刃はバックパックを降ろした。
バックパックの底から、布に包まれた一振りの日本刀を取り出す。鞘は黒漆。柄は使い込まれた麻巻きで、拵えは至ってシンプルだった。名刀でも業物でもない。師匠から「お前にはこれで十分だ」と渡された、ただの鉄の刀。
——ただし、この刀で振るわれる素振りの風圧が、エリアボスを消滅させたことがある。
刃は刀を抜いた。
呼吸を一つ。師匠に教わった呼吸法。全身の魔素が循環し、刀身に収束していく。しかしその魔素は外に漏れない。完全に内側に閉じ込められた圧縮エネルギー。外部センサーは何も検知しない。
真淵が蒼い光の中で刃を見た。2つの瞳が、初めて「恐怖」の色を浮かべた。
Sランクを超えた知性を持つ魔獣が、本能的に理解した。
——目の前の存在は、自分よりも遥かに上にいる。
真淵がブレスを放った。先ほどレイラの氷壁を粉砕した、Sランク超えの蒼い炎が刃に向かって奔流する。
刃は歩いた。ブレスに向かって。
そして——振った。
ただの横薙ぎ。名前のない、ただの素振り。師匠に「お前は才能がないからこれだけやれ」と言われて、何十万回と繰り返した、ただの一振り。
素振りの風圧が、ブレスを両断した。蒼い炎が左右に裂け、壁面を焼いた。
風圧はそのまま真淵に到達し——真淵の全身を、縦に一閃した。
蒼い光が消えた。
真淵の体が左右に分かれ、地面に崩れ落ちた。魔素の核が砕け、蒼い粒子になって霧散していく。
所要時間——3秒。
5秒には2秒余った。
刃は刀を鞘に戻し、ため息をついた。
「……やっぱり手加減が難しいな。もうちょっと静かにやりたかったけど」
刀を布に包み、バックパックの底に戻した。バックパックを背負い直し、水筒を取り出して水を一口飲んだ。
◇ ◇ ◇
5秒後。
氷壁が限界を迎え、砕け散った。白い霧が晴れていく。
配信ドローンの映像が回復した。世界中の画面に、再び5階層のホールが映し出された。
真淵は、跡形もなく消えていた。
ホールの中央に残っていたのは、蒼い粒子が舞う空間と、裂けた床と壁だけだった。
そして——膝をついたレイラと、その後方で水を飲んでいるポーターの姿。
世界が、凍りついた。
『え……消えた?』
『なにが起きた?』
『氷壁の中で何があったの?』
『蒼氷姫がやったのか?』
『いやあの状態で倒せるのか?』
『たったの数秒で?』
『意味わからん』
1億人以上の視聴者が混乱する中、ガレスが駆け寄ってきた。
「レイラさん……! 大丈夫ですか!」
「……大丈夫よ」
レイラは微笑んだ。魔素の完全枯渇で体が震えているが、蒼い瞳は穏やかだった。
「……私が、やったの」
世界に向けて、蒼氷姫は嘘をついた。
「氷壁の中で、全ての残り魔素を使って、内部凍結を仕掛けた。……もう立てないけど」
完璧な嘘だった。レイラの魔素が枯渇しているのは事実だ。氷壁を張ったのも事実だ。そしてレイラ以外に氷壁の向こう側にいた人間がいないことも、全員が「知っている」。Fランクのポーターは、当然、蒼氷姫の後ろで縮こまっていた——としか考えようがない。
ミラがレイラを支えながら、一瞬だけ後方を見た。ポーターが水筒の蓋を閉めている。
(……あの人、さっき真淵とレイラさんの間に立ってたよね。バックパック背負ったまま。氷壁が張られる前に、確かにあの位置に——)
ミラは口を開けかけて、閉じた。今は言うべき時ではない。ただ、琥珀色の瞳で確かに見ていた。
ガレスも見ていた。氷壁が張られる直前、レイラとポーターが言葉を交わしていたことを。しかし、彼もまた何も言わなかった。
(レイラさんがそう言うなら——そういうことにしておこう)
二度目だった。
配信のコメント欄が爆発していた。
『蒼氷姫覚醒確定!!』
『Sランク超えを単独撃破!』
『世界ランキング改定不可避』
『いやあの5秒で何やったんだ』
『あのポーター映ってたぞ最後』
『ポーター?』
『氷壁の前に立ってた奴』
『Fランクのポーターがあの場にいて無事って不思議じゃね?』
『たまたまだろ』
「たまたま」。
その言葉が、この日から世界中のSNSで流行語になることを、まだ誰も知らなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。ベースキャンプ。
レイラは医療テントで点滴を受けながら横になっていた。魔素枯渇からの回復には時間がかかる。
テントの入口の布が、微かに揺れた。誰かが入ってきた。足音はない。
「……起きてるか」
「起きてるわ」
刃が、缶コーヒーを1本持って立っていた。
「どこで手に入れたの……? 5階層に自販機はないでしょ」
「バックパックの非常用ストック。最後の1本」
刃がレイラの枕元に缶コーヒーを置いた。
「ブラック。お前は微糖派だったか。まあこれしかない」
「……ブラックでいい。刃が好きなやつがいい」
レイラが缶コーヒーを受け取り、一口飲んだ。苦い。温かい。
「……ねえ、刃」
「ん」
「5秒って言ったのに、3秒で終わったでしょ。知ってるんだから」
「……別に、急いだわけじゃないけど」
「残りの2秒、何してたの」
「……欠伸してた」
「…………」
レイラは笑った。魔素枯渇で体は動かないのに、笑った。涙が一筋、頬を伝った。
「……ありがとう。また、守ってくれて」
「守ったんじゃない。残業しただけだ」
「じゃあ残業手当、3倍にする」
「……それは嬉しい」
静かな夜だった。蛍苔の青い光がテントの布地を透過し、二人の影を柔らかく照らしている。
レイラが缶コーヒーを胸に抱えて目を閉じた。寝息が聞こえ始める。魔素枯渇の体が、限界まで頑張った報酬として、深い眠りを要求している。
刃はしばらくレイラの寝顔を見ていた。
(……よくやったよ、お前は。あの外殻のやつを一人で倒して、その後に5秒分の氷壁まで張って。普通なら死んでる。お前の根性は、師匠に紹介したいくらいだ)
レイラの銀色の髪が、蛍苔の光に照らされて淡く輝いている。穏やかな寝顔だった。戦場の蒼氷姫ではなく、ただの19歳の少女の顔。
(……缶コーヒー、最後の1本だったんだけどな。まあいいか)
刃はテントを出た。
5階層の静寂の中で、欠伸を一つ。
「……帰ったら缶コーヒーを箱買いしよう。経費で」
誰にも聞かれない独り言が、蒼い闇に溶けていった。




